第65話 風を強化する
光の存在――蓮たちが、やがて「もう一人の管理者」と呼ぶようになるその存在は、静かに姿を消した。
「奴の狙いは、この世界の自然法則そのものの掌握、ということか」
イザベラが、険しい表情で呟いた。
「ザガレスは、どうなるんだ」
ガイウスの問いに、力なく座り込んでいたザガレスが、静かに口を開いた。
「私は、もう、あの者の駒としての役目を、終えたのだろう」
ザガレスの声には、以前の傲慢さは、もはや欠片も残っていなかった。
「私は、弱肉強食こそが、この世界の理だと信じていた。だが、あの者の理念は、私が思っていた以上に、冷徹で、そして――空虚なものだった」
その言葉に、蓮は、複雑な感情を抱いた。かつて、多くの弱小勢力を苦しめた張本人であるザガレス。だが、今、目の前にいるのは、その野心の果てに、利用され尽くした、ひとりの哀れな人間の姿だった。
「詳しい話を、聞かせてください」
蓮の言葉に、ザガレスは、静かに、これまでの経緯を語り始めた。
***
ザガレスの話によれば、光の存在――「もう一人の管理者」は、これまで密かに、世界各地の気候を操作する実験を続けていたという。
「風を、意のままに操る技術。それこそが、奴の力の、最初の段階だった」
ザガレスは、力なく続けた。
「奴は、まず、貿易風そのものを支配下に置くことで、この世界の航路そのものを、掌握しようとしている」
「貿易風を、支配下に……」
蓮は、その言葉の重みを、深く噛みしめた。もし、世界中の風の流れが、悪意ある者の手に握られてしまえば、この海に生きるすべての人々の営みが、根底から脅かされることになる。
「阻止しなければ」
イザベラが、静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「だが、どうやって」
「俺が、対抗する力を、身につけるしかないと思います」
蓮は、静かに、しかし確かな覚悟を込めて答えた。
「もう一人の管理者と同じように、俺も、風そのものを、理解し、強化する必要があります」
「風を、強化する、というのか」
ヴェルミナが、驚いたように尋ねた。
「これまでの強化とは、規模が違いすぎる。船の帆一枚を強化するのとは、わけが違うぞ」
「わかっています」
蓮は、静かに頷いた。
「でも、やらなければ、この世界の均衡そのものが、崩れてしまいます」
***
それから数ヶ月、蓮は、世界中の気象学者、航海士、そして、シズカ率いる海洋教団の知見を総動員し、風という、これまでで最も広大で、捉えどころのない対象への理解を、深めていくこととなった。
「貿易風の生成される仕組み、季節による変化、そして、それを司る、より根源的な自然の法則――」
蓮は、これまでのどの強化よりも、遥かに広範で、深い理解を積み重ねていった。
そして、ある日、蓮は、ついに、その理解が、ひとつの臨界点に達したことを、確かに実感した。
「やります」
蓮は、静かに、世界の海原に向かって、両手を広げた。
――この世界を巡る風の流れを、完全に理解させてくれ。そして、その均衡を、正しく保つ力を、俺に与えてくれ。
これまでで最も大きな願いを込めて念じた瞬間、蓮の全身が、これまで見たことのない、壮大な光に包まれていった。
世界中の海に、静かに、しかし確かな変化が訪れ始めていた。蓮の理解が、風そのものへと、静かに、しかし確実に、及び始めていた。




