第12話 鉱山へ走る
この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。
3日目(7/22)2話目です。
雨は、三日を待たなかった。
避難経路確認会を開いた翌日の夜から降り始めた雨は、夜明けを迎えても弱まらなかった。
屋敷の窓を打つ雨粒は時間とともに大きくなり、庭の石畳には濁った水が流れている。
遠くの山は厚い雨雲に覆われ、頂上どころか中腹さえ見えなかった。
レオンハルトは夜明け前から結晶工房へ入り、鉱山へ運ぶ道具を確認していた。
予備の魔石灯。
包帯。
薄い毛布。
水筒。
担架を作るための布と木棒。
坑道図の写し。
避難基準を記した紙。
雨が三日続いた場合、坑口で避難準備を始める予定だった。
だが、今回は雨の強まり方が早すぎる。
昨夜のうちに鉱山へ送った確認役からも、まだ報告が戻っていなかった。
「レオンハルト様」
工房の扉が開き、アルノルトが入ってきた。
外套の肩から雨水が滴っている。
「鉱山から使いが来ました」
「状況は?」
「第三運搬路の排水溝が溢れました。北壁だけでなく、床の亀裂からも水が出ているそうです」
レオンハルトの手が止まる。
「支柱は?」
「二本が大きく傾き、周辺区画の一班は自主的に退避しました」
「一班だけですか?」
「主力坑道では直接の異常が確認されていないとして、鉱山長が作業を続けさせています」
レオンハルトは机の上へ広げた坑道図を見た。
第三運搬路から主力坑道へ伸びる青い線。
地下水の流れを示したものだ。
地図上では離れていても、岩盤内部では同じ脆い層でつながっている。
「父上への報告は?」
「早朝、鉱山事務所から報告書が届きました」
「父上は何と?」
「第三運搬路周辺の退避と、主力坑道の監視強化を命じました。全面停止までは認めておられません」
父は報告を読んだ。
その上で、採掘を続けると判断したのだ。
レオンハルトは鞄を閉じた。
「鉱山へ行きます」
「坑口までです」
アルノルトが強く言う。
「約束をお忘れではないでしょうな」
「覚えています。中へ入るのは、連絡が途絶えた場合か、取り残された方がいると分かった場合だけです」
その時、廊下を走る足音が聞こえた。
工房へ飛び込んできたのは、泥だらけの鉱夫だった。
「若様!」
「どうしたんですか」
男は肩で息をしながら、濡れた帽子を握り締める。
「オットー親方からです。主坑道の排水溝にも砂が混じり始めました。天井から小石が続けて落ち、支柱の軋む音も増えています」
「退避基準が三つ重なっています」
レオンハルトが言うと、男は何度も頷いた。
「親方と班長たちは退避を訴えました。ですが鉱山長は、伯爵様の命令は監視強化までだと……」
「まだ作業を続けているのですか」
「雨季へ入れば、しばらく鉱石を運び出せなくなります。今日が最後の搬出日になるかもしれないから、露出した高品質鉱脈だけでも掘れと」
ブルクハルトが強行する理由は分かった。
だが、それで危険が消えるわけではない。
「連絡役は戻りましたか?」
「一人が戻っていません」
アルノルトの顔が険しくなる。
連絡が途絶え、内部には人が残っている。
レオンハルトが坑道へ入る条件は、既に満たされていた。
「行きましょう」
◇
鉱山へ続く道は、ところどころ川のようになっていた。
跡取り教育で身につけた乗馬を使い、レオンハルトとアルノルトは麓まで馬で向かった。
それより先は道がぬかるみ、馬を進ませる方が危険だったため、近くの小屋へ預けて歩いた。
雨水が靴の中へ入り、外套はすぐに重くなる。
山へ近づくほど、地面の下から低い音が響いてきた。
雷ではない。
雨音とも違う。
岩と岩が押し合い、山の奥でゆっくり動いている音だった。
坑口へ着くと、鉱夫の家族たちが不安そうに集まっていた。
入口横の排水溝からは、茶色く濁った水が激しく流れ出している。
追加された二台のポンプも動いていたが、水量へ追いついていない。
「若様!」
坑口の見張り役が駆け寄ってきた。
