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廃嫡錬金術師の魔石国家  作者: 阿鼻恭介
第三章 崩落と廃嫡

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第15話 廃嫡

この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。

3日目(7/22)5話目です。

 鉱山崩落事故から五日後。


 レオンハルトは、ベルクシュタイン伯爵家の大広間に立っていた。


 窓の外では、雨上がりの雲が鉱山の方角を重く覆っている。


 事故の日から降り続いていた雨は、今朝になってようやく止んだ。だが、屋敷の中に満ちた空気は、晴れ間を迎えた空とは正反対に、重く冷え切っていた。


 大広間の中央に立つのは、レオンハルト一人だけだった。


 正面の壇上には、父ゲルハルト。


 その右側に弟のディートリヒ。


 左側には鉱山長ブルクハルトと、伯爵家の重臣たちが並んでいる。


 母ヘレーネの姿はない。


 この場に呼ばれることを許されなかったのだろう。


 レオンハルトは、そう察していた。


 事故後、レオンハルトは魔力を使い果たし、三日間眠り続けた。


 目を覚ましたときには、事故調査はすでにほとんど終わっていた。


 壇上脇の机には、何冊もの報告書が積まれている。


 レオンハルトが事故前に提出した、危険区画を示す鉱山図。


 採掘停止を求めた報告書。


 支柱の補強と地下水排出を進言した記録。


 それらが含まれているはずだった。


 だが、どの書類も閉じられたままだった。


 代わりに採用されたのは、ブルクハルトとディートリヒの証言だった。


 レオンハルトが許可なく坑道へ入り、正体不明の結晶錬金を使った。


 その結果、地下の魔力が乱れ、岩盤の崩壊を引き起こした。


 事故の責任は、レオンハルトの独断的な行動にある。


 誰か一人へ責任を押しつけるために作られた、あまりにも都合のよい話だった。


 生き残った鉱夫たちの中には、レオンハルトが結晶柱を作り、崩落から彼らを守ったことを証言した者もいた。


 しかし、その証言の多くは正式な記録に残されなかった。


 鉱山で働き続けたければ、余計なことを話すな。


 家族の暮らしを守りたければ、伯爵家へ逆らうな。


 直接そう脅された者もいれば、言葉にされずとも理解した者もいた。


 ディートリヒが最深部で爆破魔石を使用したと証言した騎士クラウス・アードラーは、すでに騎士団を解雇されている。


 証言を撤回するよう命じられ、それを拒んだためだった。


 真実を語った者が追われ、嘘を語った者が壇上にいる。


 その事実が、レオンハルトの胸を冷たく締めつけていた。


「レオンハルト」


 ゲルハルトの声が、大広間に響いた。


 幼い頃から何度も聞いてきた、感情を押し殺した低い声だった。


「此度の鉱山崩落について、家中での調査結果がまとまった」


 レオンハルトは父を見上げた。


「調査結果ではなく、すでに決められた結論ではありませんか」


「言葉を慎め」


 重臣の一人が鋭く言った。


 だがゲルハルトは片手を上げ、その男を制した。


「反論があるなら述べよ」


「では申し上げます」


 レオンハルトは、壇上に並ぶ者たちを見渡した。


「私は事故が起きる前から、主力鉱脈周辺の採掘停止を求めていました。坑道の亀裂、地下水の流入、支柱の劣化についても報告しています」


「その報告は確認した」


「ならば、なぜ私が事故の原因になるのですか」


 ゲルハルトの眉がわずかに動く。


「お前が坑道内で、大規模な錬金術を使用したことは事実だ」


「崩落が始まったあと、鉱夫を守るために使いました」


「それを証明できるのか」


「生き残った鉱夫たちが証人です」


「鉱夫たちは崩落の混乱の中にいた。恐怖の中で見たものが、正確とは限らん」


「では、ディートリヒの証言だけが正確だというのですか」


 レオンハルトは弟へ目を向けた。


 ディートリヒは、眠れぬ日々を過ごしたような憔悴した表情を作っていた。


 けれど、その指先は膝の上で強く組まれている。


 レオンハルトと目が合った瞬間、ディートリヒの視線がわずかに揺れた。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに悲しげな表情へ戻ったが、レオンハルトは見逃さなかった。


