第23話 毒を吸う井戸
この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。
5日目(7/24)3話目です。
ゼバスティアンが管理屋敷の書類と予定を整えてから、レオンハルトのもとへ届く報告は、以前よりも早く、正確になった。
商会からの注文。
工房の製造数。
冷却箱の実地試験。
村人から寄せられた相談。
それぞれが別の帳面へ記録され、急ぎのものには赤い札が付けられている。
その朝、レオンハルトが執務室へ入ると、机の中央に一枚の報告書が置かれていた。
札の色は赤だった。
「共同井戸の件でございます」
ゼバスティアンが言った。
「数日前から腹痛を訴える者がおりましたが、昨日になって同じ症状の者が一気に増えました」
「どのような症状ですか」
「腹痛、吐き気、手足の痺れ、強い疲労感です。診療所から、共同井戸の水を使った家に症状が集中しているとの報告がございました」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
症状が出た者の名前。
家族構成。
水を汲んだ時間。
食べた物。
発症した時刻。
症状の強さ。
エルザが診療所の老女から聞き取り、ゼバスティアンが整理したものだった。
「重い症状の方は?」
「七歳の少年が一人、昨夜から自力で立てないほど衰弱しております。意識はございますが、手足の痺れが強いそうです」
レオンハルトの表情が引き締まる。
「ほかの方は?」
「今のところ、命に関わる状態ではないとのことです。ただし、同じ水を飲み続ければ悪化する可能性があります」
「同じ食べ物を口にしたわけではないのですね」
「はい。井戸水以外に共通するものは見つかっておりません」
「以前から、水の色が濁ることはありました」
アーデルハイトが向かいの席で答えた。
「雨のあとに泥が混じる程度だと思われていました。ただ最近は、雨が降っていない日にも濁ることがあったそうです」
「匂いは?」
「鉄のような匂いが強くなることがあると」
レオンハルトはすぐに立ち上がった。
「井戸を確認します」
「朝食はお済みです」
ゼバスティアンが言った。
「ですから止めません。ただし、お一人では行かせません」
「私も同行します」
アーデルハイトが帳面を閉じる。
「井戸を止める場合、代わりの水をどうするか決める必要があります」
「エルザさんは診療所へ」
ゼバスティアンが続けた。
「症状のある方が増えていないか確認してください。重症の少年については、飲んだ水の量と発症までの時間も聞き取ってください」
「はい」
「ヒルデガルトさんには、屋敷の水瓶を使用しないよう伝達を」
「屋敷の水も同じ井戸からですか」
レオンハルトが尋ねる。
「今朝汲んだ分がございます」
「飲まないでください。調理にも使わないように」
「すでに厨房へ使用停止を伝えております」
ゼバスティアンは穏やかに答えた。
「手洗い、洗濯、掃除への使用も、確認が取れるまでは禁止しております」
レオンハルトは僅かに目を見開いた。
「そこまで?」
「皮膚へ触れるだけなら問題がない可能性はございます。しかし、傷口へ入る危険や、濡れた手から口へ入る可能性を考えれば、現時点では全面停止が妥当かと」
「その判断でよいと思います」
「管理とは、問題が起きてから考え始めることではございません」
◇
共同井戸の周囲には、すでに何人もの村人が集まっていた。
桶を持ったまま、不安そうに井戸を見つめている。
井戸の縁には、薄い黒紫色の染みが付いていた。
雨が降ったわけでもないのに、汲み上げられた水は僅かに濁っている。
「誰も使っていませんね」
レオンハルトが尋ねる。
「エーベルハルト村長が止めてくれました」
オットーが答えた。
