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廃嫡錬金術師の魔石国家  作者: 阿鼻恭介
第二章 崩れ始めた鉱山
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11/36

第11話 雨季の前

この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。

3日目(7/22) は5話投稿で 1話目です。

 雨季が近づくにつれ、山の空気は重くなっていった。


 朝は晴れていても、昼を過ぎる頃には厚い雲が峰へ集まり、短い雨を降らせる。


 まだ本格的な長雨ではない。


 それでも、鉱山入口の排水溝を流れる水は、日を追うごとに増えていた。


 レオンハルトは東側の結晶工房で低純度鉱石の研究を続けながら、鉱山から届く記録へ毎日目を通していた。


 漏水量。


 支柱の交換数。


 爆破回数。


 坑道内の湿度。


 落石や異音の報告。


 鉱山管理から外されたとはいえ、小規模な落盤の後に認められた、既存坑道の壁面から行う非破壊調査と、提出済み記録の閲覧まで禁じられたわけではない。


 ブルクハルトは必要最低限の報告しか回してこなかった。


 だが、オットーや信頼できる班長たちは、現場で気づいた変化を簡単な記録へ残してくれていた。


 以前の警告を、妄想として終わらせないためでもある。


 その朝も、オットーから短い伝言が届いた。


『第三運搬路の北壁から漏水。昨日は一刻で桶二杯。今朝は桶五杯。支柱の根元に細かな砂が増えている』


 レオンハルトは、その一文を読んだ瞬間に立ち上がった。


 水だけなら、雨季前の鉱山では珍しくない。


 だが、漏水量が一日で倍以上になり、支柱の根元へ細かな砂まで流れ出している。


 岩盤内部の脆い層が、地下水によって削られている可能性があった。


「先生」


 向かいの机で試験記録を整理していたアルノルトが顔を上げる。


「鉱山へ行きます」


「許可の範囲は確認しましたか」


「第三運搬路は、以前黄色に分類した区画へ続いています。新たに穴を開けず、既存坑道の壁面から状態を確認する非破壊調査なら認められています」


 アルノルトは伝言を読み、表情を引き締めた。


「私も参ります」


「今日は爆破石の検査があるのでは?」


「延期させます」


「ディートが納得しますか」


「納得させる必要はありません。教師として、安全確認より優先すべきものはないと伝えます」


 レオンハルトは頷き、坑道図と記録板を鞄へ入れた。


          ◇


 鉱山へ着いた頃には、空が灰色に変わっていた。


 入口付近では鉱夫たちが荷車を押し、濡れた鉱石を選別場へ運んでいる。


 地面には細かな水溜まりができ、荷車の轍へ濁った水が溜まっていた。


「若様」


 オットーが坑口の前で待っていた。


 その顔には、いつもの穏やかさがない。


「水はどこから?」


「第三運搬路の奥です。最初は壁の隙間から染み出す程度でしたが、今朝になって筋を作るほど増えました」


「砂の量は?」


「昨日は手のひらへ乗るほどでした。今朝は小さな山が二つできております」


「支柱は傾いていますか」


「目盛りをつけておきました。昨日より指一本分、北側へ沈んでおります」


 レオンハルトは息を呑んだ。


 漏水だけではない。


 支柱の根元が削られ、荷重のかかり方まで変わり始めている。


「爆破は?」


「一昨日、南側の支道で一度。昨日は別の支道で二度です」


「第三運搬路の近くでは?」


「同じ地点では三日空けるという決まりは守っております。しかし、周辺の枝道では続けております」


 父が爆破間隔を定めた時、レオンハルトが危惧していたとおりだった。


 ブルクハルトは命令に従い、同じ場所での爆破間隔は空けている。


 その代わり、作業班を別の支道へ移し、鉱山全体の爆破回数を維持していた。


 振動は、区画を示す線で止まってはくれない。


 脆くなった岩盤は、離れた場所からの衝撃でも少しずつ傷んでいく。


「中へ入りましょう」


 アルノルトが言う。


 同行するのは、レオンハルト、アルノルト、オットー、現場監督、魔石灯を持つ班長二人。


 入坑記録には、調査者の名前、目的、進入区画、予定時刻を記載した。


 現場監督は、その写しを爆破管理所へ届けるよう若い書記へ命じる。