「中の人数は?」
「朝の入坑が百二十六名です。既に三十八名が退避しました」
「残り八十八名……」
「第三運搬路と周辺支道の班は戻っております。ただ、主力坑道と深部の作業班がまだです」
「オットーは?」
「中で退避を呼びかけながら、人数を確認しています」
「連絡役は?」
「二人入りました。一人は戻りましたが、もう一人はまだです」
アルノルトが鞄を下ろした。
「予備の魔石灯を配りなさい。退避した者は班ごとに人数を確認。負傷者は倉庫へ運び、濡れた服を替えさせるのです」
見張り役が動き出す。
その時、鉱山事務所からブルクハルトが出てきた。
雨避けの外套を着ているが、坑道へ入る支度ではない。
「何をしておられるのですか」
「即時退避基準が成立しています」
レオンハルトは避難基準の紙を示した。
「僕に採掘計画を変更する権限はありません。ですが、一般安全教育で定めた危険兆候が重なっています。鉱夫の方々へ、退避するよう伝えます」
「伯爵様の命令は、主力坑道の監視強化です」
「報告した時より状況が悪化しています」
「高品質鉱脈が露出したばかりなのです。今日中に運び出さなければ、浸水で失われる可能性がある」
「鉱石は失っても掘り直せます。命は戻りません」
「鉱夫の生活も、採掘量に支えられているのです」
「死んだ鉱夫へ賃金は払えません」
ブルクハルトの顔が強張った。
「これは鉱山長である私の判断です」
「では、ご自分で中を確認してください」
レオンハルトは坑口を指した。
「今の主力坑道へ入り、作業を続けられると鉱夫たちへ直接伝えてください」
「私は全体の指揮を執る立場です」
「だから、ご自分は入らないのですか」
「若様。言葉が過ぎます」
「中では連絡役が戻らず、八十八人が残っています」
レオンハルトは魔石灯を腰へつけた。
「僕は入ります」
「鉱山管理から外された方を、勝手に入坑させることはできません」
「緊急時の人命救助です」
アルノルトがブルクハルトへ向き直った。
「私は伯爵家の錬金技術顧問として、坑道内部の緊急安全確認を宣言します。レオンハルト様には、岩盤状態を確認する技術があります」
「それでも――」
「私も同行します」
坑口脇から、一人の騎士が進み出た。
二十代後半の、生真面目そうな男だった。
「クラウス・アードラーと申します。雨天による混乱へ備え、騎士団から坑口警備の増員として派遣されました」
「騎士が鉱山管理へ口を出すのか」
ブルクハルトが睨む。
「伯爵家のご子息と技術顧問が救助のため坑道へ入る以上、警護するのは騎士の役目です」
クラウスは淡々と答えた。
「人命へ明確な危険が迫っている状況で、それを妨害することも騎士の職務ではありません」
ブルクハルトは口を閉じた。
レオンハルトは坑口の見張り役へ尋ねる。
「内部の構造を確認します。主力坑道の途中から南支道と旧運搬路が分かれ、その先が最深部ですね」
「はい。第三運搬路は閉鎖済みです。旧運搬路は今のところ使えます」
「ディートリヒはどこですか」
見張り役がブルクハルトへ視線を向ける。
「最深部です」
ブルクハルトが渋々答えた。
「なぜ弟が中に?」
「排水路案の測量です」
「爆破石も持ち込んでいるのですか」
「設置位置を確認するための試作品を一つだけです。使用許可は出しておりません」
「父上は、測量と排水先の確認後に再検討すると言いました」
「ですから測量です」
「この雨の中、最深部へ爆破石を持ち込むこと自体が危険です」
「ディートリヒ様が、後継者候補として現場を確認すると押し切られました」
ブルクハルトは、完全に許可したわけではないと言いたいのだろう。
だが、護衛と作業員をつけて最深部へ入れた時点で、止めなかった責任は消えない。
「すぐに連れ戻します」
レオンハルトは坑道へ足を向けた。
◇
坑道内は、以前とは別の場所のようになっていた。
排水溝から溢れた水が通路へ広がり、足首まで浸かる場所もある。
壁を流れる水が魔石灯の光を反射し、岩肌の影を不規則に揺らしていた。
