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廃嫡錬金術師の魔石国家  作者: 阿鼻恭介
第五章 魔石都市の誕生

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26/36

第26話 災厄令嬢ヴィフヘルミーネ

この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。

6日目(7/25) は5話投稿で1話目です。

 魔力蓄電塔が動き始めてから、村の夜は以前よりも安定して明るくなった。


 井戸のそば。


 診療所の前。


 工房へ続く道。


 夕暮れとともに灯された魔力灯は、夜が深くなっても光を弱めない。


 冷却箱の試験も再開され、保存した乳や肉を近隣の町へ運ぶ準備が進んでいた。


 管理屋敷へ届く注文書も増えている。


 レオンハルトたちは忙しさを増していたが、以前のように食堂の机へ書類と鉱石が積み重なることはなくなった。


 予定と機密書類はゼバスティアンが管理する。


 工房の試験結果はエルザが記録する。


 魔力蓄電塔の残量と監視石の色も、朝と夕方に確認されていた。


 村の仕組みは、少しずつ整い始めている。


 その日の昼前。


 管理屋敷の玄関前へ、見慣れない一団が到着した。


 先頭には、公爵家の紋章を掲げた大型馬車。


 その前後を鎧姿の騎士が固め、後ろには荷物を積んだ馬車が二台続いている。


「アーベントロート公爵家の紋章でございます」


 玄関前で一団を確認したゼバスティアンが言った。


「来客予定にはありませんでしたよね」


 レオンハルトは執務室の窓から馬車を見た。


「昨日の夕刻、ローゼンフェルト子爵家へ先触れが届いております」


 アーデルハイトが父フリードリヒから届いた封書を開く。


「アーベントロート公爵家とは、祖母の代から交流があるそうです。父が以前、魔力蓄電塔と結晶による魔力調整について、公爵家へ報告していました」


「それで、こちらへ?」


「王都で複数の治療と封印を試しても改善せず、ほかの療養先からは受け入れを断られたそうです」


 封書には、公爵令嬢の状態を確認したうえで、受け入れが困難なら無理に引き留めなくてよいとも書かれていた。


 身分を理由に押しつける意図はないらしい。


「詳しい事情は、同行した家令から説明するとのことです」


 馬車の扉が開いた。


 最初に降りてきたのは、白髪の老紳士だった。


 濃い緑色の上着を着込み、胸元には公爵家の紋章が付いている。


 続いて二人の侍女と、白い外套を着た女性が降りた。


 女性の腰には治癒術師であることを示す銀色の杖がある。


 最後に、馬車の奥から一人の少女が姿を見せた。


 年齢はレオンハルトと同じ十五歳ほど。


 腰まで届く、黒に近い紫色の髪。


 白い肌。


 深い青紫色の瞳。


 濃紺の外套をまとい、両手には黒い手袋を着けていた。


 少女が馬車の踏み台へ足を置いた瞬間、周囲の空気が揺れた。


 ぱちり。


 小さな紫色の火花が、外套の端から弾ける。


 護衛の騎士たちが反射的に身構えた。


「お嬢様、ゆっくりと」


 老紳士が声を掛ける。


「分かっています」


 少女は静かに答えた。


 だが、次の瞬間。


 馬車の金具へ紫色の光が走った。


 金属が甲高い音を立て、近くの馬が驚いて前脚を上げる。


「馬を離せ!」


 護衛の一人が叫んだ。


 御者が手綱を引き、馬車を少女から遠ざける。


 少女は俯いた。


「申し訳ありません」


 謝罪の声は小さい。


 けれど、その場にいた者たちは、誰も彼女へ近づこうとしなかった。


 老紳士と治癒術師だけが、一定の距離を保ちながら少女の前へ立つ。


「ヴィルヘルミーネ様。屋敷へ参りましょう」


「……はい」


 少女は周囲の視線を避けるように歩き始めた。


          ◇


「ヴィルヘルミーネ・フォン・アーベントロート様でございます」


 管理屋敷の応接室で、老紳士が紹介した。


「アーベントロート公爵家のご令嬢。王立魔法学院では、首席として学ばれております」


 ヴィルヘルミーネは椅子へ座らず、窓際に立っていた。


 レオンハルトたちから、三歩以上離れた位置だ。


「私は公爵家の家令、アルノルト・ヴァイゼと申します。そして、こちらは公爵家付き治癒術師のマルタ・ヘルマンです」


 白い外套の女性が一礼する。


「このたびは突然の訪問となりましたこと、お詫び申し上げます」


「事情をお聞かせください」


 アーデルハイトが答えた。


 応接室にいるのは、レオンハルト、アーデルハイト、ゼバスティアン、ヒルデガルト。


 初対面の公爵令嬢を大勢で囲むべきではないと、ゼバスティアンが判断していた。


 アルノルトはヴィルヘルミーネへ目を向けた。


「王都では、すでに好ましくない噂が広がっております」


「災厄令嬢、ですね」


 ヴィルヘルミーネ本人が言った。


 感情を押し殺した声だった。


 アルノルトが苦しそうに眉を寄せる。


「学院で、複数回の魔力暴走がございました。最初は授業中に魔法具が破裂し、次は訓練場の結界が損傷しました。先日は、寮の一室が半壊しております」


「負傷者は?」


 レオンハルトが尋ねた。


「幸い、重傷者は出ておりません。しかし、次も同じとは限りません」


「学院は、どのような対処を?」


「制御訓練を増やし、魔力を抑える封印具を強化しました」


 治癒術師のマルタが答えた。


「公爵閣下と奥方様は、娘君を遠ざけたいのではありません。王都の屋敷へ戻そうとされました。しかし近隣の貴族から、屋敷内へ閉じ込めるべきだという声が上がっております」