「調査中は、第三運搬路と接続する区画の爆破を止めてください」


 アルノルトが念を押した。


「伝えます」


 書記が走っていく。


 レオンハルトたちは、それを確認してから坑道へ入った。


 湿った空気が肌へまとわりつく。


 以前よりも水音が多い。


 壁の隙間から落ちる雫。


 排水溝を流れる濁った水。


 荷車の車輪がぬかるみを踏む音。


 第三運搬路へ近づくにつれ、地面の湿り方が変わった。


 排水溝へ刻まれた水位の目盛りも、前日の記録より二段高い。


「こちらです」


 オットーが魔石灯を向ける。


 北側の壁へ、細い亀裂が縦に走っていた。


 そこから濁った水が流れ出し、壁の下へ茶色い砂を積もらせている。


 支柱の根元に刻まれた二本の線は、僅かにずれていた。


 レオンハルトは手袋を外し、亀裂の横へ手を置いた。


 冷たい。


 《結晶創造》を通して、岩盤の内部へ意識を伸ばす。


 表面の硬い岩層。


 その奥にある、粘土を含んだ脆い層。


 地下水は、その脆い層へ沿って広がっていた。


 以前は細い筋だった水の流れが、今は複数の亀裂をつなぎ始めている。


 さらに奥には、採掘によって残された空洞があった。


 小さなものではない。


 空洞の周囲を支えている岩の一部へ、水が回り込んでいる。


 粘土質の層は水を含んで軟らかくなり、荷重を受けて僅かに押し出されていた。


 レオンハルトの呼吸が浅くなる。


「先生」


「何が見えます」


「水が脆い層へ沿って広がっています。以前確認した空洞の外側まで届いています」


「どの程度です?」


「壁面から十数歩以上。下にも流れています」


 レオンハルトは別の場所へ手を移した。


 内部の亀裂を追う。


 水は一か所へ溜まっているのではない。


 薄い層を伝い、支柱の下、運搬路の床、さらに深部へ続く枝道の方向へ流れていた。


「この砂は、内部の層が削られて出てきたものです」


 レオンハルトは支柱の根元へ積もる砂を掬った。


「水だけなら排水できます。でも、支えになっていた層そのものが減っています」


 現場監督が青ざめる。


「支柱を増やせば持ちますか?」


「この場所だけなら、仮支柱で時間を稼げます」


「この場所だけなら?」


「水の流れが広すぎます」


 レオンハルトは坑道図を開いた。


 以前、赤と黄色で印をつけた区画。


 今回の漏水地点。


 支柱の沈下。


 周辺の爆破地点。


 その上へ、新たに確認した地下水の流れを青い線で描く。


 線は主力坑道の方向へ伸びていた。


「先生。本格的な雨が数日続けば、水量はさらに増えます」


「その場合、崩落までどれほどの猶予があります」


「正確には分かりません」


 レオンハルトは正直に答えた。


「今すぐ崩れるとは限りません。でも、強い雨が数日続けば、その間に大きな崩落が起きる可能性があります」


 前世の知識が警告していた。


 水は岩を濡らすだけではない。


 亀裂へ入り込み、粘土質の層を弱らせ、重さのかかり方を変える。


 そこへ爆破の振動が加われば、今まで耐えていた部分が一気に崩れる。


 オットーが低い声で言う。


「山の声も変わっております」


「どのように?」


「以前は小石が鳴るような高い音でした。今は、奥で大きな岩同士が押し合っているような、低く重い音がします」


 その時だった。


 遠くで低い音が響いた。


 ごう、と空気が揺れた後、天井から細かな砂が落ちる。


 全員が顔を上げた。


「爆破です」


 現場監督の顔色が変わる。


「西側支道の予定は、調査後へずらすよう伝えたはずです」


「入坑記録も届けさせました」


 アルノルトの声が鋭くなる。


 やがて、爆破管理所へ走らせた書記が息を切らして現れた。


「申し訳ありません! 記録は管理所へ届けました。ですが、鉱山長から予定を変えるなと命じられたと……」


「調査班が入っていると伝えたのか」


「はい。西側支道は接続区画ではないから問題ないと」


 ブルクハルトは、地図上で別区画なら安全だと判断したのだ。


 レオンハルトは壁へ手を戻した。


 振動が内部を走る。


 水を含んだ脆い層が震え、亀裂の一つが僅かに伸びた。


 目では見えないほど小さな変化。


 だが、確かに広がっている。


「地上へ戻ります」


