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廃嫡錬金術師の魔石国家  作者: 阿鼻恭介
第四章 廃鉱山の仲間たち

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第22話 執事ゼバスティアン

この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。

5日目(7/24)2話目です。

 魔力灯の追加注文が入り、冷却箱を近隣の酪農家へ貸し出して実地試験を始めてから、管理屋敷を訪れる者は目に見えて増えていた。


 商人。


 職人。


 村の代表者。


 近隣農家の使い。


 ローゼンフェルト子爵家から書類を届ける従者。


 以前は壊れた家具と研究道具ばかりだった屋敷の玄関に、今では毎日のように泥のついた靴が並んでいる。


 ヒルデガルトが管理を始めたことで、生活する場所としての屋敷は整っていた。


 だが、魔力灯の注文書、冷却箱の試験記録、村人からの要望書が増えるにつれ、応接室と書類を置く小部屋はすぐに埋まった。


 気づけば、最も広い食堂の机が臨時の作業台として使われるようになっていた。


 食事以外の物を置かないという決まりは、誰かが明確に破ったわけではない。


 アーデルハイトが帳簿を一冊置き、レオンハルトが確認用の鉱石を一つ置き、エルザが伝言の紙を重ねた。


 そうして少しずつ、食卓は再び書類と試作品へ占領されていた。


 その日も、朝食を終えたばかりの食堂へ、エルザが慌ただしく入ってきた。


「レオンハルト様。商会の方がお見えです」


「どちらの商会ですか」


「ええと……」


 エルザは胸元の帳面を開いた。


「ハルデン商会です。追加注文の相談だそうです」


「ハルデン商会は、明日の予定ではありませんでしたか」


 アーデルハイトが尋ねる。


「先方は、本日と聞いているそうです」


 レオンハルトとアーデルハイトは同時に、食卓の端へ積まれた書類を見た。


 予定変更を知らせる紙が、その中に紛れている可能性がある。


「昨日、確認したときは明日でした」


 アーデルハイトが言う。


「私も、そう聞いたと思います」


 レオンハルトは書類の束へ手を伸ばした。


 魔力灯の製造記録。


 冷却箱の試験結果。


 職人の勤務表。


 村の共同整備費の帳簿。


 井戸水の状態を記した報告。


 どれも必要な書類だったが、置かれている順番には規則がない。


「これではありません」


「そちらは先週の製造記録です」


「この紙は?」


「グレーテルが書いた金具の寸法です。油がついているので、帳簿の上へ置かないでください」


「すみません」


 レオンハルトが紙を戻すと、今度は下にあった小さな金属片が床へ落ちた。


 かん、と乾いた音が食堂へ響く。


 ヒルデガルトが無言でレオンハルトを見る。


「これは、昨日調べていた合金です」


「なぜ食堂にあるのでしょう」


「夕食の前に見ていて、そのまま……」


「食事以外の物を置かない決まりでしたね」


「はい」


「その決まりを作ったのは、誰のためだったでしょう」


「私たち全員のためです」


 レオンハルトは金属片を拾った。


 その間にも、玄関から話し声が聞こえてくる。


 ハルデン商会の者を待たせているのだろう。


「私が応対します」


 アーデルハイトが立ち上がった。


「レオンは予定変更の紙を探してください。ただし、ほかの書類を混ぜないように」


「分かりました」


「エルザはお茶の用意を」


「はい」


「ヒルデガルト、客間を使えますか」


「一階の客間は、昨日届いた木箱で塞がっています」


「では、応接室を」


「そちらはレオンハルト様の鉱石が机を占領しています」