「兄上」


 ディートリヒは静かな声を出した。


「僕だって、こんなことにはしたくなかった。けれど、兄上があの日、勝手に鉱山へ入ったことは事実でしょう」


「お前は最深部で爆破魔石を使った」


 ディートリヒの肩がわずかにこわばった。


 彼は一度、父の顔を見た。


 ゲルハルトの表情が変わらないことを確認してから、兄へ向き直る。


「使っていない」


「クラウスが見ている」


「彼は兄上に恩を売ろうとして、虚偽の証言をした。だから騎士団を解雇されたんだ」


「違う」


 思わず声が強くなる。


 クラウスは、地位を失うと分かっていながら証言を曲げなかった。


 レオンハルトのために嘘をついたのではない。


 自分の正義に従い、見たままを語ったのだ。


 それを、恩を売ろうとしたなどという言葉で汚されることが、何より許せなかった。


「クラウスは嘘をついていない」


「それは兄上の願望だ」


 ディートリヒは小さく首を振った。


 その声には、兄を責めるよりも、自分自身へ言い聞かせるような響きがあった。


「兄上は昔から、宝石や結晶のことになると周りが見えなくなる。自分の研究が正しいと証明するためなら、採掘計画を止めることも、坑道へ勝手な結晶を生み出すこともためらわなかった」


「私は鉱夫を助けようとした」


「結果として、鉱山は失われた」


 その一言で、大広間が静まり返った。


 主力鉱山は、ベルクシュタイン伯爵家の財源だった。


 王国軍への魔石納品。


 王都の貴族たちとの取引。


 領内の雇用。


 それらすべてを支えていた鉱山が、ほぼ壊滅した。


 誰かが責任を負わなければならない。


 王都へ報告するためにも、取引先を納得させるためにも、明確な責任者が必要だった。


 そして父は、その役目にレオンハルトを選んだ。


「レオンハルト」


 ゲルハルトが静かに告げる。


「お前が鉱夫を救おうとしたことは認めよう。実際、多くの者がお前の結晶によって命を救われたという報告もある」


 その言葉に、レオンハルトはわずかな希望を抱いた。


 父はすべてを信じたわけではない。


 少なくとも、自分が鉱夫を救った事実は理解している。


 そう思った。


 しかし、続く言葉は、その小さな希望を切り捨てた。


「だが、家を守るためには、お前に責任を取らせねばならん」


「家を守るため……」


「この事故が伯爵家の安全管理の不備によるものだと王都に知られれば、残る鉱山の採掘権まで失う可能性がある。王国軍への納品契約も破棄される。最悪の場合、爵位にまで影響が及ぶ」