「学院へ残れば?」


「さらに強い封印具を着けられます」


 ヴィルヘルミーネが自嘲するように言った。


「今でも十分、鎖のようなものですけれど」


「公爵閣下は、ローゼンフェルト子爵からこちらの結晶技術を聞き、最後の望みとして私どもを送り出されました」


 アルノルトは深く頭を下げた。


「ただし、危険と判断された場合には、受け入れを断っていただいて構いません」


 ヴィルヘルミーネの周囲では、空気中の魔力が不規則に揺れていた。


 魔力量は、確かに多い。


 だが、レオンハルトに分かるのは魔力の密度と流れる方向だけだ。


 人体そのものの構造や、病気の有無まで見抜けるわけではない。


 それでも、彼女の魔力が何度も途中で滞り、別方向へ押し出されていることは分かった。


 呼吸の間隔とも、脈の速さとも一致していない。


「見ないでください」


 ヴィルヘルミーネが言った。


「申し訳ありません」


 レオンハルトは視線を下げた。


「魔力の流れだけを確認していました」


「皆、そう言います」


 彼女の声が僅かに強くなる。


「調べる。抑える。訓練する。慣れれば制御できる。その結果が、今です」


 外套の袖から紫色の光が漏れた。


 窓ガラスが細かく震える。


 ヒルデガルトが動こうとしたが、アーデルハイトが静かにヴィルヘルミーネへ呼び掛けた。


「ここでは、無理に座る必要も、私たちへ近づく必要もありません」


「怖くないのですか」


「怖くないと言えば、嘘になります」


 アーデルハイトは正直に答えた。


「ですが、あなたが誰かを傷つけたくて魔力を漏らしているわけではないことは分かります」


 ヴィルヘルミーネは黙った。


 震えていた窓ガラスが、少しずつ静まる。


「封印具を確認してもよろしいですか」


 レオンハルトが尋ねた。


「外せば、何が起きるか分かりません」


「外しません。近づく前にも、必ず許可を取ります」


 ヴィルヘルミーネは迷ったあと、右腕を上げた。


 黒い手袋の手首部分に、金属の輪郭が浮いている。


 レオンハルトは彼女から一歩離れた位置に、小さな分析結晶を置いた。


「この結晶へ、腕輪から漏れている魔力を少しだけ流します。触れる必要はありません」


「それで分かるのですか」


「すべては分かりません。ですが、魔力を吸収する速さと、逃げる経路があるかどうかは確認できます」


 ヴィルヘルミーネが腕を分析結晶へ近づける。


 細い紫色の筋が結晶へ流れ込んだ。


 レオンハルトは《結晶創造》で、その変化を読む。


 腕輪内部には、魔力を吸収する小さな魔石が並んでいる。


 しかし、吸収した魔力を安全に逃がす構造が見当たらない。


 一定量を超えれば、腕輪の内側へ魔力が滞留する。


「断定はできませんが、この腕輪が暴走を強めている可能性があります」


 アルノルトが息を呑んだ。


「抑えているのではないのですか」


「普段の漏出を減らしてはいます。ですが、流れを塞いだ魔力を外へ逃がせていません」


 レオンハルトは紙へ簡単な図を描いた。


 身体の中を流れる魔力。


 腕輪で止められる流れ。


 行き場を失い、別の経路へ集中する魔力。


「静かに見えている間も、内部では溜まり続ける。限界を超えた瞬間、一気に溢れているのかもしれません」


「だから、封印を強くするほど暴走が大きくなった……」


 マルタが呟く。


「可能性の一つです」


 レオンハルトは言い直した。


「まだ観察が必要です」


 ヴィルヘルミーネは腕輪を見下ろした。


「では、外せばよいのですか」


「急に外すのは危険です。今まで止められていた魔力が、一度に流れるかもしれません」


「結局、何もできないのですね」


「いいえ」


 レオンハルトは首を振った。


「魔力量を減らすのではなく、あなたに合う流れを探します」


 ヴィルヘルミーネの瞳が、初めて正面からレオンハルトを見た。


          ◇