 食堂に、短い沈黙が落ちた。


「……片づけます」


 レオンハルトが言う。


「今からでは間に合いません」


 ヒルデガルトは淡々と答えた。


「商会の方には、食堂横の小部屋へご案内します」


「来客用の部屋ではありませんよね」


「現在、確実に椅子と机が使える部屋はそこだけです」


 アーデルハイトは額へ手を当てた。


「屋敷の中が整ったと思っていました」


「生活できる程度には整えました」


 ヒルデガルトはレオンハルトだけでなく、食卓に書類を置いていた全員を見回した。


「ですが、来客と書類が増える速度に、管理が追いついておりません」


          ◇


 ハルデン商会との話し合いは、予定より長引いた。


 先方は魔力灯をさらに二十個欲しいと言った。


 そのうち五個は、広い倉庫へ使うため、現在の品より明るいものを求めている。


 レオンハルトがその場で新しい結晶構造を説明し始めたため、アーデルハイトが止めなければ、試作まで始めていたかもしれない。


「可否は、三日後までにお返事します」


 アーデルハイトが商人へ告げる。


「製造時間と原価、現在の注文数を確認してからです」


 レオンハルトは口を閉じた。


 すでに頭の中では、光を一方向へ集める構造が浮かんでいた。


 商会の者が帰ったあと、予定の紙は別の書類へ紛れて見つかった。


 数日前、ハルデン商会の使いが訪問日を一日早めたいと伝え、その内容をエルザが小さな紙へ書いていた。


 だが、その紙は冷却箱の試験記録の間へ挟まれ、予定帳には反映されていなかった。


「商会側の勘違いではなかったのですね」


 エルザが俯く。


「私が予定帳へ書き写さなかったからです」


「受け取ったのは、いつですか」


 ヒルデガルトが尋ねる。


「工房から記録が三枚届いたときです。厨房からも呼ばれて、そのあと……」


「忘れたのですね」


「はい」


 エルザは帳面を握りしめた。


「申し訳ありません」


「謝るのは、あとです」


 アーデルハイトが紙を見た。


「今の方法では、誰が同じ立場でも間違える可能性があります」


 エルザ一人の失敗ではない。


 予定変更を受けたあと、誰へ伝え、どこへ記録し、誰が確認するのかが決まっていなかった。


 原因を調べられたこと自体、紙が残っていたからにすぎない。


 その後、村長エーベルハルトが訪れた。


 共同整備費を使い、道の穴を埋める順番を相談するためだった。


 話の途中で、冷却箱を借りている酪農家の男が、乳の保存結果を報告しに来た。


 さらに昼前には、工房からグレーテルが現れた。


「銅板が足りねえ」


 玄関へ入るなり、彼女は言った。


「次の冷却箱を作る分がない。誰が仕入れを止めてる」


「止めてはいません」


 アーデルハイトが答える。


「注文書は出しました」


「いつ届く」


「三日後の予定です」


「三日も待ってられるか」


「急に使用量を二倍にしたのは誰ですか」


「レオンが、金属板を厚くしたほうがいいって言ったんだ」


「グレーテルさんが、大型箱なら必要だと言いました」


「だからって、すぐ結晶を作り直す奴があるか!」


「必要だと思いましたから」


 食堂の机には、商会から届いた書面と、道の修繕予定図と、酪農家の試験記録が広げられている。


 その隙間へ、グレーテルが金具の見本を置いた。


 ヒルデガルトが眉を寄せた。


「その金具は、洗ってありますか」


「煤は払った」


「油が残っています」


「あとで拭く」


「今、拭いてください」


 エルザは一方で来客へ茶を運び、もう一方で冷却箱の試験記録を受け取っている。


 途中で、村の女性から厨房で働きたいという相談まで持ち込まれた。


「ヒルデガルト様」