村長のエーベルハルトは井戸の前へ縄を張り、飲用だけでなく、洗濯や家畜への使用も禁止すると村人へ説明していた。
「別の井戸は?」
「北側に一つありますが、水量が少ないです。村全体で使えば、すぐに底が見えるでしょう」
「沢の水は?」
「家畜も使っています。上流の状態も確認できていません」
アーデルハイトは村の地図を開いた。
「ローゼンフェルト家の倉庫から水樽を運ばせます。すでに使いを出しましたが、到着には半日ほどかかります」
「それまで、管理屋敷の古井戸を使えませんか」
ヒルデガルトが尋ねた。
「長く使っておりません」
「先に水質を確認します」
レオンハルトは共同井戸の前へ膝をついた。
革手袋をはめ、小さな器で水をすくう。
光へかざすと、細かな黒い粒子が浮いていた。
泥とは違う。
重い粒子が器の底へゆっくり沈んでいく一方で、水そのものにも薄い紫色の濁りが残っている。
「触れても危険ですか」
アーデルハイトが尋ねた。
「皮膚から急速に入る性質ではなさそうです。ただ、傷口へ触れた場合の危険は分かりません。飲用以外も、使用停止を続けてください」
レオンハルトは指先へ《結晶創造》の力を集めた。
水の中に含まれる鉱物を可視化する。
透明な水の中へ、幾つもの色が浮かび上がった。
鉄。
石灰。
少量の銅。
さらに、その奥に黒紫色の筋がある。
見覚えのある魔力だった。
幼いころ、母ヘレーネが身につけていた緑色の装飾魔石。
そこから漏れ出していた毒性魔力とよく似ている。
ただし、今回は魔力だけではない。
水へ溶け込んだ毒性成分と、細かな鉱物粒子の両方が混じっていた。
「毒性鉱物が含まれています」
レオンハルトはゆっくりと立ち上がった。
「以前、母上の装飾品から漏れていたものに近い魔力です。ただし、水へ溶けた成分と、細かな鉱物粒子が混ざっています」
「原因は鉱山ですか」
エーベルハルトが青ざめる。
「まだ断定できません」
レオンハルトは井戸の内壁へ触れた。
石の隙間。
地下水の流れ。
土壌へ染み込んだ鉱物。
《結晶創造》で追える範囲を慎重に探る。
井戸の底から、北東へ向かって細い水脈が伸びていた。
さらに奥。
廃鉱山の方向へ近づくにつれ、地中の鉱物濃度が上がっている。
だが、途中には幾つもの亀裂と水脈が重なっていた。
以前にはなかった新しい亀裂も見える。
「鉱山に近い方向から流れている可能性はあります」
「やはり、鉱山が原因なのですね」
「可能性です」
レオンハルトは、はっきりと言い直した。
「地中の水は、地上の道のように真っすぐ流れるわけではありません。別の鉱脈を通った水が混じっていることもあります」
「では、どうするのですか」
「原因を決めつけて坑道を開けば、水脈を傷つけ、汚染を広げるかもしれません」
レオンハルトは、井戸の底に見えた新しい亀裂を思い返した。
崩落後にできたものとは形が違う。
最近になって、地下から押し広げられたように見えた。
「まず、飲める水を用意します。そのあと、古井戸と水脈を調べます」
◇
管理屋敷の研究室へ戻ると、レオンハルトは古い木箱を開いた。
中には、母ヘレーネから渡された宝石箱がある。
箱の中に収められているのは、幼いころに作った吸毒結晶だった。
透明だった結晶は、薄い灰色へ変わっている。
母の枕元で毒性魔力を吸収したあとも、母が長く大切に保管していたものだ。
「これを井戸へ使うのですか」
エルザが尋ねる。
「いいえ」
レオンハルトは結晶を光へかざした。
「これは吸収済みです。そのまま再利用はできません。構造を確認するために取り出しました」
「母君を助けたときの形を、作り直すのですね」
「基本の仕組みだけを使います」
以前の吸毒結晶は、周囲へ漏れ出した毒性魔力を吸収するためのものだった。