 その日のうちに治療へ進むことはなかった。


 まず、アーデルハイトとゼバスティアンが、公爵家側との取り決めを文書にした。


 試験はヴィルヘルミーネ本人の意思を確認したうえで行う。


 危険性と中止条件を事前に説明する。


 治療が成功する保証はない。


 試験記録は双方が保管するが、《結晶創造》の中核技術は公爵家へ開示しない。


 滞在費、材料費、破損した設備の費用は公爵家が負担する。


 事故時の責任を一方へ押しつけず、手順違反があった場合のみ責任を分ける。


 工房の職人や使用人へ、身分を理由に直接命令しない。


 研究へ参加する場合は、成果の所有権を別途定める。


 アルノルトは条項を一つずつ確認した。


「公爵令嬢へ、ここまで明確な条件を示されるとは思いませんでした」


「曖昧なまま始めれば、事故が起きたときに職人や使用人が責任を負わされます」


 アーデルハイトが答えた。


「それは認められません」


 ヴィルヘルミーネも文書を読んだ。


「私の意思も、記録するのですね」


「ご本人の同意なしに進めることはできません」


 彼女は署名欄へ自分の名を書いた。


 その後、三日間の観察が行われた。


 朝、昼、夕方、就寝前。


 レオンハルトは分析結晶を通して、魔力の漏出量と方向を確認する。


 マルタは脈拍、体温、皮膚の状態、疲労感を記録する。


 エルザは二人の記録を一つの表へまとめた。


 封印腕輪を着けた状態では、魔力漏出は一時的に減る。


 しかし、時間が経つほど脈が速くなり、胸の痛みと頭痛が強くなる。


 食後は魔力の流れが増える。


 眠る前には、腕輪の内側へ魔力が集中する。


「魔力の通り道が変形しているわけではありません」


 レオンハルトは記録を見ながら言った。


「その都度、抵抗の少ない経路へ魔力が逸れています」


「学院では、一つの経路へ集中するよう教えられました」


 ヴィルヘルミーネが言う。


「あなたの場合は、その方法が負担になったのでしょう」


「身体の経路が狭いのですか」


「そこまでは分かりません。私は魔力の流れしか見られません」


 レオンハルトは断定を避けた。


「ただ、魔力量と経路の数が合っていない可能性はあります」


          ◇


 観察を終えたあと、管理屋敷から離れた岩場に試験区画が作られた。


 魔力蓄電塔からは十分な距離を置いている。


 塔の緊急放出路の一つだけを地中へ延長し、試験区画の外側に設置した吸収杭へつないだ。


 主結晶とは、厚い岩盤と遮断結晶によって完全に切り離されている。


 未知の魔力が塔へ共鳴しないための対策だった。


 グレーテルは試験結晶を金属箱の中へ固定した。


 箱の正面には透明な防護板。


 結晶が割れた場合、破片は下の回収箱へ落ちる。


 ヴィルヘルミーネは箱の外側にある細い導入板へ触れるだけでよい。


「最初は腕輪を着けたまま測ります」


 レオンハルトが説明した。


「次に、腕輪が吸収している量を別の結晶で測ります。それから片腕だけ、留め具を僅かに緩めます」


「完全には外さないのですね」


「比較するためです」


 試験場所には必要な者だけが残った。


 グレーテルは緊急遮断と回収箱の操作。


 ジークリンデは地面へ流れた魔力の量を確認する。


 マルタは脈拍と体温。


 エルザは時刻、結晶の色、漏出量を記録する。


 ゼバスティアンは退避経路と人数を管理した。


 第一試験。


 腕輪を着けた状態で、ヴィルヘルミーネが導入板へ触れる。


 紫色の光が試験結晶へ流れ込んだ。


 結晶が激しく震える。


 弱い流れ。


 直後に強い塊。


 短い停止。


 別方向からの流入。


「手を離してください」


 ヴィルヘルミーネが離れる。


 結晶の表面に細かな亀裂が入ったが、破片は防護箱の中へ留まった。


 第二試験では、腕輪が吸収した魔力を測る。