 エルザが小声で呼ぶ。


「何でしょう」


「明日の昼に来る予定だった商人の方が、今日の夕方へ変更したいと」


「アーデルハイト様へ確認を」


「今、道の修繕費を計算されています」


「では、先方の名前と要件を記録し、返事を待っていただいてください」


「はい」


 エルザは帳面へ書き込もうとしたが、使える頁が見つからない。


 屋敷の予定。


 工房の記録。


 来客の名前。


 レオンハルトへの伝言。


 すべてを一冊へ書いていたため、必要な情報があちこちへ散らばっている。


「どこへ書けば……」


 エルザの呟きを聞き、ヒルデガルトは深く息を吐いた。


「新しい帳面が必要ですね」


「一冊増やせばよいでしょうか」


「役割ごとに分けなければ、同じことになります」


 そのとき、玄関の外で馬車が止まる音がした。


 エルザが顔を上げる。


「今度は、どなたでしょう」


「本日の予定に、ほかの来客はありません」


 アーデルハイトが答えた。


「予定にない客ばかり来てるじゃねえか」


 グレーテルが言う。


「あなたも予定なしで来ました」


「工房の責任者だぞ」


「だからこそ、先に知らせてください」


 玄関の扉が叩かれた。


 ヒルデガルトが応対へ向かう。


 しばらくして戻ってきた彼女の後ろには、一人の男性が立っていた。


 年齢は五十を少し過ぎたほど。


 白髪の混じった黒髪を後ろへ撫でつけ、濃紺の上着を隙なく着こなしている。


 背筋は真っすぐ伸び、穏やかな表情を浮かべていた。


 その後ろには、ローゼンフェルト子爵家の紋章が付いた馬車が見える。


「お父様からの使いですか」


 アーデルハイトが立ち上がる。


 男性は胸へ手を当て、静かに頭を下げた。


「お久しぶりでございます、アーデルハイト様」


「ゼバスティアン。なぜこちらへ?」


「フリードリヒ様より、管理屋敷の状況を確認するよう申しつけられました」


 男性は食堂の中へ視線を巡らせた。


 机いっぱいの書類。


 油のついた金具。


 冷却箱の試験用乳瓶。


 飲みかけの茶。


 床の端へ積まれた木箱。


 来客用とは思えないほど人が出入りしている室内。


 その表情は変わらなかった。


「なるほど」


 短い一言だった。


 だが、なぜかレオンハルトは、鉱石の内部まで見透かされたような気持ちになった。


「ご紹介します」


 アーデルハイトが言った。


「ゼバスティアン・クロイツ。以前、王都の伯爵家で執事を務めていた方です。今は父のもとで、臨時の会計補助をしています」


「初めまして」


 レオンハルトは立ち上がった。


「レオンハルト・フォン・ベルクシュタインです」


「存じております」


 ゼバスティアンは、レオンハルトへ向き直った。


「魔力灯と冷却箱を開発し、廃鉱石へ新たな価値を与えた方。そして現在は、来客予定と研究記録と食事の場所を、すべて同じ机で管理しておられる方でございますね」


「……はい」


「最後の部分は、褒められていないぞ」


 グレーテルが小声で言う。


「分かっています」


          ◇


 ゼバスティアンは、すぐに何かを指示することはなかった。


 まず屋敷の中を見たいと申し出た。


 ヒルデガルトが案内役となり、レオンハルトとアーデルハイトも同行する。


 最初に見たのは玄関だった。


 来客の名前を記す帳面はなく、訪問者の用件もエルザの記憶と手元の帳面に頼っている。


 預かった外套や荷物を置く場所も決まっていない。


「今日の来客は、何名でしょう」


 ゼバスティアンが尋ねた。


「商会の方が二名。村長。酪農家の方。グレーテルさん。それから――」


 エルザは帳面を開いた。


「厨房で働きたい女性が一名です」


「帰られた時刻は?」