水へ溶けた鉱物を選んで取り除くことはできない。
作業台には、井戸水を入れた器が幾つも並んでいる。
レオンハルトは廃石を取り出し、不純物を分離した。
母の吸毒結晶の構造。
前世で知った濾過材や吸着材の考え方。
それらを組み合わせる。
毒性魔力を引き寄せる透明な層。
鉱物粒子を捕らえる細かな孔。
吸収した成分を外へ漏らさない外殻。
三つの役割を一つの結晶へ持たせる。
だが、最初の試作品を水へ入れると、黒紫色の筋は薄くなったものの、鉄や石灰まで過剰に吸収した。
器の底に沈んでいた成分が一気に結晶へ集まり、表面が白く濁る。
「水が澄みました」
エルザが言った。
「見た目は澄みました」
レオンハルトは水へ触れ、内部を確認した。
「ですが、元の水と性質が変わりすぎています。安全を確認できない以上、使えません」
エルザは帳面へ記録した。
試作一号。
毒性成分は減少。
鉄、石灰も大きく減少。
水質変化が大きいため、使用不可。
レオンハルトは二つ目を作った。
今度は吸収する孔の大きさを変える。
毒性鉱物の結晶構造だけを引き寄せるよう、内側へ細い溝を作った。
水へ入れる。
黒紫色の筋が、ゆっくりと結晶へ集まり始めた。
しかし、しばらくすると結晶の一部が赤黒く変色した。
表面へ小さなひびが入る。
「離れてください」
レオンハルトは結晶をすぐに取り出した。
「外殻が耐えられていません」
吸収した鉱物と魔力が内部で反発し、圧力を生んでいた。
このまま割れれば、集めた毒が再び水へ戻る。
「失敗ですね」
エルザが小さく言う。
「はい。ですが、吸収する成分は一号より近づきました」
レオンハルトは、割れかけた結晶を使用禁止の箱へ移した。
そのとき、研究室の扉が開く。
「昼食のお時間でございます」
ゼバスティアンだった。
「もう少しです」
「その言葉を、先ほどもお聞きしました」
「今は村の水が――」
「代わりの水樽は、すでに到着しております」
アーデルハイトも後ろから入ってくる。
「飲用と調理用は、今日一日分を確保できました。重症の少年にも、運んだ水を使った薄いスープを届けています」
「状態は?」
「痺れは残っていますが、吐き気は治まり始めたそうです」
レオンハルトは僅かに息を吐いた。
「今日中に完成しなくても、村人が水を飲めないわけではありません」
アーデルハイトが続ける。
「ですが、運搬費がかかります」
「レオンが倒れれば、さらに費用がかかります」
レオンハルトは反論しようとしたが、エルザが先に帳面を閉じた。
「続きは午後の研究時間です」
「エルザまで」
「記録係として、ここで区切ります」
ゼバスティアンの口元へ僅かな笑みが浮かぶ。
「よい判断です」
◇
食事を終えたあと、三つ目の試作を始めた。
吸収層を一つにまとめるのではなく、小さな粒へ分ける。
毒性鉱物と魔力を捕らえる粒。
鉄や石灰を通す隙間。
吸収した成分を一時的に隔離する中心核。
さらに、全体を包む外殻を二重にした。
完全な除去を目指すのではない。
吸収速度を落とし、必要な成分をなるべく残したまま、危険な成分だけを減らす。
レオンハルトは、完成した結晶を井戸水へ沈めた。
透明な結晶の内部へ、細い黒紫色の線が伸びていく。
水の濁りが少しずつ薄くなる。
前の試作品ほど急激ではない。
必要な鉄や石灰の量も、大きく変化していなかった。
「一度では取り切れませんね」
エルザが器を覗き込む。
「急激に吸収させると、外殻へ負担がかかります」
「何度か通す必要がありますか」
「井戸へ直接沈めるのではなく、水をゆっくり通す装置にします」
レオンハルトは紙へ構造を描いた。
上から水を注ぐ。
最初に粗い布と砂利を通し、泥や大きな鉱物粒子を取り除く。
次に、砕いた吸毒結晶を詰めた層へ通す。