クラウスは通常の盾を左腕へ構え、先頭を進む。
レオンハルトが中央。
アルノルトが後方を確認する。
「前方から人が来ます」
クラウスが声を上げた。
暗闇の奥から、鉱夫たちが現れた。
オットーが先頭に立ち、後ろには二十人ほどが続いている。
「若様!」
「親方、人数は?」
「第一採掘班は全員おります。第二班は三人が道具を取りに戻り、それを捜す監督も残っています」
「なぜ道具を?」
「借金をして買った物です。置いていけば、壊れるか流される。そう考えたのでしょう」
生活がかかっている。
避難基準を教えても、すべてを捨てて逃げることをためらう者はいる。
「第三班は?」
「旧運搬路から退避中です。主力坑道の中段には、まだ四十人近く残っています」
「最深部は?」
「ディートリヒ様、護衛三人、ブルクハルト直属の作業班九人です」
レオンハルトは予備の魔石灯をオットーへ渡した。
「この方々を地上へ。退避人数を班ごとに確認してください」
「若様は?」
「残っている人を呼び戻します」
「儂も行きます」
「親方は道を知っています。だから、皆さんを外へ連れていってください」
オットーは険しい顔でレオンハルトを見る。
「必ず戻ってください」
「はい」
オットーたちと別れ、さらに奥へ進む。
主力坑道の途中で、南支道と旧運搬路が左右へ分かれていた。
南支道からは、道具を取りに戻った鉱夫たちを捜す声が聞こえる。
旧運搬路の壁へ打たれた反射片が、魔石灯の光を返していた。
レオンハルトが以前設置した避難目印だ。
その一つが僅かに傾いている。
「床が動いています」
レオンハルトは壁へ触れた。
《結晶創造》を使う。
地下水が以前より速く流れていた。
水を含んだ粘土層が押し出され、上の岩盤を支える力を失い始めている。
亀裂は主力坑道だけでなく、旧運搬路側にも広がっていた。
「避難路も長くは持ちません」
「どの程度です?」
アルノルトが尋ねる。
「正確には分かりません。爆破のような強い振動がなければ、まだ時間は――」
遠くで岩が割れる音がした。
爆発ではない。
水を含んだ岩盤が、自重に耐え切れず崩れ始めた音だった。
天井から小石が一斉に落ちる。
クラウスが盾を上げ、レオンハルトとアルノルトの頭上を守る。
「走ってください!」
◇
主力坑道の中段では、鉱夫たちが立ち尽くしていた。
ブルクハルト直属の監督が作業を続けるよう叫んでいる。
だが、天井から細かな砂が絶えず落ち、つるはしを振る者はいなかった。
「全員、地上へ退避してください!」
レオンハルトの声が坑道へ響く。
監督が振り返った。
「若様に命令権はありません!」
「命令ではありません。即時退避基準が成立しています!」
「まだ主力坑道は持っております!」
その直後、坑道の奥で岩が砕けた。
人の頭ほどの石が落下し、無人の荷車を直撃する。
木製の荷台が砕け、積まれていた鉱石が床へ散らばった。
鉱夫たちが悲鳴を上げる。
「大きな落石は、一つでも即時退避です!」
先日の確認会へ参加していた班長が声を上げた。
「第三班、人数を数えろ!」
「第四班は負傷者を先に!」
班長たちが動き始める。
監督が止めようとした。
「勝手なことをするな! 鉱山長の命令を――」
「これ以上妨害するなら、人命を危険にさらしたとして拘束します」
クラウスが監督の前へ立った。
「騎士が鉱山へ口を出すのか」
「落石を見ても安全だと言うなら、あなたがここへ残りなさい」
監督は口を閉じた。
鉱夫たちが旧運搬路へ向かって動き始める。
アルノルトはその場へ残り、班長たちと人数確認を始めた。
「私はここで退避を補助します」
「先生」
「最深部へ行くのでしょう」
「はい」
「ディートリヒ様が爆破石を使用した場面を、私は見ておりません」
アルノルトは低い声で言った。
「だから、見たことと聞いたことを分けて記録します。あなたも同じようにしなさい」
「分かりました」
「クラウス殿。レオンハルト様をお願いします」
「必ず連れ戻します」