「そこまでは……」


「どなたが、どの部屋へ入ったかは?」


「覚えています」


「記録は?」


「ありません」


 ゼバスティアンは頷いた。


「記憶は優秀でも、記録の代わりにはなりません」


 次に応接室へ入る。


 机の上には、レオンハルトが調べていた鉱石が並んでいた。


 壁際には魔力灯の試作品。


 椅子の一つには、結晶の形状を記した紙が重ねられている。


「機密性のある研究記録はありますか」


「あります」


「鍵のかかる保管箱は?」


「まだありません」


「来客が、この部屋へ入る可能性は?」


「本来は応接室ですので」


「つまり、ございますね」


「はい」


「研究記録が盗まれた場合、いつ気づきますか」


 レオンハルトは机を見た。


 どこに何枚あるか、正確には覚えていない。


「すぐには、分からないかもしれません」


「では、盗まれたことにすら気づかない可能性がございます」


 責める口調ではない。


 そのため、かえって言葉が重く感じられた。


 研究室では、薬品や鉱石の札は付けられていた。


 ヒルデガルトが整えた成果だ。


 しかし、完成品、試作品、失敗品、廃棄予定品の置き場所までは分かれていない。


「この青い結晶は?」


 ゼバスティアンが尋ねる。


「冷却結晶の初期試作品です」


「こちらは?」


「改良前のものです」


「隣の欠けたものは?」


「失敗品ですが、比較のため残しています」


「札には、すべて冷却結晶とだけ書かれております」


 レオンハルトは、三つの札を見た。


「確かに、区別できません」


「レオンハルト様には、触れれば違いがお分かりになるのでしょう」


「はい」


「ほかの方には?」


「分からないと思います」


「では、レオンハルト様が不在になれば、誰も扱えません」


 次に、書類を置いている小部屋へ向かった。


 帳簿そのものは、アーデルハイトが整理している。


 だが、工房から届いた製造記録、村人からの要望、商会の注文書、ローゼンフェルト家からの報告書が、同じ棚へ積まれていた。


「この封筒は開いておりますが、差出人の名がありません」


 ゼバスティアンが一通の封書を手に取る。


「昨日、商人が持ってきたものです」


 エルザが答えた。


「どの商人でしょう」


「確か、背の高い……」


「名前は?」


「聞きましたが、別の頁に……」


 エルザが帳面をめくる。


 ゼバスティアンは、彼女を責めなかった。


「一人で多くの役割を担いすぎておりますね」


「申し訳ありません」


「あなたの能力の問題ではございません」


 ゼバスティアンは穏やかに言った。


「仕組みがないところを、記憶と努力で補っている。その状態が長く続けば、どれほど優秀な者でも必ず間違えます」


 ヒルデガルトが頷く。


「私も、屋敷内の生活管理だけでは追いつかないと感じていました」


「来客、予定、書類、機密、使用人の配置。それぞれに管理が必要です」


 最後に、ゼバスティアンは再び食堂へ戻った。


          ◇


「率直に申し上げてもよろしいでしょうか」


 全員が席へ着くと、ゼバスティアンが尋ねた。


「お願いします」


 レオンハルトが答える。


「この屋敷は、生活する場所としては改善されております」


 ヒルデガルトへ視線を向ける。


「衛生、食料、清掃、使用人の勤務。限られた人数で、よく整えておられます」


「ありがとうございます」


「しかし、管理拠点としては不十分です」


 ゼバスティアンは机の上の書類を一枚ずつ分け始めた。


「来客予定が一か所へ集められていない。訪問者の記録がない。研究記録と商業書類が同じ部屋へ置かれている。機密文書に鍵がない。誰が何を決めたのかを示す記録も不足しております」