その下に木炭を置き、匂いや細かな汚れを減らす。
最後に布と細かな砂を通し、炭の粉や結晶片が水へ混じるのを防ぐ。
「結晶だけではなく、砂や炭も使うのですね」
「結晶へ泥まで吸わせる必要はありません。役割を分けたほうが長く使えます」
グレーテルが呼ばれ、図面を確認した。
「一から箱を作ってたら日が暮れるな」
彼女は作業場を見回す。
「穀物をふるう木箱と、予備の水樽を使う。中へ棚を作って、濾過材を重ねるぞ」
「金網はありますか」
「穀物ふるいの網を外せば使える。粗い金網と布を重ねりゃ、結晶粒も流れ出ねえ」
「結晶の交換もできるようにしてください」
「横へ引き出す枠を入れる。満杯になったら、中身だけ外せる」
既存の道具を流用した緊急用の簡易装置なら、夕方までに形にできる。
本格的な装置は、試験結果を見て改めて作ることになった。
アーデルハイトは図面の横へ費用を書き込んでいく。
「一台で、どれくらいの水を処理できますか」
レオンハルトは試験器の水量と、結晶が吸収した毒性成分を計算した。
「同じ大きさの桶を使うなら、四十から五十桶ほどです」
「桶の大きさが違えば、記録できません」
「装置専用の桶を一つ決めましょう」
グレーテルが言った。
「こいつ一杯を一桶として数える。家の桶を持ち込ませるな」
「そのほうが処理量を確認できます」
アーデルハイトが頷く。
「交換した結晶は?」
「そのまま捨てられません」
吸収した毒性鉱物が内部へ残っている。
砕けば、汚染が広がる。
「私が再処理し、毒性成分を分離します。当面は鍵のかかる箱へ保管してください」
「管理者が必要ですね」
ゼバスティアンが言った。
「誰でも交換できるようにすれば、使用済み結晶を持ち出される可能性がございます」
「持ち出して何に使う」
グレーテルが尋ねた。
「毒でございます」
工房の空気が静まる。
レオンハルトは、使用済み結晶を見た。
生活を守るために集めたものでも、扱い方を変えれば人を害する。
「交換は許可を受けた者だけにします」
「記録も残します」
ゼバスティアンが答えた。
「設置場所、使用開始日、処理した水量、交換日、回収した結晶の数。すべて管理いたしましょう」
◇
夕方までに作られた簡易浄水装置は、共同井戸の横へ設置された。
井戸水を直接飲めるようにするものではない。
一度、装置専用の桶へ汲み、上部へ注ぐ。
水は砂利と粗い布を通り、中央に詰められた吸毒結晶の層へ流れる。
さらに木炭を通り、最後に細かな砂と布を抜けて、下の樽へ落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
最初の水が、ゆっくりと溜まっていく。
「ずいぶん時間がかかるな」
村人の一人が言った。
「急いで流すと、毒性成分を取り切れません」
レオンハルトが答える。
「一度に大量の水は作れません。飲用と調理用を優先してください」
「洗濯や掃除は?」
「北側の井戸と、状態を確認した沢の水を使います。共同井戸の水は、浄水前には触れないでください」
「食器は?」
「北側の井戸の水で洗い、最後に浄水した水ですすいでください」
ヒルデガルトが村の女性たちへ説明していた。
「水瓶は毎日洗い、蓋をしてください。汲み置きした水へ手や柄杓を直接入れないように」
「今までは入れてたよ」
「それでは、せっかくきれいにした水へ汚れが戻ります」
「蓋なんて、全部の家にはないよ」
「布でも構いません。水瓶専用の布を決め、ほかの用途には使わないでください」
診療所の老女も加わり、腹痛や吐き気、痺れが出た場合はすぐ知らせるよう伝えている。
エルザは装置の横で、処理量を記録した。
「最初の一桶が通り終わりました」
「その水は使いません」
レオンハルトが言った。
