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その日ジュノンは、友人と新規事業を立ち上げる為、新しい仕事場への視察を兼ねて出かけていた。その行き掛けに事故にあったのだ。
友人夫妻とジュノンの乗った馬車が、暴走馬を避けた時、横転してしまったのだ。
運悪く、少し斜面になっていた場所だったため、二転、三転と馬車は転がってしまい、助け出された時は、既に三人とも息絶えていた。
その知らせを受けたミネリタは倒れてしまい、葬儀の段取りも、執事や家令が中心になって執り行われた。
アノンは大好きな父の突然の死に呆然として、葬儀では涙が出てこなかった。
悲しみが押し寄せたのは、その日の夜だ。
ベッドに横になってから、父の笑顔や言葉を思い出し、アノンは涙が止まらなかった。
そしてそれ以降、アノンは泣けなくなってしまった。正確に言えば泣く暇などなくなったのだ。
母ミネリタが悲しみから床を上げても、彼女は全く役に立たなかった。それもそのはずで、ミネリタは執務などしたことがないのだ。
いつもサインしかしていなかったミネリタには、領地の執務の判断は出来なかった。
だからといって、爵位を返上するわけには行かない。そんなことをすれば、貴族ではなくなってしまうため、ミネリタは爵位にはしがみつくため策を高じた。
ジュノンの死から立ち直れないジェルバン子爵家は、暗雲が立ち込めていた。
父の葬儀から2日後、アノンは夕食後にミネリタから呼ばれた。
執務室に、あまり足を踏み入れた事のなかったアノンは、何か怒られるのだろうかと不安な気持ちでその部屋に入った。
中にいたのは、執事と家令、そして父の侍従に母ミネリタだった。
「アノン、お母様はお父様が居なくなって、もう死んでしまいそうなの」
ソファにアノンが座るのを待って、そうミネリタは切り出した。
「⋯⋯お母様」
「でもね、あなたが居るから生きて行けるわ。あなたもそうでしょう?あなたも私が居るから生きていけるわよね」
「⋯⋯⋯はい」
アノンは母ミネリタが何を言いたいのか分からなかった。お母様が居るから生きていける?お母様は大好きだけど、それじゃあ駄目なのかしら?
9歳のアノンには母の意図が全くわからずに、戸惑うばかりだった。
「だからね、あなたに死にそうなお母様を助けてもらおうと思うの。手伝ってくれるかしら?」
「お手伝いですか?はい、がんばります」
「まぁやっぱりアノンはいい子ね」
その時、ミネリタ以外の大人たちがアノンを不憫な目で見つめていた事に、アノンは気付けなかった。アノンにしてみれば、母のお手伝いを了承しただけの話である。
「アノンいらっしゃい」
対面にいたミネリタが両手を広げてアノンに呼びかける。ジュノンにいつも寝る前にされていたハグを思い出し、ジュノンが亡くなってから、屋敷中に流れる不穏の空気の中、アノンはずっと寂しさを我慢していた。
そんなアノンに、ミネリタのその仕草は毒だった。
「お母様!」
アノンはソファから降りて、ミネリタの胸に飛び込んだ。優しく頭を撫でながらの抱擁は、ジュノンの温もりを思い出させて、アノンは泣きそうになった時、ミネリタからつぎの言葉がかけられ、涙が引っ込んだ。
「じゃあ明日から領主のお仕事を学んでね。ここにいる方たちが教えてくださるわ」
驚いたアノンは、顔を上げてミネリタを見つめると、ミネリタは途端に悲しそうな顔をアノンに見せた。
「どうしてお返事してくれないの?お母様のお手伝いしてくれるのでしょう?」
「えっ、うん、わかりました」
「まぁそれでこそジュノンの子よ。私達の娘よ」
アノンの返事に満足したミネリタは、もう一度アノンを抱きしめた。体を離したあとは、それ以上の話はなかったようで、満足したのか「じゃああとはお願い」と言って、自分の部屋へと帰っていった。
残されたアノンの肩を優しくトントンと叩いたのは、執事のロードだった。
「お嬢様、申し訳ありません。大旦那様方も居られない今。我々使用人だけでは限界もございます。大変難しいとは思いますが、明日から執務を教えることになります」
数年前に前子爵と父方の祖父母の前辺境伯夫妻も病で亡くなっていた。
アノンはロードの言葉に、まだよくわからぬまま頷いた。
そして次の日から執事達によって、アノンへの領主教育が始まる。彼らが教えるのはひたすらに領地に関する物と、子爵家が携わっていた事業のみに特化していた。
交渉事などは父の侍従や執事が担い、アノンが頑張るのは書類作成が主だった。
拙い字で必死に書き上げる書類は、始めはちんぷんかんぷんで、理解不能だった。
それでも父が頑張っていた領地の為にと、必死に覚えた。お転婆の9歳のアノンは、そのうちにいつも書類に目を通して、眉間に皺を寄せる見た目だけなら、気難しい子供になっていった。
そんな暮らしの中半年が過ぎた頃、マチルダ・シトロンがジェルバン子爵家にミネリタに連れられやってきた。
マチルダは、ジュノンとともに亡くなった彼の友人の娘だった。
彼女は鮮やかな金髪に青い瞳で、昔からミネリタが憧れて止まない、2つの素養を持つ少女でアノンとは同じ年だった。
「アノン、あなたと同じ年なの。仲良くできるわよね」
「マチルダ・シトロンです。私より少し早く生まれたのでしょう。今日からお姉様と呼んでもいいかしら?」
「⋯⋯⋯」
どうして彼女がジェルバン子爵家に住むのか、よくわからないまま、疲れた頭を振り払ってアノンは極力愛想よく挨拶をした。
「アリエリーノ・ジェルバンです。よろしくお願いします」
マチルダのお姉様発言を了承することなく挨拶したアノンに、反応したのはミネリタだった。アノンにはそんな意図も何もなく、ただ愛想よくしたつもりだった。
「まぁ、アノンったら!お姉様と呼ばせてとマチルダちゃんが言ってるんだから、快くいいわと言ってあげなきゃ!いっつも書類ばっかり見てるから、そんな愛想がなくなっちゃうのよ。マチルダちゃんごめんね。きっとこの子照れてるの。アノンの事はお姉様と呼んであげて」
アノンは精一杯の愛想を母親から否定されて、そのことが悲しくて、それ以外の事には気付けなかった。
エントランスで繰り広げられるその挨拶を、周りで見守る使用人達は苦い物を噛んだような顔で皆見つめていた。
『幼いアノン様に書類仕事を押し付けてるのは、あなたじゃないですか!』
使用人達の総意に気付けないのは、ミネリタとアノン、奇しくも当事者の二人だった。




