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「アノン様!走らないでください!」
ユナの大きな声が、小さな家に響き渡る。
アノンはその日、というよりその事が決まってからずっと燥いでいた。
そして今日はとうとう《《その日》》なのだ。
「じっとなんかしてられないわ!」
アノンは玄関に向かって走りながら、ユナの諌める声に背を向けて張り上げた。
アノンは明日9歳の誕生日を迎える。
それに合わせるかのように、ジュノンがこの家にとうとうやってくるのだ。
長かった。
7歳の時に別れてから約一年半。
父娘が想像していたよりも長く会うことが叶わなかった。
(お父様に漸く会える!)
父娘用に与えられた家の、エントランスに置かれた椅子まで辿り着いた。
大人用の椅子なので少し座高が高めになっている。アノンはそこに「えいやっ!」と勢いをつけて登り座った。
巻戻り前のとき、アノンは標準よりも背が高かったが、何故か今は標準ほどだった。環境で背の高さが変わるのか定かではないが、巻戻り前との比較した上で、アノンの身に起こった大きな変化はそれだった。
アノンに漸く追いついたユナが、だいぶ乱れたアノンの髪を丁寧に梳いてくれる。
朝の仕度をしてる最中に、アントンからジュノンがあと一時間ほどで着くと知らされた。髪を梳いている途中だったアノンは、それから思わず走り出してしまっていた。
ユナのポケットからは、少し色褪せた赤いリボンが覗いている。
それはアノンの8歳の誕生日に、ジュノンがアイジェットを介してアノンに届けてくれたプレゼントだ。
その日から欠かさずアノンはそれを身に着けている。それを父に見せることができる!
「お嬢様、リボンは逃げませんからちゃんと前を向いてください」
アノンはリボンを横目で見ていたつもりだったが、しっかりと首を横に向け、ユナのポケットを凝視していたのだ。
「ごめんなさい」
素直に謝ってアノンは前を向く。
あの運命の日から、アノンはユナとずっと二人だった。それからはユナが母親のようにアノンを育ててくれている。
アノンの中身は30代だから、頭では理解していても体が小さすぎて思うように動けない。そんな所のフォローもユナがずっとしてくれていた。ユナの言葉に大人しく前を向いたアノンは、この日までを振り返る。
盗賊に扮した、前ハウケン伯爵の知り合いに連れられて、ハイザード王国にアノンとユナはやって来た。
途中の偽装工作も彼等は完璧に熟してくれた。
その日着ていたアノンとユナの服を、別々の場所に切り刻んで汚して捨ててくれたり、靴だけ谷底に流したりと、その様子を指示する男性を見つめながら、アノンはいつも感謝していた。
ハイザード王国までは2週間を要した。
隠れ屋を転々と移動したのと、一番近い隣国との隣接したジェルバン子爵家の領地を通れない為、スカイナ王国を出国するだけでも大変だった。
「お嬢さん、大丈夫。ちゃーんと無事に届けますよ。叔父貴が初めて俺を頼ってくださったんだ、その機会を与えてくれたお嬢さん達には感謝しとるんです」
旦那と皆から呼ばれるその人は、前伯爵を叔父貴と呼んでいるようだった。
二人の間に何があったのかは聞かされぬままだったけれど、彼はアノンとユナを丁重に扱ってくれた。名を知らぬほうがいいからと言われて、アノンたちはその人を“旦那さん”と呼んでいた。
ハイザード王国になかなか辿り着けずにいて、不安な顔をするアノンにその時もそうやって優しく声をかけてくれた。
連れて行かれたのは、この2階建ての家だった。
巻き戻り前の時に、最期を迎えた離れにも似ていて、そこに着いたときには、アノンは一瞬ゾッとした。
だがその時、アノンの小さな手をユナがギュッと握ってくれて、不安は忽ち一掃される。
(ユナが一緒にいてくれる)
そう思えば、自分はあの時と違い一人なんかじゃないのだと安堵した。
アノンに与えられたこのハイザード王国での名は『アノン・サージス』ユナはユナのままだった。ユナもスカイナ王国で過ごした人生全てを捨ててアノンに着いてきてくれた。
アノンは、ハイザード王国の孤児院から、サージス家という平民の家に引き取られた娘という事になっていた。
あとから会ったアイジェット曰く、孤児を一人作るのは簡単なのだそうだ。
だからユナもそこの出身の平民ということになっている。
サージスはアイジェットのこの国での部下らしい。
だが、リジッド・サージスと知り合って話してみると、彼は元々スカイナ王国で、長年王妃の生家の執事をしていたのだと知った。
引退後にアイジェットの補佐としてこの国にやってきて、戸籍もこちらに移していたのだ。
老齢と言うには少しだけ若く見えるリジッドは、あちらこちらの国をそのまた部下とともに飛び回っていて、滅多にハイザードにも留まっていなかった。彼は死ぬまで旅をするのだとアノンに会った時に話してくれた。
若い時に奥様を亡くした彼は、奥様の希望だった旅をする生活を実践しているのだと教えてくれた。
「妻は忙しい私に常々言っていたんです。私が引退したら二人で世界中をゆっくり旅をしようって。その願いを叶えてあげる事が私は出来なかった。その前に彼女は病魔に依ってあの世に旅に出たんです。だからゆっくりと旅をするのは彼女への裏切りです。忙しく飛び回って、そこに彼女の名を刻むのが、今の私の仕事なんです」
リジッドと奥様の間の事を詳しく知らないアノンは、リジッドの贖罪に口を挟めない。
彼はアノンにこの国で生きるための戸籍を与えてくれた。
彼には、哀しいばかりではなく、少しでも穏やかな人生を歩んで欲しい。贖罪の旅の中で小さな喜びでも見つけて欲しいと、彼の奥様の代わりに願うアノンだった。