 レオンハルトは立ち上がった。


「すぐに父上へ報告します」


          ◇


 鉱山事務所へ戻ると、ブルクハルトが待っていた。


「非破壊調査にしては、随分と時間がかかりましたな」


「調査班が坑道へ入っていると知りながら、なぜ爆破を続けたのですか」


 アルノルトが問いただす。


「西側支道は第三運搬路の接続区画ではありません」


「振動は地図上の区画で止まりません」


 レオンハルトは机へ坑道図を広げた。


「爆破の直後、内部の亀裂が伸びました」


「また若様にしか見えない変化ですか」


「漏水量は昨日の二倍以上です。支柱も指一本分沈んでいます。砂の量も記録されています」


 レオンハルトはオットーたちの記録を並べた。


「感覚だけではありません」


 ブルクハルトは紙へ目を落としたが、表情を変えなかった。


「雨季前なら、漏水は増えます」


「量が急激に増えています」


「排水ポンプは増設しております」


「水を汲み出すだけでは、削られた層は戻りません」


 ブルクハルトは面倒そうに息を吐いた。


「では、どうしろと?」


「主力坑道と周辺支道を三日間停止し、地下水の流れを調べます」


「また三日ですか」


「今回は以前より危険です」


「以前も同じことを言っておられた」


「だから、記録を取り続けました」


 レオンハルトは漏水量と支柱沈下の表を指した。


「変化は数字に出ています」


「三日止めれば、今月の予定量が大きく落ちます」


「鉱夫が埋まれば、予定量どころではありません」


「確実に崩れると断言できますか」


「本格的な雨が続けば、崩落の可能性は高いです」


 ブルクハルトはアルノルトへ視線を向ける。


「先生も同じ判断ですか?」


「崩落する日時までは断定できません」


 アルノルトは慎重に答えた。


「しかし、漏水量の急増、砂の流出、支柱の沈下、振動後の亀裂拡大は確認しました。少なくとも追加調査を行うまで、周辺爆破は止めるべきです」


「軍への納品期限が迫っております」


「納品と安全は、別々に検討すべきです」


「現場では別ではありません」


 ブルクハルトは採掘表を示した。


「新型爆破石が正式に許可された場合、すぐ導入できるよう仮の採掘計画を組んでおります。ここで三日止めれば、雨季前に必要量を確保できません」


「まだ許可されていない爆破石を前提にしているのですか」


 レオンハルトが尋ねる。


「導入準備をしているだけです」


「解除機構も完成していません」


 アルノルトが厳しい顔をする。


「不発品をどう扱うつもりですか」


「周辺を封鎖し、内部の魔力が散るまで待たせます」


「何日待てば安全になるのです」


「それは、実際に起きた時に――」


「分からぬのですね」


 アルノルトの言葉に、ブルクハルトは口を閉じた。


「最終判断は旦那様がなさいます」


「ならば、今から父上へ報告します」


          ◇


 その日の夕方。


 ゲルハルトの執務室には、レオンハルト、ディートリヒ、ブルクハルト、アルノルトが集められた。


 机の上には、新しい坑道図、漏水記録、支柱の沈下記録、爆破時刻の一覧が並べられている。


「報告を聞こう」


 ゲルハルトが言う。


 レオンハルトは第三運搬路で確認した内容を説明した。


 昨日から倍以上へ増えた漏水。


 脆い層の浸食。


 支柱の沈下。


 空洞周辺への水の到達。


 爆破後の亀裂拡大。


 本格的な雨が数日続いた場合の危険。


「結論は?」


「主力坑道と周辺支道を三日間停止してください」


 ゲルハルトの眉が動く。


「三日で何をする」


「地下水の流れを再調査します。仮設ポンプを増やし、排水溝を広げます。砂が出ている区画へ支柱を追加し、必要なら閉鎖します」


「三日で完全に修復できるのか」


「できません」


 レオンハルトは明確に答えた。


「三日間は、緊急調査と応急対策のためです。その後、必要な修復期間を計算します」


「崩落はいつ起きる」


「正確な日時は分かりません。本格的な雨が数日続けば、その間に起きる可能性があります」


「可能性か」


「漏水量と支柱沈下は、既に数字で増えています」


 レオンハルトは記録を差し出した。


「昨日は一刻で桶二杯だった水が、今朝は五杯です。支柱も一日で指一本分沈みました」


 ゲルハルトは記録へ目を通した後、アルノルトを見る。