 漏出量が減った分より、内部に滞留した量のほうが多い。


 第三試験では、右腕の留め具を一段階だけ緩めた。


 紫色の魔力が一気に増えたが、先ほどより流れの間隔は規則的だった。


「腕輪が流れを歪めています」


 レオンハルトが言った。


「しかし、腕輪を外すだけでは量を受け止められません」


「では、どうするのですか」


 ヴィルヘルミーネが尋ねた。


「一つの道へ押し込まず、複数へ分けます」


          ◇


 魔力制御装具の完成には、さらに四日かかった。


 レオンハルトは三日分の記録から、ヴィルヘルミーネの呼吸と脈拍に近い周期を導き出した。


 グレーテルは身体の採寸を行い、動きを妨げない装具を作る。


 胸元へ固定する中央枠。


 両腕と首元へ置く小さな補助結晶。


 それらをつなぐのは、むき出しの金属線ではない。


 細い銀線を、魔力を通しにくい魔獣糸と革で覆っている。


 一定以上の熱や魔力が掛かれば、接続部が自動的に外れる。


 中央結晶が破損した場合は、四つの補助結晶が同時に切り離される。


「拘束具のようですね」


 ヴィルヘルミーネが呟く。


「見た目はあとで変えられる」


 グレーテルが言った。


「今は外しやすさと安全が先だ」


 中央の魔力制御結晶には、三つの役割があった。


 不規則な魔力を複数の流れへ分ける。


 短時間だけ余剰魔力を保持する。


 保持量が増えた場合、胸元から腰の排出結晶へ魔力を逃がす。


 初期型では、保持した魔力を自動で身体へ戻さない。


 本人が起きており、マルタかレオンハルトが状態を確認したときだけ、手動で少量を戻す。


 眠っている間に過剰な魔力を送り返す危険を避けるためだった。


 排出結晶から流れた魔力は、地面へ打ち込んだ吸収杭へ送られる。


 周囲へ直接放散させない。


 中央結晶の色は、蓄積量と異常を示す。


 透明から淡紫色は通常。


 濃紫色で容量の七割。


 黄色で排出開始。


 赤色は流れの乱れや温度上昇を示す緊急状態。


 赤くなった場合、装具は自動的に切り離される。


「成功する保証は?」


 ヴィルヘルミーネが尋ねる。


「ありません」


 レオンハルトは正直に答えた。


「異常が出れば中止します。記録を確認し、原因を調べて作り直します」


「また、何かを壊すかもしれません」


「壊れる可能性がある物は、最初から人から離しています」


「あなたは近くにいるのでしょう」


「結晶の流路を調整できるのが、今は私だけです」


 ヴィルヘルミーネの表情が硬くなる。


「私が暴走すれば、あなたが死ぬかもしれません」


「その可能性はあります」


 レオンハルトは誤魔化さなかった。


「怖くないのですか」


「怖いです」


 ヴィルヘルミーネが目を見開く。


「ですが、怖いからといって、あなたを一人で試験区画へ立たせるわけにはいきません」


 部屋が静かになった。


 やがてヴィルヘルミーネは、小さく息を吐いた。


「あなたは変わっています」


「よく言われます」


「褒めていません」


「それも、よく言われます」


 ほんの僅かに、彼女の口元が緩んだ。


          ◇


 装着試験は翌朝に行われた。


 周囲への立ち入りは禁止。


 アルノルトとアーデルハイトは岩壁の裏で待機する。


 マルタはヴィルヘルミーネのすぐ横。


 グレーテルは緊急解除装置。


 ジークリンデは吸収杭と地中の流れを監視する。


 エルザは呼吸、脈拍、結晶の色、排出量を記録する。


 試験前に、レオンハルトは中止条件を読み上げた。


 中央結晶が赤くなる。


 体温が急上昇する。


 強い胸痛、意識混濁、手足の感覚低下が出る。


 吸収杭が受け止められる上限を超える。


 一つでも起きれば、即座に装具を外す。


「始めます」


 ヴィルヘルミーネは黒い手袋を外した。


 手首には、鈍い黒色の封印腕輪が付いている。