 商会の注文書。


 村の要望書。


 工房の製造記録。


 私的な手紙。


 それぞれを別の山へ分ける。


「今朝の予定違いも、原因を確認できたのは、変更を書いた紙が残っていたからです」


 ゼバスティアンは、小さな紙を取り上げた。


「しかし、予定帳へ反映する者も、反映されたか確認する者も決まっていない。次に同じことが起きれば、紙そのものを失う可能性もございます」


 エルザが胸元の帳面を押さえた。


「帳面を分けます」


「必要ではございますが、それだけでは足りません」


 ゼバスティアンは静かに続けた。


「予定を決める者、来客を受ける者、書類を保管する者。その責任を明確にする必要がございます」


「あなたなら、どう整えますか」


 アーデルハイトが尋ねる。


「まず玄関に来客簿を置きます。名前、所属、用件、到着時刻、退出時刻を記録いたします」


「読み書きができない方は?」


「受付を担当する者が代筆します」


「受付専任を雇う余裕は、まだありません」


「現状では、エルザさんとヒルデガルトさんが交代で対応するのが現実的でしょう。ただし、屋敷の仕事と重ならない時間を定めます」


 エルザが真剣に聞いている。


「来客には、要件ごとに色を分けた札をお渡しします」


「札を本人に?」


「はい。屋敷内で案内役が変わっても、札を見れば要件と案内先が分かります。商談、村の相談、工房関係を区別すれば、必要な書類を誤って持ち出すことも減るでしょう」


「なるほど」


 アーデルハイトが頷いた。


「次に、予定だけを記す一冊の予定帳を作ります。工房、商談、村の会議、食事、研究、休息を同じ頁で確認できるようにします」


「研究時間まで決めるのですか」


 レオンハルトが尋ねた。


「決めなければ、食事と睡眠が消えますので」


 ヒルデガルトが深く頷く。


「そのとおりです」


「反対できません」


 レオンハルトは認めた。


「書類は、契約、会計、製造、研究、村政、私信へ分けます。重要なものは写しを作り、原本と別の場所へ保管します」


「紙が必要になります」


 アーデルハイトが言う。


「必要経費です。契約書を失う損害より安いでしょう」


「機密文書は?」


「鍵のかかる箱を用意し、閲覧できる者を限定します。鍵は二本。一本は私が、もう一本はアーデルハイト様が保管するのがよろしいでしょう」


「レオンは持たないのですか」


 グレーテルが尋ねる。


「研究中に机へ置き、所在を忘れる可能性がございます」


「否定できません」


 レオンハルトは素直に答えた。


「開閉簿は箱の外に置き、開けた者、時刻、持ち出した文書を記録します」


 グレーテルが顔をしかめた。


「面倒くせえ」


「技術を盗まれても同じことが言えますか」


「盗んだ奴を殴る」


「盗まれたあとでは遅うございます」


「……鍵を作ればいいんだな」


「丈夫なものをお願いします」


 ゼバスティアンは、そこでレオンハルトへ目を向けた。


「そして、最も重要なのは、レオンハルト様ご自身でございます」


「私ですか」


「すべての相談へ、その場で答えようとなさっております」


「早く答えたほうがよいかと」


「判断に必要な情報が揃っていなくても?」


 レオンハルトは言葉を止めた。


「今日、商会から明るい魔力灯を求められ、すぐに新しい結晶を作ろうとなさいましたね」


「必要だと思いました」


「原価、製造時間、現在の注文、職人の余力を確認する前に、でございます」


 アーデルハイトが腕を組む。


「私が止めました」


「今後も、常にアーデルハイト様がその場にいるとは限りません」


「では、どうすれば」


「すぐに答える必要のない相談へは、返答期限を伝えてください」


「返答期限?」


「明日までに確認します。三日後に試作品の可否を答えます。そのように時間を置くのです」


「待たせることになりませんか」


「不確かな即答より、確認した返答のほうが信頼されます」


 レオンハルトは、これまでの商談を思い出した。


 新しい用途を聞くたび、すぐに作れるかどうか考えていた。


 作れると思えば、その場で口にしていた。


 だが、アーデルハイトが原価や人員を確認しなければ、実際に商品として続けられるかは分からない。


「研究者として可能なことと、この土地で引き受けられることは別なのですね」


「そのとおりでございます」


 ゼバスティアンの目が僅かに柔らかくなった。


「能力がある方ほど、できることを増やそうとなさいます。しかし、土地を預かる者には、しないことを決める責任もございます」


 その言葉は、レオンハルトの胸へ残った。


          ◇


「ゼバスティアン」


 アーデルハイトが静かに呼んだ。


「父からは、どこまで頼まれているのですか」


「管理屋敷の状況を確認し、必要であれば改善案を提示するように、と」


「改善案だけ?」


「はい」


「では、あなた自身はどう考えていますか」


 ゼバスティアンは、すぐには答えなかった。


 机の上へ分けた書類を見つめる。