 ゲルハルトの口調に迷いはなかった。


「事故は、お前が独断で行った結晶錬金によって起きた。そのように報告する」


 レオンハルトは父の顔を見つめた。


 父は、真実を知らないのではない。


 疑うことをやめたのだ。


 ディートリヒの爆破魔石が原因かもしれない。


 安全管理を怠ったことが原因かもしれない。


 その可能性を認めれば、伯爵家そのものが責任を問われる。


 だから父は、真実よりも家を選んだ。


「私が事故を起こしたと、本気で信じておられるのですか」


 ゲルハルトは答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


「父上」


 レオンハルトは、もう一度だけ尋ねた。


「ディートリヒが爆破魔石を使用した可能性を、本当に一度も疑っておられないのですか」


「証拠がない」


「私が事故を起こした証拠もありません」


「お前には、危険な結晶錬金を独断で使用した事実がある」


「人を救うためです」


「結果がすべてだ」


 冷たい言葉だった。


 レオンハルトは唇を噛んだ。


 幼い頃から、父に認められたかった。


 光を蓄える結晶を作ったときも。


 母を苦しめる毒性魔力を吸収したときも。


 厨房で蓄熱結晶が役立ったときも。


 坑道の火災を防ぐため、魔力灯を作ったときも。


 いつか父が振り向いてくれると思っていた。


 武器や爆弾ではなくても、自分の錬金術には価値があると理解してくれると信じていた。


 だから危険を承知で鉱山へ通った。


 採掘計画を調べた。


 何度退けられても、鉱夫たちを守ろうと警告を続けた。


 それでも父が守ろうとしたのは、レオンハルトではなかった。


 鉱夫でもなかった。


 真実ですらなかった。


 ベルクシュタイン伯爵家という名と、王都での地位だけだった。


「判決を申し渡す」


 ゲルハルトが立ち上がる。


 重臣たちも姿勢を正した。


「レオンハルト・フォン・ベルクシュタイン。お前を、此度の鉱山崩落事故における責任者と認定する」


 父の声が、大広間に響く。


「本日をもって、ベルクシュタイン伯爵家の嫡男としての地位を剥奪する」


 レオンハルトは目を閉じなかった。


「相続権、家内における命令権、伯爵家所有の工房および鉱山への立ち入り権を失うものとする」


 予想していたはずだった。


 それでも、胸の奥に鋭い痛みが走る。


 ディートリヒが、わずかに息を吐いた。


 安堵の吐息だった。


 だが次の瞬間、自分でもそれに気づいたのか、彼は口元を引き締めた。


 レオンハルトは何も言わなかった。


 これで弟が正式な後継者となる。


「ただし」


 ゲルハルトは続けた。


「お前を家門から完全に追放するわけではない」


 重臣の一人が、地図と書類をレオンハルトの前へ運んだ。


「ローゼンフェルト子爵領の東端に、現在ベルクシュタイン家が管理権を持つ土地がある」


 机の上へ地図が広げられる。


 山間部の小さな領域だった。


 街道から遠く、農地も少ない。


 鉱山の横には、採掘終了を示す赤い印が記されている。


「土地そのものはローゼンフェルト子爵家の領地だ。だが、同家が負う債務の担保として、廃鉱山の採掘権と周辺村の収益管理権を、我が家が一時的に預かっている」


 以前、アーデルハイトが借金返済の交渉に訪れたときの話だった。


 ローゼンフェルト家は、過去の凶作と魔物被害によって財政難に陥っている。


 その債務の一部をベルクシュタイン家が引き受け、代わりに廃鉱山と周辺村から得られる収益を、返済に充てる契約を結んでいた。


「お前には、その廃鉱山と村の現地管理を命じる」


「管理、ですか」


「廃鉱山と村を立て直し、債務返済に充てられるだけの収益を上げろ。成果を示せば、家へ戻すことも考えよう」


 表向きは再起の機会。


 だが実際には、価値のない土地への追放だった。


 採り尽くされた鉱山。


 税収も期待できない貧しい村。


 十分な資金も兵も与えられない。


 土地の所有権はローゼンフェルト家に残るが、収益を出せなければ債務は減らず、ベルクシュタイン家からの評価も得られない。


 失敗すれば、そのまま辺境で忘れ去られる。


 成功する可能性があるとは、誰も考えていない。


 壇上の重臣たちの表情が、それを物語っていた。


 レオンハルトは地図を見下ろした。


 ローゼンフェルト領。


 以前、借金の返済交渉へ来たアーデルハイトが、現地管理を任されている土地だった。


 彼女が持参した帳簿には、廃鉱山から掘り出された大量の低純度鉱石の記録があった。


 魔力が薄く、不純物が多い。


 従来の錬金術師には利用できない。


 軍事魔石にもならない。


 だから価値がないと判断され、廃石置き場へ積み上げられている。


 だが、《結晶創造》ならば違う。


 あの石には、まだ使える魔力が残っている。


「どうした」


 ゲルハルトが尋ねる。


「言葉もないか」


 レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。


「一つ、確認させてください」


「何だ」


「私が管理するのは、廃鉱山の採掘権と周辺村の収益管理権ですね」


「そうだ」


「廃鉱山に残されている鉱石と、現地で得られた収益について、債務返済分を除けば私の裁量で使えると考えてよろしいですか」


 ゲルハルトは一瞬、眉を寄せた。


 泣き崩れるか、必死に許しを請うと思っていたのかもしれない。


「現地の運営に必要な範囲であれば認める」


「人材の雇用、工房の設置、商品の製造と販売も」


「許可する」


「現地で新しく開発した技術や製品は、ベルクシュタイン家の所有物になりますか」


 大広間がざわついた。


 ゲルハルトは、すぐには答えなかった。


「お前はベルクシュタイン家の一員だ」


「嫡男としての地位と、家内の権限を失うと、今しがた申し渡されました」


 レオンハルトは落ち着いた声で続けた。


「追放先で私が独自に開発した技術まで、無条件で伯爵家の所有物とされるのであれば、再建などできません」


「兄上、本気なの?」


 ディートリヒが呆れたように言う。


「あんな場所には、石くずしか残っていないよ。何を作れるというんだ」


 その声には嘲りがあったが、どこか落ち着かない響きも混じっていた。


 レオンハルトが自分とは違う何かを見つけている。


 そう感じているのかもしれない。


「何も作れないと思うなら、所有権を明確にしても問題はないはずだ」


 レオンハルトは弟を見ずに答えた。


「書面にしてください」


「何だと」


「廃鉱山の既存資源は、債務返済契約に従う。土地の所有権はローゼンフェルト子爵家に残る。ですが、現地で私が独自に開発した技術、製造法、製品については、私と現地管理者の共同管理とする。その内容を明確にした書面が必要です」