 皮膚には赤い痕が残っていた。


 最初に右腕の腕輪を外す。


 グレーテルが留め具を外した瞬間、紫色の魔力が噴き出した。


 中央結晶が淡い紫色へ変わる。


 魔力は胸元で四方向へ分かれ、首元と両腕の補助結晶へ流れた。


「呼吸をゆっくり」


 マルタが声を掛ける。


「できません」


「息を止めないでください」


「魔力が――」


「結晶が受けています」


 レオンハルトは中央結晶の流路を確認する。


 まだ容量には余裕がある。


「右腕、接続安定」


 エルザが記録した。


 次に左腕の封印腕輪を外す。


 再び大量の魔力が溢れた。


 中央結晶が大きく震え、色が濃くなる。


「脈が速くなっています!」


 マルタが叫ぶ。


「第二分流層を開きます」


 レオンハルトは《結晶創造》で、中央結晶内部の流路を一段階だけ広げた。


 紫色の光が胸元から補助結晶へ薄く広がる。


 余剰分は腰の排出結晶へ流れ、吸収杭へ送られた。


 地面に火花は落ちない。


 周囲の空気も大きくは揺れていない。


「排出杭、まだ余裕がある」


 ジークリンデが言った。


「中央結晶、黄色へ移行」


 エルザが記録する。


「排出開始。異常色ではありません」


 ヴィルヘルミーネが苦しそうに息を吐いた。


「魔力が……身体の中へ戻ってきます」


「自動では戻していません」


 レオンハルトが答える。


「止められていた流れが、別の経路へ巡っているのです」


「どうすれば?」


「一つへ集めないでください。流れる方向を決めようとせず、呼吸だけを合わせてください」


 彼女は目を閉じた。


 呼吸が少しずつ遅くなる。


 中央結晶の震えも小さくなった。


 黄色だった光が、穏やかな淡紫色へ戻っていく。


「漏出量、開始時の三分の一」


 エルザが言った。


「脈も下がっています」


 マルタが続ける。


 魔力を一滴も漏らさないことが正解ではない。


 余分な分を安全な場所へ逃がしながら、身体の中の流れを整える。


 それがヴィルヘルミーネに合った制御だった。


 しばらくして、彼女がゆっくりと目を開いた。


「静かです」


「結晶が?」


「違います」


 ヴィルヘルミーネは胸元へ手を置いた。


「身体の中が、静かです」


 生まれてからずっと、彼女の中では魔力が荒れ続けていた。


 眠っていても、身体のどこかが熱い。


 息をするだけで周囲へ魔力が漏れる。


 力を抜けば物を壊し、力を入れれば内部へ溜まり、いつ爆発するか分からない。


 今は、それがない。


 魔力は消えていない。


 膨大なまま、身体の中を穏やかに巡っている。


 ヴィルヘルミーネの目から、一筋の涙が流れた。


「申し訳ありません」


 彼女はすぐに拭おうとした。


「なぜ謝るのですか」


「分かりません」


 レオンハルトは何も言わず、結晶の状態を確認し続けた。


          ◇


 その夜、ヴィルヘルミーネは管理屋敷の客室で休むことになった。


 初めての装具を着けたまま、一人で眠らせることはできない。


 最初の一刻は、マルタとヒルデガルトが同じ部屋で常時監視した。


 中央結晶の色。


 排出結晶の温度。


 脈拍。


 呼吸。


 皮膚の赤み。


 異常がなければ、その後は半刻ごとに確認する。


 深夜を過ぎても安定していたため、一刻ごとの確認へ切り替えた。


 装具の解除具は寝台の脇に置かれ、吸収杭へつながる排出結晶も窓の外へ固定されている。


 翌朝。


 ヴィルヘルミーネは、扉を叩く音で目を覚ました。


「お嬢様」


 侍女の声だった。


「朝でございます」


 彼女は天井を見上げる。


 何かがおかしい。


 いや。


 何も起きていない。


 窓は割れていない。


 寝台の周囲に焦げ跡もない。


 胸元の結晶は淡い紫色のまま、静かに光っている。


「眠っていた……」