「装置の中に残った木の粉や炭の粉を流すため、最初の三桶は捨てます」
捨てる場所も、井戸の近くではない。
人や家畜が近づかない窪地へ運び、土を被せることになった。
三桶を流したあと、四桶目の水を器へ取る。
レオンハルトは《結晶創造》で内部を確認した。
毒性鉱物は大きく減っている。
だが、完全には消えていない。
「そのまま飲めますか」
アーデルハイトが尋ねる。
「緊急時に煮沸と併用するなら、危険は大きく減らせます」
「運んできた水樽がある間は?」
「そちらを優先してください。浄水した水は、樽の水が不足した場合の補助にします」
「では、今夜から全員へ飲ませるわけではないのですね」
「はい。まず診療所と管理屋敷で毎回確認します」
レオンハルトは村人たちにも聞こえるように言った。
「この装置があるから、井戸が安全になったわけではありません。原因も分かっていません。今は、運んだ水が不足したときのための緊急用です」
便利な道具ができると、人はそれを信じる。
魔力灯でも、冷却箱でも同じだった。
だからこそ、できることだけでなく、できないことも伝えなければならない。
◇
その日の夕方、管理屋敷で費用についての話し合いが行われた。
「浄水装置は、村人から使用料を取らずに使えるようにします」
レオンハルトが言った。
「その表現なら、反対しません」
アーデルハイトは帳面を開いた。
「無料という言葉で、装置にかかる費用を消してはいけません」
木材。
布。
炭。
砂。
金網。
グレーテルと職人の作業賃。
吸毒結晶を作るための廃石。
交換と保管の費用。
水質確認の手間。
「村人から代金を取らなくても、誰かが負担しなければなりません」
「共同整備費を使いますか」
「一部は使えます。しかし、道の修理費まで失えば、別の事故が増えます」
「ローゼンフェルト家の管理予算は?」
「緊急対策として、最も多く負担させます」
アーデルハイトは数字を書き込んでいく。
「残りを魔力灯の利益と共同整備費から出します。ただし、共同整備費の負担は最小限にします」
「冷却箱が販売できれば、そちらからも補えます」
「利益が出てから考えます」
「はい」
「村人の使用料は取りません」
アーデルハイトはレオンハルトを見た。
「ですが、装置を作る職人へは賃金を支払い、交換費用も予算へ入れます」
「無料だから費用がないのではなく、別の財源から負担するのですね」
「そのとおりです」
グレーテルが腕を組んだ。
「水を守る仕事だからって、ただ働きさせるなよ」
「もちろんです」
「以前、酒だけで働こうとしましたよね」
アーデルハイトが言う。
「あれは手土産だ」
「作業賃とは別です」
「分かってるよ」
ゼバスティアンは、決定事項を記録した。
「共同井戸だけでなく、領内で人が共同利用するすべての井戸を順番に調査する方針でよろしいでしょうか」
「はい」
レオンハルトが答えた。
「汚染が見つかった井戸には、使用料を取らず浄水装置を設置します。汚染がなくても、泥や異物を除く簡易濾過設備は必要だと思います」
「個人宅の井戸も?」
アーデルハイトが尋ねる。
「まず共同井戸を優先します。個人の井戸は希望を受け、水質を確認してからです」
「全井戸へ一度に設置する予算はありません」
「順番に進めます」
「では、共同井戸の水質調査を公費で行い、必要な設備を順次設置する。その方針で記録します」
ゼバスティアンは続けた。
「設置した装置は村の共有物とし、勝手な分解や持ち出しを禁止いたします。管理責任者はエーベルハルト村長。処理量と交換時期は、井戸当番とエルザさんが確認する形でよろしいでしょうか」
「私が毎日確認するのですか」
エルザが尋ねる。
「すべてご自身で行う必要はありません」
ゼバスティアンが答えた。