 大広間のざわめきが大きくなる。


 廃嫡を告げられたばかりの少年が、追放先の権利について交渉を始めたのだ。


 ゲルハルトはしばらく息子を見つめていた。


 やがて、重臣の一人へ視線を向ける。


「ローゼンフェルト家との契約を侵害しない範囲で、書面を作成せよ」


「よろしいのですか」


「構わん」


 ゲルハルトは冷たく言った。


「価値のない廃石と、貧しい村から生まれるものなど知れている」


 重臣は頭を下げた。


「ただし、ベルクシュタイン家からの援助は最低限とする」


 ゲルハルトは続ける。


「現地管理人としての手当と、移動に必要な馬車。最初の一か月分の食料と、必要最低限の道具だけだ」


「承知しました」


「成果を出せば、私も考えを改めるかもしれん」


 ゲルハルトの声が、ほんのわずかに柔らかくなった。


「お前はまだ若い。自分の過ちを認め、役に立つ錬金術を学ぶ機会にすればよい。いずれディートリヒを支える立場として、家へ戻る道もある」


 その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの中で何かが静かに切れた。


 それは怒りではなかった。


 長い間、胸の奥に残っていた期待だった。


 いつか父に認めてもらえる。


 いつか家族として向き合える。


 自分の錬金術にも意味があると、分かってもらえる。


 そんな願いが、音もなく崩れていった。


 父は今も、レオンハルトが過ちを犯したと思っている。


 いや、そう思うことを選んでいる。


 そして、追放先で苦労すれば、やがて自分の価値観へ従うようになると考えている。


 レオンハルトは背筋を伸ばした。


「私は、戻るために行くのではありません」


 ゲルハルトの表情が固まる。


「何だと」


「父上が価値を認める錬金術を学ぶためでも、ディートリヒを支えるためでもありません」


 レオンハルトは机の上の地図を手に取った。


「私は、あの土地で、自分の錬金術が何を生み出せるのかを確かめます」


「レオンハルト」


「鉱夫を危険な坑道へ送り込み、武器や爆弾のためだけに魔石を掘る。それがベルクシュタイン家の求める錬金術なら、私はそこへ戻るつもりはありません」


 重臣たちが息を呑む。


 ゲルハルトの顔に、初めて明確な怒りが浮かんだ。


「自分が何を言っているのか分かっているのか」


「はい」


「家を離れれば、ベルクシュタインの名がどれほど大きなものだったか思い知ることになる」


「そうかもしれません」


「後悔しても遅いぞ」


 レオンハルトは、父の目をまっすぐに見た。


「後悔するとすれば、もっと早く鉱夫たちを避難させられなかったことです」


 ゲルハルトは何も答えなかった。


 レオンハルトは深く一礼し、大広間をあとにした。


 扉が閉まる直前、背後で椅子がわずかに軋む音がした。


 ディートリヒが動いたのだろう。


 だが、レオンハルトは振り返らなかった。


          ◇


 自室へ戻ると、母ヘレーネが待っていた。


「レオン」


 母は立ち上がり、息子を抱き締めた。


 レオンハルトはしばらく何も言えなかった。


 母の腕の温かさに触れた瞬間、張りつめていたものがわずかに緩んだ。


「廃嫡されました」


「ええ」


「事故の責任も、私が負うことになりました」


「聞いています」


「父上は……真実よりも家を選びました」


 ヘレーネは息子の髪を撫でた。


「あなたに、謝らなければなりません」


「母上が謝ることではありません」


「私は、あの人を止められなかった」


 母の声が震えていた。


「あなたが何度も鉱山の危険を訴えていたことを知っていたのに、家のことへ口を出せないと言い訳をしました」


「母上」


「あなたが一人で何とかしようとしていることに気づいていたのに、私は何もできなかった」


 レオンハルトは首を振った。