 途中で目を覚まさず。


 暴走を恐れず。


 誰かの叫び声に起こされることもなく。


 朝まで眠った。


 ヴィルヘルミーネは両手で顔を覆った。


 しばらくして侍女が扉を開けたとき、彼女は声を押し殺して泣いていた。


          ◇


 朝食後。


 ヴィルヘルミーネは、レオンハルトたちの前へ姿を見せた。


 昨日までより顔色がよい。


 黒い手袋は着けていない。


 胸元には、透明な魔力制御結晶が付いている。


「一晩、眠れました」


 彼女はレオンハルトへ言った。


「途中で目を覚まさずに」


「身体の痛みや、だるさは?」


 マルタが尋ねた。


「腕輪の跡が痛むだけです。胸の苦しさはありません」


 エルザが夜間記録を受け取る。


「中央結晶は一度も濃紫色になっていません。排出結晶の温度上昇も許容範囲です」


「公爵家へ報告を送ります」


 ゼバスティアンが言った。


「ただし、治療完了とは書きません。初期試験は成功。継続観察と定期調整が必要、といたします」


「そのとおりです」


 レオンハルトが頷いた。


「体調や成長で魔力の流れが変われば、装具も作り直す必要があります」


「すぐ王都へ戻る必要はございません」


 アルノルトが言った。


「公爵閣下と奥方様からは、安全な療養先が見つかった場合、本人の意思を尊重するよう命じられております」


 ヴィルヘルミーネは窓の外を見た。


 魔力灯の製造工房。


 遠くに立つ魔力蓄電塔。


 その向こうを歩く、銀灰色の髪のジークリンデ。


 王都では、彼女の魔力は危険として封じられた。


 ここでは、流れを測り、壊れた結晶の原因を記録し、合わなければ作り直すと言われた。


「レオンハルト様」


「はい」


「この結晶が、なぜ私の魔力を整えられるのか。教えていただけませんか」


「内部構造を、ですか」


「私は王立魔法学院で魔法理論を学んでいます」


 ヴィルヘルミーネは胸元の結晶へ触れた。


「自分の中で何が起きていたのか、自分で知りたいのです」


「もちろんです」


「そして、可能なら」


 彼女は少し迷った。


「研究へ参加させてください」


 アルノルトが驚いて振り向く。


「ヴィルヘルミーネ様」


「少なくとも、今の学院へ戻れば、また同じ訓練と封印を受けることになります」


 彼女の声は静かだった。


「ここでは、魔力を消すのではなく、使い方を探している」


 レオンハルトは、すぐには答えなかった。


 研究へ参加するなら、安全規則だけでは足りない。


 公爵家との契約。


 機密保持。


 研究成果の所有権。


 滞在期間。


 報告範囲。


 身分を使って職人へ命令しないこと。


 体調を最優先し、実験へ無理に参加しないこと。


「参加条件を、正式な契約にしましょう」


「契約?」


「制御結晶の基礎理論は共有します。ただし、《結晶創造》の中核技術と、魔力蓄電塔の機密構造は持ち出せません」


「分かりました」


「研究成果は、共同研究として記録します。公爵家へ報告する内容は、事前に双方で確認します」


「はい」


「工房では、公爵令嬢であっても安全規則に従うこと。職人へ直接命令しないこと。体調に異常が出たら、必ず休むこと。危険な実験を一人で行わないこと」


 ヴィルヘルミーネは一つずつ聞き、ゆっくりと頷いた。


「承知しました」


「では、最初の研究は、ご自身の魔力周期の記録です」


「私自身が研究対象なのですね」


「嫌ですか」


「いいえ」


 ヴィルヘルミーネは胸元の結晶を見下ろした。


「今度は、誰かに決めつけられるのではなく、自分で知るためですから」


 窓から差し込む朝の光が、制御結晶の中を通り抜ける。


 青紫色の細い光は乱れることなく、幾つもの流路を静かに巡っていた。

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