「井戸当番が木札へ処理した桶の数を刻み、あなたは午後の勤務時間に帳面へ写してください」
「分かりました」
「一人の記憶へ頼らず、複数の者が確認する仕組みにいたしましょう」
エルザは頷き、新しい頁の上へ一つずつ項目を書き込んだ。
使用開始日。
処理した水量。
結晶の変色。
交換日。
回収した結晶の数。
◇
浄水装置を使い始めてから数日。
新たに症状を訴える者は、ほとんどいなくなった。
軽い腹痛や吐き気だけだった者は、診療所で休み、安全な水と薄いスープを取ることで回復へ向かっている。
手足の痺れが強かった少年も、まだ長く歩くことはできないものの、自分で起き上がれるまでになった。
ただし、すべてが装置の効果とは限らない。
井戸の使用停止。
ローゼンフェルト家から運ばれた水。
食器や水瓶の洗浄。
診療所での休養。
それらすべてが重なった結果だった。
ヒルデガルトは、井戸の周囲に泥水が溜まらないよう排水溝を掘らせた。
水を汲む桶と、掃除に使う桶を分けた。
家々の水瓶を洗い、蓋を付けるよう指導した。
診療所では、病人が使った器を熱湯で洗っている。
「結晶だけで解決したのではありませんね」
エルザが言った。
共同井戸の横では、女性たちが水瓶の洗い方を教わっている。
「はい」
レオンハルトは浄水装置の中から、使用済みの結晶を取り出した。
透明だった粒は、黒紫色へ変わっている。
「水をきれいにしても、汚れた桶へ入れれば元へ戻ります」
「では、ヒルデガルト様の仕事も浄水の一部ですか」
「そうだと思います」
ヒルデガルトが聞けば、衛生管理です、と言い直すかもしれない。
だが、レオンハルトにとっては、どちらも人を守るために必要な仕組みだった。
結晶が毒を吸う。
職人が装置を作る。
アーデルハイトが費用を決める。
ゼバスティアンが交換と保管の記録を整える。
ヒルデガルトが水の扱いを教える。
エルザが結果を残す。
一つでも欠ければ、安全な水は続かない。
「レオンハルト様」
オットーが井戸の向こうから呼んだ。
「古井戸の水を汲みました。見てもらえますか」
「分かりました」
「それと、廃鉱山の奥で、また揺れを感じたそうです」
レオンハルトの手が止まった。
「揺れ?」
「落盤とは違うようです。地面の下から、何か大きなものが動いたような響きだったと」
共同井戸の底で見えた、新しい亀裂を思い出す。
「水脈が濁り始めた時期と、揺れが始まった時期は分かりますか」
「詳しくは聞いていません」
「記録を集めましょう」
レオンハルトが言うと、いつの間にか井戸のそばへ来ていたゼバスティアンが予定帳を開いた。
「本日は古井戸の確認まででございます」
「ですが、地下の揺れと水の汚染が関係しているかもしれません」
「だからこそ、順序立てて調べます」
ゼバスティアンは穏やかに答えた。
「本日は古井戸の水質確認。明朝、鉱夫から揺れの時刻と場所を聞き取る。その後、坑道へ入る者と装備を決めます」
「すぐに鉱山へ入っては?」
「焦って坑道を開ければ、汚染を広げる可能性があると、ご自身でおっしゃいましたね」
レオンハルトは言葉を止めた。
「分かりました。今日は古井戸までにします」
「よろしい判断です」
共同井戸の横では、浄水された水が一定の速さで樽へ落ち続けている。
完全な解決ではない。
毒の流れ込む原因も、地下の揺れとの関係も、まだ分かっていない。
それでも、村人たちは安全に近い水を確保できるようになった。
レオンハルトは黒紫色へ変わった吸毒結晶を、鍵のかかる回収箱へ収めた。
幼いころ、母を守るために作った小さな結晶。
その仕組みは今、一人のためではなく、村全体の水を守り始めていた。
そして廃鉱山の深部では、まだ誰も知らない何かが、静かに目を覚まそうとしていた。
帝塚山WANBANA