「私は以前、王都の伯爵家へ仕えておりました」


 穏やかな声だった。


「当主が領地の金を私的に流用していることを知り、帳簿の改竄を命じられました」


 エルザが息を呑む。


「拒否したため、解雇されました。以後、正式な主を持たず、ローゼンフェルト家で臨時の仕事をいただいております」


「父から聞いています」


 アーデルハイトが答えた。


「再び貴族へ仕える気はないとも」


「そのつもりでございました」


 ゼバスティアンはレオンハルトを見る。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「はい」


「私へ、都合のよい数字を書くよう命じることはございますか」


「ありません」


 レオンハルトは迷わず答えた。


「赤字や失敗があっても?」


「隠せば、原因を直せません」


「契約へ不利な内容が含まれていても?」


「不利だからと消せば、相手へ責任だけを押しつけることになります」


「あなたご自身の判断が間違っていた場合は?」


「記録へ残してください」


 ゼバスティアンの目が僅かに細くなる。


「後に敵対する者へ利用される可能性もございます」


「間違いを隠して、誰かを危険にさらすよりはよいです」


 レオンハルトは、崩落した鉱山を思い出した。


 父とブルクハルトは、危険を示す記録を無視した。


 事故後は、自分たちに都合の悪い証言を消した。


「記録が正しく残っていれば、少なくとも同じ失敗を防げます」


 ゼバスティアンはしばらく黙っていた。


 視線が、エルザの帳面へ移る。


「今朝の予定違いについて、エルザさんを処罰なさらないのですか」


「故意ではありません」


「ですが、来客を待たせました」


「同じ役割を私が担っても、今の仕組みなら間違えたと思います」


「責任は?」


「何が足りなかったかを確認し、次に起きないよう直します。何度も同じことを隠したり、記録を捨てたりすれば、別の対応が必要ですが」


 ゼバスティアンはゆっくりと頷いた。


「知識や能力を持つ貴族は、珍しくありません」


 彼は静かに言った。


「ですが、自らに不利な記録を残し、使用人の失敗を仕組みの問題として考えられる方は多くない」


 レオンハルトは少し驚いた。


「当然のことでは?」


「その当然を守れなかった家へ、私は仕えておりました」


 ゼバスティアンは椅子から立ち上がった。


「レオンハルト様。私が指摘したことは、研究の邪魔になるかもしれません」


「書類や予定を整理することがですか」


「予定を制限し、会いたい相手へすぐ会わせず、見せたい書類を隠し、場合によっては研究より先に、この土地を預かる者としての礼儀を求めます」


「必要なことであれば、お願いします」


「私が、あなたの判断へ異議を唱えることもございます」


「理由があるなら、聞きます」


「来客の前でも?」


「間違いをそのままにするよりは」


 ゼバスティアンは僅かに首を振った。


「緊急に人命や契約へ関わる場合は、その場でお止めします。それ以外は、人前を避けて進言いたします」


「なぜですか」


「主の誤りを正すことと、交渉相手の前で統率が取れていない印象を与えることは別でございます」


「分かりました」


「それでも、私の進言を聞いていただけますか」


「はい。人前で言わないからと、あとで忘れないでください」


「進言記録も作りましょう」


「そこまで記録するのですか」


「必要であれば」


 ゼバスティアンの口元へ、ごく僅かな笑みが浮かんだ。


「では、一つお願いがございます」


「何でしょう」


「今は、頭を下げないでください」


 レオンハルトは、これから任せたいと頼むため、立ち上がりかけていた。


「ですが、お願いする立場です」


「敬意を示すことは必要です。しかし今は、謝罪する場ではなく、職務を任せる場でございます」


 ゼバスティアンは穏やかに言った。


「使用人へ敬意を示すことと、この土地を預かる者としての姿勢を失うことは違います。任せたい、と言葉でお命じください」


 レオンハルトは姿勢を正した。


「ゼバスティアン・クロイツ」


「はい」


「この屋敷の運営と、来客、予定、書類の管理を任せたいです」


「期間は?」


「正式な契約を作りましょう」


 アーデルハイトが答える。


「待遇、権限、退任条件、機密保持を明記します」


「現在、執事はあなた一人です」


 レオンハルトが続ける。


「それでも、使用人と事務全体をまとめる責任者として、執事長をお願いしたいです」


 ゼバスティアンは胸へ手を当てた。


「契約内容を確認し、合意できる限り、承ります」


 その場で忠誠を誓うのではない。


 条件を文書へ残し、互いに確認する。


 その答えが、レオンハルトにはむしろ信頼できるものに思えた。


          ◇


 ゼバスティアンの契約が正式に結ばれてから数日で、屋敷の運営は目に見えて変わった。


 玄関には来客簿が置かれた。


 名前。


 所属。


 用件。