「お前も停止が必要だと考えるか」


「少なくとも周辺爆破は即時停止すべきです」


 アルノルトは答えた。


「採掘全体についても、三日間の緊急調査を支持します。崩落を断言できる段階ではありませんが、無視できる変化ではありません」


「生産への影響は?」


 ブルクハルトが資料を差し出す。


「主力坑道を三日止めれば、今月の予定量は二割近く落ちます。雨季へ入れば運搬速度も下がるため、後から取り戻すことは困難です」


「代替作業は?」


 ゲルハルトがレオンハルトへ尋ねた。


「浅い区画の選別、廃石の分類、支柱材の運搬、排水設備の整備へ回せます」


「納品用魔石は増えない」


「今月の不足分は、生活用魔石を低純度鉱石へ置き換え、その分を軍用へ回す案があります」


 レオンハルトは照明結晶の報告書を差し出した。


「試作では二十個中十五個が照明用として使えました。職人十人をつけていただければ、今月中に二百個ほど作れます」


「明るさは?」


「屋敷の照明石より弱いです。ただし、廊下や倉庫なら使用できます」


「軍への不足を埋めるには足りない」


「全量ではありません。三日間の停止で生じる不足の一部を減らせます」


「兄上は、また自分の弱い石のために鉱山を止めたいのですか」


 ディートリヒが口を挟んだ。


 レオンハルトは弟を見る。


「弱い石のためじゃない。鉱夫を守るためだ」


「なら、新しい排水路を作ればいいでしょう」


「どうやって?」


「爆破石で、地下水を外へ逃がす通路を作ります」


 執務室が静かになる。


 ディートリヒは自信を込めて続けた。


「水が溜まるから危険なのでしょう。山の外側へ向かって穴を開ければ、自然に流れます」


「どこへ穴を開けるつもりだ」


「第三運搬路の北側です。地図では外壁まで近い」


「地図は地上から測った距離しか示していない」


 レオンハルトは坑道図を指した。


「その間に空洞と脆い層がある。爆破すれば、水だけでなく岩盤全体が動く」


「出力を下げます」


「出力を下げても、どの岩がどう崩れるかは分からない」


「僕の爆破石なら外壁まで貫けます」


「貫けることと、安全な排水路を作れることは別だ」


「兄上は否定ばかりです」


「危険だから止めているんだ」


「僕の方法なら採掘を止めずに済みます!」


「山が崩れたら、採掘どころじゃない!」


「そこまでだ」


 ゲルハルトの声が二人を止めた。


 父はディートリヒを見る。


「排水路案は、技術的に可能なのか」


「できます」


「どの方向へ、どれだけ掘れば地上へ出る」


「地図では――」


「地図ではなく、測量結果を聞いている」


 ディートリヒは答えられなかった。


「水量はどれほどだ。崩れた岩はどこへ落ちる。地上へ出た水は、下流のどこへ流れる」


「それは……これから調べます」


「ならば、今の段階では案とは呼べぬ」


 ディートリヒは口を閉じた。


 レオンハルトは僅かに息を吐いた。


 父は弟の案を無条件には認めなかった。


 だが、次の言葉でその安堵は消えた。


「排水路案は、測量と排水先の確認後に再検討する」


「父上」


「新型爆破石を使うと決めたわけではない」


 ゲルハルトはレオンハルトへ視線を向けた。


「三日間の全面停止は認めない」


「記録にも異常が出ています」


「だから対策を追加する」


「何をするのですか」


「第三運搬路と、青い線で示した周辺区画の爆破を五日間禁止する。支柱を増やし、ポンプを二台追加する。排水溝の拡張は夜間ではなく、採掘班の一部を回して昼間に行う」


「主力坑道は?」


「採掘を続ける。ただし、異音や漏水が確認された場合は、その班を即時退避させる」


「水は主力坑道の方向へ広がっています」


「直接の沈下記録はまだ出ていない」


「地下ではつながっています」


「お前の報告は聞いた」


「根本の危険を残したままでは、十分に聞いていただいたとは思えません」


 ゲルハルトの表情が険しくなる。


「私が、お前の要求どおり全面停止を命じなければ、聞いたことにならぬのか」


「そうではありません」


「では、当主としての判断を受け入れなさい」


「崩落の確実な兆候が出てからでは遅いのです」


「確実でない危険のために、領地全体を危険へさらすことはできぬ」


 ゲルハルトは机の上の契約書を叩いた。


