第35話 セシル、初めて自分で選ぶ
その日、俺は朝から落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
セシルが動くかもしれない。
しかも今度は、ただ怯えて揺れるだけじゃなく、自分から何かを選ぶかもしれない。
そういう予感が、ここ数日の空気の変わり方から濃くなっていた。
礼拝室で笑顔を教え込まれ、鏡の前で“これで合っていますか”と確認し、だんだん自分の笑い方まで分からなくなっていく。
そこまで行ってなお、何も選ばず白い檻の中へ留まれるなら、たぶん人はもっと楽だ。
でもセシルは、そこまで綺麗に壊れていない。
壊れかけている。
だからこそ、揺れている。
「……その顔、また何か考えていますわね」
学園へ向かう馬車の中で、リリアーヌがじっと俺を見た。
今日の彼女は薄い灰白のドレスだった。
色味だけ見れば穏やかだが、目は完全に仕事の顔をしている。
ここ数話で、彼女はかなりはっきり“次はセシル自身の選択を引き出す”と決めていた。
「考えてるよ」
「ろくでもない方向へ?」
「今回はかなり真面目だ」
「それはそれで不安ですわね」
ひどい。
「……セシルが本当に何か持ってくるなら、今日かもしれないって思ってる」
俺が言うと、リリアーヌの感情が少しだけ硬くなる。
「根拠は?」
「ない」
「ないのですか」
「いや、感覚としてはある」
「信用なりませんわ」
「でも《乳眼》的には、あいつもう限界近いんだよ」
そこを出した瞬間、彼女の耳がほんの少しだけ赤くなる。
「……朝からその単語を真顔で出すの、やめてくださいまし」
「だって能力名だろ」
「能力名が最低なのです!」
ごもっともだった。
だが、今はそこに笑ってばかりもいられない。
「セシルって、もう“白い聖女候補”の形を保つだけでかなり無理してる」
「ええ」
「だったら次の段階は、壊れるか、選ぶかだ」
「……」
「どっちに転ぶか分からないけど、今日あたり動いてもおかしくない」
リリアーヌは少しだけ目を伏せたあと、静かに言った。
「なら、受け止める準備をしておきましょう」
「うん」
「ただし」
「分かってる」
「まだ“救う”とは言わないこと」
「分かってるって」
「本当に?」
「かなり」
そこは本当に理解している。
今のセシルに必要なのは、雑に“助けてあげる”と言われることじゃない。
そんな言葉は、また別の白い檻になる。
必要なのは、自分で選んだ一歩が、消されずに残ることだ。
昼休み前、学園の空気はいつも通りを装っていた。
回廊を流れる令嬢たちの声。
食堂へ向かう男子生徒たち。
図書棟へ急ぐ下級生。
その全部が自然に見える。
でも《乳眼》で揺れを拾えば、ここ数日であちこちの気配が変わっているのが分かった。
セシルを中心にした“白い空気”はまだ強い。
だが、その強さの中に、微細な疲労と不安が混ざり始めている。
守る側も、本能では気づいているのだ。
今のセシルは、前と少し違うと。
「今日は、図書棟裏ではなく」
ミレイユが小声で言った。
「西回廊の旧温室跡です」
「何でそこ」
「人通りが薄く、けれど完全に不自然ではないからです」
「相変わらずこういう時の場所選びが上手いな」
「当然ですわ」
自分で言うな。
でも本当にその通りだから困る。
旧温室跡は、学園の端に残った小さな空き区画だった。
昔は珍しい花を育てていたらしいが、今はガラス屋根も外され、石の土台と古いベンチだけが残っている。
手入れは最低限。
だから逆に、短く誰かと話すには都合がいい。
「本当に来ると思いますの?」
ミレイユが聞く。
「来るかどうかは分からない」
「では」
「でも、“もし渡すならここ”って感じがする」
「感覚だけですのね」
「恋文の受け渡しじゃないんだから、そこまで言うな」
「似たような緊張感のお顔をしていますわよ」
それは否定できなかった。
旧温室跡へ着き、ベンチの横で待つ。
ミレイユは少し離れた物陰へ。
俺は表向き“少し一人で考え事をしている怪しい補佐役”くらいの顔で立つ。
数分。
風が吹き、枯れた蔓の残骸がわずかに揺れる。
昼の光は穏やかだ。
なのに心臓だけが落ち着かない。
「……来た」
自分でも驚くほど小さい声が漏れた。
足音は軽い。
でもいつものセシルより、少しだけ速い。
迷っている人間の歩幅だ。
姿を見せたセシルは、やはりいつもの“整った白”より乱れていた。
髪も服も乱れてはいない。
けれど、《乳眼》で見れば一目で分かる。
緊張。
恐れ。
