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アノンには子育てをする余裕がなかった。
子供を産んだその日だけは休めたが、それ以降もベッドの上でも書類仕事を熟した。
外向きの仕事はライトとアントンが担い、内向きはロードとアノンが担う。
だが、アルトが産まれる少し前から、ロードが目覚ましく衰えて来て、体を壊し始めていた。
それでも彼は無理をしてアノンのサポートをしようと頑張ってくれたが、体力にも限界があった。
そしてアノンは産後2ヶ月後には執務室で働き始めていた。殆どの時間乳母と過ごすアルト。それでもアノンはアルトを愛していたし、少しでも側にいたかったから、少しでも時間を詰めて、自分の休息よりもアルトに会うことを優先したりもしていた。
アルトが5歳になった誕生日。
家族でお祝いをしようと集まった時、アノンにプレゼントを渡されたアルトがお礼を言った。
「ははうえありがとうごじゃいましゅ」
少し舌足らずでもアノンの事を母上と言ってくれたアルトに、アノンは嬉しくて抱きしめた。
「アルトおめでとう」
だが、その後アノンから離れたアルトが向かったのは、マチルダのところだった。
「おかあしゃまぼくちゃんとごあいしゃつできちゃ?」
「まぁ偉かったわねアルト、ちゃんとできていたわ」
アノンは二人の会話を聞き、木槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。
「何故アルトが君の事を母と呼ぶんだ!」
その会話に激高したのはライトだった。
外向きの仕事が主なライトも、あまりアルトには会えずにいた。
だからこの場でマチルダの事を、アルトがお母様と呼んでいることを、初めて聞かされたのはライトも同じだった。
「まぁそんなに怒らないで、忙しいあなた達の代わりにマチルダが母親代わりをやってあげてるのよ感謝こそすれ、その態度はないと思うわ」
「お母様!そんな事私達は頼んでおりません!」
ミネリタの言葉にアノンも反論したが、そこで大人たちの大声にアルトが怯えてしまった。
「ぼく、ごめなしゃい」
「アルトが悪いんじゃないのよ」
アノンが、怯えるライトの元に行き、彼を抱きしめて慰めたが、アルトはアノンに抱かれても身動いで嫌がった。
「いや!」
アルトの態度に呆然とするアノン。
そのアルトはマチルダの方へと向かおうとしたものの、そのアルトをライトが抱き上げる。
「アルト、お前のお母様はアノンだけだ」
ライトはそう言って乳母へとアルトを手渡した。
「少し外してもらえるか」
「畏まりました。申しわけありません、奥様からアノン様の承諾を得ていると聞いておりました」
「いや、私達が悪い。乳母のせいではないよ」
乳母とアルトが部屋を出たあと、ライトがミネリタとマチルダに告げる。
「いい加減にしてもらえませんか、あまりにも勝手なことをされるなら、私はアノンとアルトを連れて家を出ます」
「な、何なの!この恩知らずが!私が了承しなかったら貴方今頃野垂れ死んでたのよ!」
「そうかもしれませんが、その分の働きはしていると思います。私達は、貴方とマチルダの為の費用を必死で稼いでいるではないですか」
「な、なんと言い草なの。平民のくせに!」
マチルダもライトに噛み付くが、ライトはそんなマチルダを見て鼻で嘲笑った。
「何を言ってるんだ、君も同じ平民だろう」
マチルダは自分が成人して、この家に来た時に雇用契約を結んだことで、シトロン伯爵家の籍を抜けた事を知らなかった。
あのまま卒業後、伯爵家に帰っていたら、彼女はまだ貴族でいられたのに、そんな事は思いも浮かばなかったのだろう。アノンに説明されて、やっと自分が平民になったことを理解したようだった。
「そんな⋯」
「それよりも、どうしてアルトにお母様と呼ぼせているの?」
「あらっ、だっていつも一緒にいるのはマチルダなんだから、当たり前じゃない」
平民になっていた事実で、ショックを受けて固まっているマチルダの代わりに答えたのは、ミネリタだった。
ライトと暫く押し問答していたが、結局その場はお開きになった。
その夜、ライトからアノンは暫く仕事を休むように言われる。
「アノン、ごめんな。俺がしっかりしていれば、君に執務までさせずに済んでいたのに」
「ライトのせいじゃないわ。もう私、お母様が分からない!何がしたいのかしら?」
「この家を出よう」
「でも⋯私達が居なかったら⋯」
「だから仕事は俺がする。アントンが協力してくれて、人を雇うことも考えてるから。だからこの家の離れを修繕してそちらに親子三人で移ろう」
ライトの提案で、随分昔から誰も住むことなく、倉庫のようになっていた、庭に建てられていた離れを急いで修繕して、親子三人で住むことになった。
暫く不貞腐れたような態度だったアルトだったが、アノンが仕事を休んで常に一緒にいたことで、段々と落ち着きを取り戻したようで、アノンをお母様と呼ぶようになった。
だが、それから一年もしないうちに、問題が発生し始める。
アノン達が母屋から離れたことをよく思わないミネリタによって、アノンの代わりに雇われた執務を担う使用人達を、次々と解雇された。
理由はただ、ミネリタがその者たちを気に食わないと言うそんな事だった。
それで結局はアノンが執務に戻らなくてはならなくなった。
だがその頃にはアルトもマチルダを母とは呼ばなくなっていたし、二度とそんな事にはならないとミネリタが誓ったこともあったし、タイミングが悪く、その頃に事業が低迷し始めて来たこともあり、ライトとアントンが殆ど帰れなくなっていた事も重なった。
アノンが執務に戻るしか方法がなくなっていた。
それからあまり変化もなく、アノンは只ひたすら忙しい日々に心も体も疲弊していた。
そうして10年が経過したある日、ライトとアルト、マチルダの三人が忽然と姿を消した。




