1
よろしくお願いします
薄っすらと目を開ける。
昨夜の発作はかなり堪えた。
きっとそろそろお父様がお迎えに来る頃ね。お父様にやっと会えるのだわ。
アノンは、そんな事を思いながら開けた瞼だった。
その目に映ったのは、いつものくすんだ天井、常に薄暗い部屋。病人に悪いからと、随分前から雨戸も閉じられ、カーテンすら開いてもらえない。離れのこの部屋に訪れる使用人すらも最近は疎らだった。
《《あの日から》》、アノンはずっと気が滅入ったまま、最期を迎えようとしている。
ひとりぼっちの部屋でアノンは今人生を振り返る。それはアノンが意図したわけではない。勝手に今までの人生が脳内に流れてくるのだ。
あぁこれが俗に言う“走馬灯”なのね。
アノンはそう思いながらも考える。ずっと働き詰めの人生だった。ふと思うのは、自分のために働いたことがあったのかな?
いつも人の為に頭と体を動かしていたように思える。そして、そのどれもが報われていなかった。
『だから俺にしとけって言っただろ』
聞こえたのは、ルートの声、彼はアノンの幼馴染だった。
大事な幼馴染とも、会えなくなってどれくらいの年月が経っているのだろうか。この言葉は彼の口から2回聞いた。彼と最後に会ったときが2回目だったように思う。
「そうねルート、あなたの言ったとおりだわ。そうすればよかった。次があるならきっとそうするわ、次があればだけど⋯」
声に出したつもりだけれど、既に乾ききった喉からは空気しか出ていなかったかもしれない。
後悔ばかりの人生、何一つ報われることのない人生に、疲れ果てたアノンの頬をひとすじ涙が伝った。
それがアノンの最期だった。
誰にも看取られず寂しく終わった35年だった。
と、思っていたが。
アノンは再び目を覚ます。
「アレッ?私死んだんじゃなかった?」
驚きすぎて思わず体をガバッと起こす。
(えっ?起こせる)
体を起こせる事に先ず驚いた。
そして、つぎに驚いたのは部屋が明るい事だった。
窓からは、カーテン越しにもわかる陽の光が、部屋に射し込まれている。
そして周囲を見渡す。
見覚えのあるその部屋は、幼い頃のアノンの部屋だった。
ゆっくりと横を見ると、自分が寝ていた隣には、幼い頃父方の祖父にもらった、お気に入りのクマのヌイグルミがある。
子供の頃は一緒に寝ていたのだ。
そして自分の手のひらがとても小さいことに漸く意識が向いた。
ワナワナと震えているとノックの音が聞こえる。
「おはようございます、お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
小さな声で確認するように、ゆっくりと部屋に入ってきたのは、子供の頃の専属メイドだったユナだった。
「まぁお嬢様珍しい!こんなに早く起きられたのは初めてではないですか?」
アノンが起きている事に気付いたユナは、ニコニコしながらベッドへとやってきた。手にはぬるま湯で絞った顔拭き用のタオルを握っている。
「お嬢様おはようございます。良いお目覚めですか?」
「うん、ユナ。わたしとってもいいきぶんだわ」
何が起こってこうなったかはわからないけれど、アノンは幼い頃に戻ったのだと理解した。
朝の仕度をしてもらう間、アノンは極力自然なようにと気を使いながら、今の自分の歳と日付を確かめた。
アノンのやり直しの人生は5歳から始まったようだ。
これなら間に合う。
前のように、何も報われない人生なんて真っ平だ。
新しく始まった人生は、自分のために生きよう。そう決意したアノンだった。
◇◇◇
アリエリーノ・ジェルバンは子爵令嬢だ。
愛称はアノン、大好きな父が付けてくれた。
ジェルバン子爵家は、スカイノ王国の、東の辺境伯家の一画を領地として任されている家だ。
ジェルバン子爵を名乗っているのは、アリエリーノの母ミネリタで、父は辺境伯家の三男で、子爵家に婿に入った。
だが実際の執務はほぼ全てにおいて父ジュノンが担っていた。
ミネリタは元来おっとりした性格で、令嬢としては申し分ないが、領主としては落第だった。任された領地は小さくても爵位を賜るには分不相応な女子爵だった。
そんなミネリタをジュノンは全力で支えていた。
そんな二人から生まれたのはアノンだけだった。アノンを産んだあとミネリタは、お産が辛かったと言って、もう二度と産みたくないと言い切り、その発言の時点でアノンは子爵家の跡取りとなった。
跡取りとなったが、特に厳しく育てられたわけではない。ジュノンの方針で、執務に関しては学園に入ってからで良いと言われていたから、一般的な教養とマナーのみの学習だけだった。
父が忙しくない期間は、親子三人で旅行に行ったり、通常でも偶に時間があれば、母のミネリタに刺繍を習って贈り合ったり、父と一緒に読書をしたり、楽しく過ごしていた。
思えば、アノンは幼少期が一番楽しく充実していたのだ。
アノンが7歳頃、子爵領の隣のハウケン伯爵領のルートが、母親に連れられてよく子爵家に遊びに来ていた。
隣の領地と言っても、お互いの家が、領地の端通しにある為、馬車で移動すれば30分くらいしかかからないほど近かった。
お転婆のアノンはルートが来たら、二人でよく野原を駆け回ったり木に登ったりと、凡そ令嬢らしからぬ遊びをして、よくドレスを引っ掛けてミネリタに怒られたりもした。
そんな幸せな日々はアノンが9歳の時に壊れて消えた。
ジュノンが事故に合い、帰らぬ人となった事で、アノンの人生は急転してしまったのだった。