 到着と退出の時刻。


 読み書きができない者には、エルザかヒルデガルトが代筆する。


 来客には受付札が渡された。


 赤は商談。


 青は村の相談。


 緑は工房関係。


 屋敷内で案内役が変わっても、札を見れば要件と案内先が分かる。


 帰る際には札を返してもらうため、まだ屋敷内に来客が残っているかも確認できた。


 予定だけを記す一冊の予定帳は、食堂ではなく執務用の小部屋へ置かれた。


 レオンハルトの研究時間。


 商談。


 工房の確認。


 村人との面会。


 食事。


 休息。


 すべてが同じ頁へ書き込まれる。


 予定変更を受けた者は、まず変更札を予定帳へ挟む。


 ゼバスティアンかアーデルハイトが内容を確認し、書き写したあとで変更札を保管する。


 これなら、誰がいつ変更を受けたのかも残る。


「研究時間が、少なくありませんか」


 予定帳を見たレオンハルトが尋ねる。


「午前に二時間。午後に三時間ございます」


「夜は?」


「夕食後は、記録整理のみです」


「新しい発想が浮かんだ場合は?」


「紙へ書いて、翌朝までお待ちください」


「すぐ試したほうが忘れません」


「書けば忘れません」


「紙をなくすかもしれません」


「そのための記録箱をご用意します」


 グレーテルが、鍵付きの鉄箱を机へ置いた。


「作ったぞ」


「早いですね」


「鍵を盗まれにくい形にしろって、こいつが細けえ注文を出しやがった」


 ゼバスティアンは鍵を受け取り、動きを確かめる。


「見事な出来でございます」


「当然だ」


「ただし、この蝶番では、強い工具を差し込まれる可能性がございます」


「今、褒めたばかりだろ!」


「優れた部分を認めることと、改善点をお伝えすることは両立いたします」


「言うじゃねえか、執事」


「職人の方へ曖昧な感想を伝えるのは失礼かと」


 グレーテルは一瞬黙り、やがて楽しそうに鼻を鳴らした。


「気に入った。直してやる」


 完成した機密箱の鍵は二本作られた。


 一本はゼバスティアン。


 もう一本はアーデルハイトが保管する。


 箱の外には開閉簿が置かれ、誰が、いつ、何の書類を取り出したか記録された。


 予備の鍵は作らず、どちらかが不在の場合は、もう一人の立ち会いが必要になる。


 研究室では、結晶へ新しい札が付けられた。


 試作品。


 改良前。


 比較保存。


 使用禁止。


 廃棄予定。


 レオンハルト以外でも、扱いが分かる。


 契約書や重要な記録は写しが作られ、原本と別の場所へ保管された。


 エルザの帳面も分けられた。


 屋敷の伝言帳。


 工房の試験記録。


 レオンハルトの予定確認。


 三冊を使い分ける。


「増えました」


 エルザが少し不安そうに言う。


「すべて持ち歩く必要はありません」


 ゼバスティアンが答えた。


「今いる場所で必要な一冊だけを持ってください」


「忘れた場合は?」


「戻って取りに行けばよいのです。記憶だけで補わないことが大切です」


「はい」


 食堂の机から、書類と鉱石が消えた。


 商談は応接室。


 研究は研究室。


 書類の確認は執務室。


 食堂では食事だけを行う。


 必要な物を、必要な場所へ戻す規則が、今度は誰にでも分かる形で決められた。


 夕食の時間になると、ゼバスティアンは研究室へ向かった。


 レオンハルトは新しい光結晶の構造を紙へ描いているところだった。


「レオンハルト様」


「あと少しです」


「夕食のお時間でございます」


「この線だけ完成させます」


「予定帳には、夕食開始と記されております」


「一分だけ」


 ゼバスティアンは机の上の紙を見た。


 途中まで描かれた結晶構造。


 隣には、忘れないための記録箱がある。


 彼は紙を持ち上げ、箱へ入れた。


「続きは、明朝の研究時間に」


「まだ覚えています」


「明朝も覚えているか確認するため、記録を残したのでございます」


「ですが――」


「参りましょう」


 口調は穏やかだった。


 それでも、断れる余地はなかった。


 食堂へ連れてこられたレオンハルトを見て、ヒルデガルトが僅かに目を見開く。


「予定どおりですね」


「もちろんでございます」


 ゼバスティアンが答えた。


 アーデルハイトは小さく笑った。


「どうやら、必要な方が来てくれたようですね」


 レオンハルトは自分の席へ座った。


 食卓の上には、食事以外の物が一つもない。


 窓際の小机では、ゼバスティアンが翌日の予定帳を開いていた。


 商談。


 工房の確認。


 村長との面会。


 研究時間。


 食事と休息。


 それぞれの予定が、重ならないよう整えられていく。


 混ざり合っていた仕事が分けられ、役割に合った場所へ収まっていく。


 レオンハルトは、その光景を眺めながら、結晶を整える作業に少し似ていると思った。

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