クラウスとレオンハルトは、退避する人の流れに逆らって最深部へ走った。
◇
最深部へ近づくほど、坑道は荒れていた。
壁には新しい亀裂が走り、足元を濁った水が流れている。
魔石灯が揺れるたび、影が生き物のように動いた。
「ディート!」
レオンハルトは声を張り上げた。
返事はない。
代わりに、金属を岩へ打ち込む音が聞こえた。
曲がり角を抜けると、広い採掘跡へ出た。
ディートリヒがいた。
護衛三人。
ブルクハルト直属の作業員九人。
作業員たちは不安そうな表情を浮かべていたが、後継者候補であるディートリヒの命令へ逆らえず、その場に残っている。
中央の岩壁には、黒い外殻を持つ新型爆破石が取りつけられていた。
そこから伸びた起爆導線を、ディートリヒが手にしている。
「何をしているんだ!」
レオンハルトが駆け寄った。
ディートリヒが振り返る。
「兄上こそ、なぜここへ?」
「全員退避だ。崩落が始まっている」
「まだ使っていません」
ディートリヒは爆破石を示した。
「測量結果が出る前に、少しだけ試すつもりでした。小さな穴を開けて、水がどちらへ流れるか確認します」
「それは測量じゃない。爆破だ」
「出力は抑えています」
「地上へ抜ける方向も、距離も、排水先も分かっていない」
「少し穴を開ければ分かります」
「爆破した後に分かっても遅い!」
レオンハルトは壁へ手を置いた。
《結晶創造》を通して、岩盤内部を見る。
爆破石が設置された先には、地上へ通じる空間などない。
水を含んだ脆い層。
その奥に、採掘で残された大きな空洞。
爆破すれば、水を外へ逃がすどころか、空洞を支える岩を壊すことになる。
「この先は外じゃない」
「地図では外壁に近いです」
「間に空洞がある。その周りの岩も水で弱っている」
「兄上にしか見えない話でしょう」
「だから確かめるまで使うなと言っているんだ!」
ディートリヒの顔が歪む。
「このまま戻れば、父上に何もできなかったと思われます」
「今は成果の話をしている場合じゃない」
「排水路を作れば採掘を止めずに済みます。水が抜ければ危険もなくなる!」
「抜けない。山の中の水を、この場所へ呼び込むだけだ」
作業員たちがざわめく。
一人が恐る恐る口を開いた。
「ディートリヒ様……やはり、退避した方がよいのでは」
「黙ってください」
「ですが、天井から砂が……」
「僕が責任を取ります」
「責任を取っても、死んだ人は戻らない!」
レオンハルトは爆破石へ近づいた。
「導線を外せ。全員で戻るんだ」
「触らないでください!」
ディートリヒが導線を握り締める。
「兄上は、僕の成功が怖いだけです」
「違う!」
「僕は王都で認められた。兄上より優れた錬金術師です!」
地面の下から、低く重い音が響いた。
壁の亀裂から、濁った水が細い筋となって流れ出す。
天井から小石が落ち、クラウスの盾を叩いた。
「ディートリヒ様」
クラウスが一歩前へ出る。
「騎士として命じます。導線を手放し、退避してください」
「下級騎士が僕へ命令するのですか」
「人命へ差し迫った危険があります」
「僕はベルクシュタイン家の後継者候補です」
「だからこそ、作業員の命へ責任を持つべきです」
ディートリヒは答えなかった。
導線を持つ手だけが、震えている。
レオンハルトは弟へ手を伸ばした。
「ディート。一緒に戻ろう」
「……嫌です」
「父上に怒られても、僕も説明する」
「兄上に庇われたくありません」
ディートリヒは起爆導線を胸元へ引き寄せた。
その先にある爆破石の術式が、淡く赤い光を帯びる。
まだ起爆は始まっていない。
今なら止められる。
「ディートリヒ!」
レオンハルトが踏み出した瞬間。
山の奥から、今までで最も大きな破砕音が響いた。
地面が激しく揺れ、天井の亀裂が一気に広がる。
作業員たちが悲鳴を上げた。
ディートリヒの指が、導線へ魔力を流す起動部へ触れた。
赤い光が、導線の端にともった。
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