第9話 白鯨号の厄介者
白鯨号での暮らしが始まって三日。蓮は早々に、この船での自分の立ち位置を思い知らされていた。
「おい、そこの新入り。甲板の水拭き、まだ終わってねえのか」
「す、すみません、今すぐ……!」
古参の水夫に怒鳴られ、蓮は慌てて雑巾を手に取った。エスペランサ号での日々と、驚くほど変わらない光景だった。剣は握れず、索具も登れず、羅針盤の読み方すら怪しい――そんな蓮に任される仕事は、結局のところ、甲板掃除や炊事の手伝いといった雑用ばかりだった。
「あの木の盾の一件、船長から聞いたぜ。とんでもない力らしいじゃねえか」
古参の水夫は雑巾がけをする蓮を見下ろしながら、疑わしげに続けた。
「けど、実際に見せてもらったわけじゃねえ。口先だけなら誰でも言えるからな」
「あ、あの、機会があれば、ちゃんと……」
「はっ、期待しないで待っとくよ」
古参の水夫はそう言い残すと、笑いながら持ち場へ戻っていった。蓮は俯いたまま、雑巾を握る手に力を込めた。
正直なところ、蓮自身も戸惑っていた。無人島で目覚めたあの力は、確かに本物だった。しかし、それを日常的にどう扱えばいいのか、まだよくわかっていない。強化するには対象への深い理解が必要で、思いつきでどうにかなるものではないのだ。
「蓮、少しいいか」
声をかけてきたのは、船の航海士だという女性だった。クールな眼差しに、隙のない立ち姿。名をヴェルミナ・ロークウェルという。
「は、はい、なんでしょうか」
「船長から、お前の話は聞いている。道具を強化する力、というものについてな」
ヴェルミナは腕を組み、値踏みするように蓮を見つめた。
「正直、私は懐疑的だ。理論として成立しない力を、私は信じない」
「そう、ですよね……」
蓮が肩を落とすと、ヴェルミナは少し意外そうな顔をした。
「だが、船長の見立ては当たることが多い。もし本当にそのような力があるのなら、興味はある。今度、実演の機会を作ろう」
そう言い残し、ヴェルミナは足早に去っていった。蓮はその背中を見送りながら、小さくため息をついた。
***
その夜、船倉の片隅で、蓮は静かに考え込んでいた。
甲板の隅で、誰の目にも留まらず過ごす日々。それは、エスペランサ号にいた頃とそう変わらない。ただひとつ違うのは、蓮の手に、あの力があるということだった。
「役に立ちたい……」
ぽつりと呟いた言葉は、船倉の暗闇に吸い込まれていく。
これまで蓮は、誰かの役に立った実感を、ほとんど持ったことがなかった。漁村では厄介者、艦隊では最下級の水夫。だが、あの力を使えば、初めて誰かに認められるかもしれない――そんな期待が、蓮の胸の奥に芽生え始めていた。
同時に、一抹の不安もあった。
期待に応えられなかったら。あの力が、まぐれだったら。
そんな考えを振り払うように、蓮は船倉に置かれた古い艦載砲に目を向けた。長年の潮風にさらされ、砲身は錆にまみれ、あちこちに亀裂が入っている。使い物にならないと判断され、廃棄予定の品だと聞いていた。
「……これ、少し見せてもらってもいいかな」
誰にともなく呟くと、蓮はその古い大砲に、そっと歩み寄った。