決意。
それらが胸元で細かく震えている。
そして、その揺れの中には、今までよりはっきりした“自分で来た”色があった。
「……あなた」
セシルが立ち止まる。
「来たな」
「……少しだけ」
「分かってる」
俺は無理に近づかなかった。
半歩でも踏み込めば、今の彼女は逃げる気がしたからだ。
セシルは周囲を確認し、それから震える指で袖の内側へ手を入れた。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
「これを」
差し出されたのは、折り畳まれた小さな紙片だった。
高級な文書ではない。
むしろ、急いで切り取った帳場用紙みたいな質感。
「……何だ」
問いながらも、たぶん答えは分かっていた。
「礼拝室の……記録の一部です」
やっぱり。
俺は慎重に受け取る。
紙には、簡素な日付と記号、そして女官用の短い注記が並んでいた。
だがその中に、十分すぎるものがある。
旧礼拝室使用
対象:C
立会:E
笑顔確認 再教育
終了後、鏡前確認
喉がひくりと鳴った。
これだ。
礼拝室で何が行われていたかを、“感覚”や“証言”ではなく、記録として示す断片。
「……これ」
思わず息を飲む。
「どうして持ってこれた」
セシルはすぐには答えなかった。
《乳眼》で見ると、今にも折れそうなくらい揺れている。
怖い。
後悔。
でも、それでも“渡した”という微かな熱。
「……帳場の控えです」
「どこで」
「礼拝室の隣の小机に……一瞬だけ、出たままだったので」
「盗んだのか」
「……はい」
その“はい”が、妙に胸に刺さった。
盗んだ。
つまり、セシルは今、エレノアの白い檻の中で初めて明確に規則を破ったのだ。
「セシル」
俺はゆっくり言う。
「これ、かなり大きいぞ」
「分かっています」
「じゃあ何で」
「……」
「何で今、これを俺に渡した」
その問いに、セシルはしばらく黙っていた。
感情の揺れは激しい。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
泣きたい。
でも泣きたくない。
その全部が、胸元でひどく細かく震えていた。
《乳眼》で見ているこっちまで、息が詰まりそうになる。
「……わたし」
やがて、絞り出すように言う。
「もう、あの鏡の前で……何をしているのか、分からなくなってしまって」
「……」
「笑えばいいのに、笑えなくて。笑おうとすると、もっと分からなくなって」
声が震える。
「でも、やめるとも言えないんです」
「エレノアにか」
セシルの肩が跳ねた。
図星だ。
「……あの方は、わたしをここまで連れてきてくださいました」
「うん」
「だから、逆らうなんて……いけないって、ずっと思っていて」
その恩義は本物なのだろう。
それが余計に厄介だ。
「でも」
セシルは続ける。
「このままだと、ほんとうに自分がなくなる気がしたんです」
そこで、俺は少しだけ息を止めた。
今のは本音だ。
かなり深いところから出た。
「だから渡したのか」
「……はい」
「俺なら」
「分かりません」
彼女は首を小さく振った。
「あなたなら、助けてくれるとか、そういう意味ではなくて」
「……」
「でも、見たままを、見てくださる気がしたから」
その一言が、予想以上に重く胸に来た。
見たままを見てくれる。
それはこの作品の主題としては、たぶん最大級の信頼だ。
白い聖女としてでもなく、可哀想な少女としてでもなく。
悪役令嬢の敵としてでもなく。
ただ“今ここで揺れている一人の人間”として見ること。
《乳眼》なんて最低な能力なのに、その一点ではたしかに嘘を剥がしやすい。
だからこそ、セシルはこれを持ってきたのかもしれない。
「……セシル」
「はい」
「俺は、これを受け取る」
彼女の揺れが、一瞬だけ和らぐ。
「でも」
俺は続けた。
「だからって、ここで“助ける”とは言わない」
その言葉に、セシルの目が揺れる。
少しだけ傷ついたような色。
でも同時に、どこかで予想していた納得もある。
「あなた、正直ですのね」
「そういうしかない」
「……」
「今のあんたは、まだ白い檻の中にいる」
「ええ」
「しかもその檻の中で、リリアーヌを傷つける側にも立ってた」
「……はい」
「だから、“かわいそうだから全部大丈夫”ってことにはできない」
そこを曖昧にしたら、全部が薄っぺらくなる気がした。
セシルは、少しだけ目を伏せてから頷いた。
「……そうですよね」
「でも」
俺は紙片を見た。
