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静かなエントランスには、嬉しさを表現するように、椅子に座り床に届かない足をユラユラと揺らすアノンと、今日のアノンを特別可愛くしてあげようと、アノンのブルネットの髪と格闘するユナがいた。
そこにコツコツコツと2階から足音が聞こえた。
その音が耳に入ったアノンは自分がスッカリ彼の存在を忘れていた事に気付いて、申し訳無さで胸が一杯になってしまった。
「この家は朝から走るのが日課ですか?」
呆れたようにそう言いながら、階段を降りてくるのはアントンだ。アノンと彼が会うのも、父ジュノンと同じく1年半ぶりなのだ。
元々今日の夜に到着予定だったジュノン達は、思ったよりも早くに日程が進み、少しでも早くアノンに会いたいと願うジュノンの気持ちを慮って、そしてそんなジュノンが突然来て、留守にでもしていたらがっかりするだろうと、そんな思いやりの先触れをアントンは携えてやって来てくれたのに、アノンは燥いで、彼の存在を忘れてエントランスに来ていた。
「ごめんなさいアントン。私、貴方にも本当にとっても会いたかったのよ」
アノンの説得力のない言葉だったが、アントンにはアノンの気持ちもわかるので、苦笑しながら頷いた。
「大丈夫です、お嬢様。お嬢様の気持ちは私にはちゃーんと届いておりますから」
アントンはそう言いながら、跪いてアノンの目線に合わせてくれる。
ジュノンの侍従のアントンは、巻戻り前もアノンに誠実に接してくれた。難しい執務を教えるときも、幼いアノンにもわかるように工夫してくれたし、アノンが成人するまでは、アノンの何十倍も子爵家の為に働いてくれていた。
それは決してミネリタの為ではなく、アノンの為だという事は、誰よりもアノンが知っている。彼はジュノンの代わりとなってアノンを見守ってくれていたのだ。
それでもやはり、父と比べるとアントンよりも父を願ってしまうのは、ジュノンに対してだけは、アノンは実年齢の年相応になってしまうからなのかもしれない。
巻き戻り前に、アノンが大人になって接した人や全く関わりがなかった人には、どうしてもその時の感覚が蘇って、巻き戻り後の接し方や言葉使いなども大人びてしまう。
だけどジュノンだけは、巻き戻り前にアノンが見た9歳で止まっているのだ。
そして奇しくも今アノンは9歳だ。
ジュノンの顔を見るまでは、アノンは少しだけ不安でもあった。
この国に来ると決めたのはジュノンだけど、それまでに何か起きて《《また》》会えなくなるのではないか。そんな不安を抱えていたから、アントンの訪いも嬉しかったけれど、何よりもジュノンがすでに《《無事に》》この国にいる事が嬉しかった。
「本当にごめんなさいねアントン。でも私、お父様が《《ちゃんと》》生きてるって思ったら、つい燥いでしまったの」
アノンの言葉に、ユナもアントンも胸がつまって、ユナは髪に巻くリボンをギュッと握りしめ、跪いていたアントンは、アノンの小さな手を取り握りしめてくれた。
その二人の力が、アノンの心をふんわりと優しく包んでくれているようで、アノンは涙が溢れそうになる。
「だめね、私。巻き戻ってから泣いてばかりなの。前の時は泣く暇もなかったから、その反動かしらね」
泣かないように、努めて明るく戯けたように言ったのだが、その内容は明るくなりそうにもなかった。
苦難の人生を歩んだアノンは、前の時に《《泣く暇》》さえも与えてもらえなかったのかと思うと、アントンとユナは、全く覚えてはいないが、自身の責任を痛感してしまうのだった。
◇◇◇
アノンとユナが住む家は、ハイザード王国の王城の裏門に程近い、民家の立ち並ぶ中の一画にある。
表門に近い方には、ハイザード王国の高位貴族の家が並んでいるが、裏門の方は専ら城で働く平民の妻帯者たちの居住区になっていた。
その中の一軒をアイジェットは、アノンとジュノンに用意してくれた。
アノンの養父になるリジッドは、スカイナ王国の大使館の方に部屋を持っている。
周りに住む者達が、王宮で働く者が多いため、この居住区は警備が万全だった。
騎士団が常に見回りをしていたし、通りの角には必ず騎士が一人立っていた。
だから、ユナとアノンの女二人でも、安全に暮らす事が出来ていた。偶に大使館から届け物があったりしたのも大きかった。
そのおかげで、孤児の平民ということになっているユナでさえも、侮られることがなかったのだ。
アイジェットがアノンたちの生活を万全に差配してくれたおかげで、アノンはこの国に来て平穏に過ごしていた。
だからその音もちゃんと耳に届いた。
馬車が普段通っていても、いつもはこんなに慌ただしい音なんてしない。皆この通りに慣れているからだ。少しだけ道幅が狭いので、通りに慣れない御者は苦労している。
誰かがこの家にやってきたのは明白だった。
御者が馬を止める為に、手綱を引く声も聞こえる。
「お父様!」
アノンは、やって来た御者から、訪問の声がかかる前に、待ちきれずに玄関の扉を開いた。