「母上がいたから、私は今まで自分の力を信じられました」


 ヘレーネは目を伏せた。


 やがて机の上へ、小さな宝石箱を置く。


 見覚えのある古い箱だった。


 蓋を開けると、中には透明な結晶が収められている。


 幼いレオンハルトが、母から毒性魔力を吸収するために作った結晶。


 長い年月が経ち、内部には淡い緑色の筋が浮かんでいた。


「ずっと持っていたのですか」


「私の命を救ってくれたものですもの」


 ヘレーネは微笑んだ。


「あなたの力は、決して無価値ではありません」


 レオンハルトは結晶を手に取った。


 五歳の自分が、ただ母を助けたいという一心で作ったものだった。


 武器ではない。


 爆弾でもない。


 誰かを傷つけるためのものでもない。


 それでも確かに、一人の命を救った。


「持っていきなさい」


「ですが、これは母上の――」


「あなたが迷ったときに思い出すためのものよ」


 ヘレーネは息子の手を包み込む。


「あなたの錬金術が、何のためにあるのかを」


 レオンハルトは目を閉じ、結晶を強く握った。


 父に認められるためではない。


 家の利益を増やすためだけでもない。


 誰かを傷つける力を競うためでもない。


 必要としている者を助けるため。


 危険にさらされている者を守るため。


 自分の力は、そのためにある。


「必ず、またお会いします」


「ええ」


「今度は、父上に認めてもらうためではありません」


 レオンハルトは顔を上げた。


「私が作った場所へ、母上を招くために戻ります」


 ヘレーネの目から涙がこぼれた。


「楽しみにしています」


          ◇


 翌朝。


 レオンハルトに許された荷物は、衣服を詰めた鞄と、研究記録の一部、最低限の錬金道具だけだった。


 秘密の工房に保管していた結晶の多くは、伯爵家の所有物として没収された。


 長年積み上げてきた研究成果を置いていくことは苦しかった。


 棚に並べた試作品。


 何度も書き直した実験記録。


 失敗を重ねながら作った結晶炉。


 そのほとんどを持ち出すことは許されなかった。


 だが、知識まで奪われたわけではない。


 《結晶創造》も失っていない。


 一度作ったものなら、時間はかかっても、また作り直せる。


 今度は、自分の意思で使える場所に。


 屋敷の正門には、一台の古い馬車が用意されていた。


 見送りに来た使用人はほとんどいない。


 廃嫡された者へ近づけば、新しい後継者に睨まれる。


 誰もがそれを理解していた。


 それでも、長く仕えていた侍女の一人が、遠くの柱の陰から深く頭を下げていた。


 庭師も、庭木の手入れをするふりをしながら、帽子を取って胸へ当てている。


 レオンハルトは、彼らへ気づかないふりをして小さく頭を下げた。


 馬車へ乗ろうとしたとき、門の外から一人の老人が歩いてきた。


 白髪交じりの髪。


 長年の採掘で曲がった背。


 右足を少し引きずる歩き方。


「オットー」


 老鉱夫オットー・ヴェーバーだった。


 事故当日、レオンハルトの避難命令を信じ、仲間たちを坑道の外へ導いた人物だ。


 オットーの背には、大きな荷物が背負われていた。


「坊ちゃん」


「その荷物は何ですか」


「見りゃ分かるでしょう。旅支度です」


「旅支度?」


「俺も行きます」


 レオンハルトは目を見開いた。


「廃鉱山へですか」


「ええ」


「ですが、あそこには仕事があるかも分かりません」


「ここにも、もう仕事はありませんよ」


 オットーは、崩れた鉱山の方角を見る。


「主力坑道は潰れ、残った場所もいつ再開するか分からない。それに、あの日、俺たちが生きて戻れたのは坊ちゃんのおかげです」


「私は当然のことをしただけです」


「当然のことをしなかった連中が、あの屋敷には大勢いる」


 オットーの声に、静かな怒りがあった。