「これは、お前が自分で選んだ一歩だ」
今度は、彼女がはっきり息を止めた。
「その一歩は、消さない」
「……」
「なかったことにはしない」
その言葉を聞いた瞬間、セシルの揺れが一気に崩れた。
泣く、寸前。
でもぎりぎりでこらえている。
「……っ、そんなこと」
「言う」
「どうして」
「お前が自分で選んだからだ」
短く言い切ると、彼女は震える指をぎゅっと握りしめた。
「……もう」
声が掠れる。
「もう、後戻りできません」
それが、この話の引きであり、山場だった。
「分かってる」
俺は答える。
「でも、後戻りしないまま壊れるのと」
「……」
「後戻りしないまま前へ出るのは、違うだろ」
セシルは何も言えなかった。
ただ、その胸元の揺れだけが、今までより少し強く“生きている”感じを帯びていた。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
休み時間の終わりを告げる音だ。
セシルがはっと顔を上げる。
「……行かないと」
「うん」
「これを渡したこと、誰にも」
「言わない」
「……エレノア様にも」
「言うわけないだろ」
するとセシルは、少しだけ泣きそうに笑った。
その笑顔は、礼拝室で教えられたものとは少し違って見えた。
完璧じゃない。
でも、だからこそ今はそっちの方がずっと人間らしい。
彼女は一礼して、急ぎ足で去っていく。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺は動けなかった。
少しして、物陰からミレイユが出てくる。
「……見ましたわ」
「だろうな」
「大きいですわね」
「かなり」
俺は紙片を見下ろした。
記録の断片。
たったこれだけなのに、今までの“礼拝室で何かが行われている”を一気に具体へ落とせる。
しかも、セシル自身が選んで渡した。
そこがもっと大きい。
「どうでしたの」
ミレイユが聞く。
「セシルですわ」
「震えてた」
「ええ」
「でも、自分で持ってきた」
「ええ」
「それが全部だな」
ミレイユは静かに頷いた。
「そうですわね」
そして少しだけ声を落とす。
「あなた、今かなり揺れていますわよ」
「分かる?」
「ええ」
そりゃそうか。
こっちは人の揺れを見る側だが、見られる側でもある。
「……助けるって言わなかった」
俺が言うと、ミレイユは意外そうにはしなかった。
「ええ。聞こえました」
「冷たかったかな」
「いいえ」
即答だった。
「今のセシルにとって、あれは必要な線引きですわ」
「だよな」
「ええ」
「でも、放りもしなかった」
「ええ」
「それでいいか」
ミレイユは少しだけ考えてから、静かに言った。
「今は、それが一番よいのでしょうね」
屋敷へ戻り、応接室で紙片を机へ置いたとき、リリアーヌは一度だけ目を見開いた。
短い記録。
礼拝室使用。
対象C。
立会E。
笑顔確認、再教育。
終了後、鏡前確認。
それを読み終えたあと、彼女は長く沈黙した。
「……セシルが」
ようやく出た言葉は、少し低かった。
「自分で?」
「うん」
「盗み出して?」
「そう」
リリアーヌの感情が、かなり複雑に揺れる。
驚き。
痛み。
安堵。
そして、ようやく始まったことへの静かな覚悟。
「……そう」
小さく繰り返す。
「ついに、選んだのですわね」
「ええ」
ミレイユが頷く。
「小さいですが、決定的な一歩です」
「しかも、礼拝室の記録そのもの」
バルトロも静かに言う。
「証拠としても大きいでしょう」
リリアーヌは紙片から目を離さず、ぽつりと呟いた。
「もう後戻りできない、か」
「そう言ってた」
俺が答える。
「だったら、ここから先は本当に折らせるわけにいきませんわね」
その声音は静かだが、はっきりしていた。
セシルをまだ許してはいない。
でも、今この瞬間からは、もう“ただの白い敵”として切れる相手でもない。
「……拓真」
「ん?」
「あなた」
リリアーヌが顔を上げる。
「ちゃんと受け取りましたのね」
「何を」
「セシルの一歩を」
その問いに、俺は頷いた。
「消さないって言った」
「……そう」
それだけ言って、彼女はほんの少しだけ表情を緩めた。
「それでよろしいですわ」
その一言が、思ったより深く胸に入った。
第35話。
セシル、初めて自分で選ぶ。
それは確かに起きた。
震えながら、怖がりながら、それでも白い檻の中から紙片ひとつを持ち出した。
その一歩は小さい。
でも、物語を前へ進めるには十分すぎるほど重かった。




