第55話 水圧という壁
世界海洋連邦の建国から一年が経った、ある日のことだった。
「船長、少し、お耳に入れたいことが」
シズカが、珍しく緊張した面持ちで、イザベラのもとを訪れた。
「教団に伝わる、古い伝承の中に、気になる記述を見つけました」
シズカが広げたのは、これまで見たどの海図にも記されていない、海域についての記録だった。
「『世界の果て』と呼ばれる海域です。どの海図にも、その先が記されていない、完全な空白地帯」
「海図の空白域、か」
イザベラが、興味深そうに呟いた。
「伝承によれば、その海域には、巨大な渦潮が存在するとされています」
シズカは、慎重に続けた。
「そして、この渦潮を突破した者は、これまで一人もいないと」
蓮は、その説明を聞きながら、ふと、あの日感じた違和感を思い出した。
――なぜ、俺の力だけ、上限がないんだろう。
世界海洋連邦の建国以来、蓮の中には、ずっとその疑問がくすぶり続けていた。あらゆる道具を、際限なく強化できるこの力。理解を深めれば深めるほど、その効果は、どこまでも高まっていく。まるで、この力自体に、意図的に「上限」が設けられていないかのように。
「もしかしたら、その渦潮の先に、何か、この力の真実に繋がる手がかりがあるかもしれません」
蓮が、そう口にすると、イザベラは、真剣な表情で頷いた。
「よし。次なる航海の目標を、その世界の果ての渦潮とする」
***
「大渦潮」と呼ばれる海域への航海が始まって数週間、艦隊は、これまでのどの航海とも異なる、異様な緊張感に包まれていた。
「船長、外縁に近づいてきています」
見張りの報告に、蓮は甲板から、遠くに見える異様な光景を見つめた。
水平線一帯が、巨大な渦を巻きながら、絶え間なく轟音を立てている。近づくだけで、船体全体が、これまで経験したことのない振動に見舞われた。
「これは……」
「船体が軋んでいます!」
乗組員の悲鳴じみた報告に、蓮は慌てて船体の状態を確認した。
強化された旗艦であっても、渦潮の外縁が生み出す水圧は、これまでのどんな強化でも想定していなかった、異次元の負荷を船体に与えていた。
「一旦、退避しましょう!」
ヴェルミナの指示で、艦隊は渦潮から距離を取った。
「あれが、水圧という壁、か」
イザベラが、遠ざかる渦潮を見つめながら呟いた。
「これまでの強化では、太刀打ちできそうにありません」
蓮は、自分の船体強化の限界を、改めて突きつけられた思いだった。
「蓮、大丈夫か」
「はい……。でも、これは、正直、これまでとは桁違いの理解が必要になりそうです」
蓮は、遠くに見える渦潮を見つめながら、静かに、しかし確かな決意を固めた。
「水圧そのものに耐えられる船体を、作らなければなりません。今までの理解の延長では、たぶん足りない」
『蓮殿、私の記憶の中に、失われた文明が研究していた、水圧耐性に関する技術の断片があるかもしれません』
ゼロ号が、静かに申し出た。
「頼む、ゼロ号」
こうして、蓮とゼロ号、そしてドルシスを中心とした、これまでで最も困難な強化への挑戦――水圧という、目に見えない巨大な壁を突破するための研究が、始まることとなった。
世界の果てに眠る真実へと辿り着くための、最後にして最大の挑戦が、静かに幕を開けようとしていた。