「坊ちゃんが山を壊したなんて、俺は信じません。爆破の音も聞きました。誰が俺たちを助けて、誰が逃げたのかも知っている」


「それを証言すれば、あなたの家族が――」


「だから家族も連れていきます」


 門の少し離れた場所に、荷車が止まっていた。


 そこにはオットーの妻と、成人した息子夫婦、幼い孫たちが乗っている。


「皆で話しました」


 オットーは言った。


「この土地に残って、いつ仕事を奪われるか、いつ口を塞がれるかと怯えるより、坊ちゃんについていこうと」


「私には、あなたたちへ豊かな暮らしを約束できません」


「分かっています」


「廃鉱山が本当に再利用できるかも、まだ確かめていません」


「それも分かっています」


「失敗するかもしれません」


「それでもです」


 オットーは、まっすぐにレオンハルトを見た。


「なら、一つだけ約束してください」


「何でしょう」


「俺たちの話を聞いてくれますか」


 レオンハルトは迷わず頷いた。


「もちろんです」


「危ない場所は危ないと言う。無理な仕事は無理だと言う。家族が困っているなら、困っていると話す。それを聞いてくださいますか」


「必ず聞きます」


「それで十分です」


 オットーは深く頭を下げた。


「これからは、レオンハルト様と呼ばせていただきます」


「今までどおり、レオンで構いません」


「そうはいきません。あんたは、これから俺たちの暮らしを預かる方になるんでしょう」


 領主。


 その言葉は、レオンハルトの胸に重く響いた。


 正確には、まだ領主ではない。


 ローゼンフェルト家が所有する土地で、廃鉱山と村の管理を任されたにすぎない。


 それでも、そこで暮らす人々にとっては、レオンハルトの判断が生活を左右する。


 これまでは伯爵家の長男として、父に認められることばかり考えていた。


 だが、これからは違う。


 自分の判断で、人々の暮らしが変わる。


 守らなければならない命がある。


「分かりました」


 レオンハルトは、オットーへ手を差し出した。


「力を貸してください」


「もちろんです、レオンハルト様」


 二人は固く手を握った。


 古い馬車が動き始める。


 オットーたちの荷車も、その後ろへ続いた。


 生まれ育った屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。


 レオンハルトは一度だけ振り返った。


 最上階の窓辺に、母ヘレーネの姿が見えた。


 レオンハルトは胸元から吸毒結晶を取り出し、窓へ向けて掲げた。


 母も手を上げる。


 やがて屋敷は、木々の向こうへ隠れた。


 レオンハルトは前を向いた。


 馬車の床には、廃鉱山の地図が広げられている。


 採り尽くされたと記された鉱山。


 価値がないと判断された低純度鉱石。


 貧しく、見捨てられた村。


 伯爵家の誰もが、そこには何もないと思っている。


 だからこそ、自由に始められる。


「価値がない石などない」


 レオンハルトは小さく呟いた。


 石に価値がないのではない。


 使い方を知られていないだけだ。


 それは土地も、人も、技術も同じだった。


 父に捨てられた自分も。


 追われた鉱夫たちも。


 廃鉱山に積み上げられた石くずも。


 まだ何者にもなっていないだけだ。


 馬車は、ローゼンフェルト領へ続く街道を進んでいく。


 ベルクシュタイン伯爵家へ戻るためではない。


 父に認められるためでもない。


 誰かに価値を決めてもらうのではなく、自分たちで新しい価値を作るために。


 十五歳のレオンハルトは、生まれ育った家をあとにした。


 その古い馬車が向かう先に、やがて大陸中の人々から魔石国家と呼ばれる土地が生まれることを、このとき知る者はまだ誰もいなかった。

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