「軍への納品を落とせば違約金が発生する。鉱夫への賃金も、領兵の維持費も、街道の補修費も払えなくなる」


「大崩落が起きれば、すべて失います」


「可能性だけで当主の判断を覆そうとするな」


 レオンハルトは父を見つめた。


 図面を作った。


 漏水量を測った。


 支柱の沈下も記録した。


 費用を計算した。


 代替作業も考えた。


 低純度鉱石で不足分を補う案も出した。


 それでも、父が求める確実な証拠は、崩落そのものに近づかなければ得られない。


「意見は聞いた」


 ゲルハルトが言う。


「ディートリヒの案も、お前の警告も、アルノルトの見解も踏まえて決定した。決定後も兄弟の対立を現場へ持ち込み、鉱山管理を混乱させることは許さぬ」


「……父上のお考えは分かりました」


 納得したわけではない。


 これ以上言っても、判断が変わらないことを理解しただけだった。


 レオンハルトは頭を下げる。


「失礼します」


          ◇


 執務室を出た後、アルノルトが追ってきた。


「レオンハルト様」


「先生。父上は止めません」


「ええ」


「雨が続けば、崩れる可能性が高い」


「私もそう考えます」


「なら、鉱夫が逃げるための準備をします」


 アルノルトが足を止めた。


「旦那様の命令なしに、採掘停止を命じるおつもりですか」


「命令はできません」


 レオンハルトは首を横に振った。


「異常が起きた時、鉱夫自身が退避を判断できる基準を作ります」


「今すぐ逃げろと言っても、生活のある鉱夫たちは従わないでしょう」


「分かっています」


 レオンハルトは窓の外を見た。


 遠くの山頂へ、黒い雲が集まり始めている。


「漏水の量。砂の流出。支柱の軋み。落石。排水溝の濁り。どの異常なら報告し、どの異常なら即座に逃げるかを決めます」


「それでも、旦那様に知られれば、鉱山から完全に排除されるかもしれません」


「排除された後に崩れたら、何もできません」


「今動けば、事故が起きる前から勝手な指示を出したと見なされる可能性もある」


「何もしなければ、人が死にます」


 レオンハルトの声は震えていなかった。


「先生。僕は、父上の許可を待って鉱夫が埋まるのを見たくありません」


 アルノルトは長く黙った。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


「私は、当主の命令に逆らえとは言えません」


「はい」


「ですが、一般的な安全教育として、既に許可された避難経路を確認し、異常時の行動を共有することはできます」


 レオンハルトは先生を見る。


「正式な安全確認会として届け出なさい。参加者、日時、説明内容を記録するのです」


「退避基準も記録してよいのですか」


「一般的な危険兆候としてなら、私が確認します。ただし、採掘停止命令ではないことを明記しなさい」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早い」


 アルノルトの声は重かった。


「ここから先は、何をしても誰かに利用されます。鉱夫を守るための安全教育が、後で勝手な命令だったと変えられるかもしれない」


 以前、アルノルトから警告された言葉が胸へ刺さる。


 行動が正しくても、証拠がなければ意味を変えられる。


「だから、事実だけを書き残します」


「そうしなさい」


          ◇


 翌日の夕方。


 レオンハルトは鉱夫用の休憩所で、正式な避難経路確認会を開いた。


 鉱山事務所へは事前に、


『雨季前の避難経路確認および一般的な崩落兆候の共有』


 として届け出ている。


 参加者は、オットー、各作業班の班長、夜勤監督、魔石灯を管理する係。


 説明役としてレオンハルトとアルノルトが立ち会った。


 机の上には、鉱山図と避難経路、異常の基準を書いた紙が広げられている。


「最初にお伝えします」


 レオンハルトは参加者たちを見回した。


「これは、採掘を止める命令ではありません。僕には、その権限がありません」


 班長たちは黙って聞いている。


「ですが、崩落の兆候が出た時、自分の命を守る判断まで許可を待つ必要はありません」


 レオンハルトは異常を二つに分けた。


 単独でも即時退避する異常。


 支柱が折れる、または大きく傾く。


 人の頭ほどの落石が一度でも起きる。


 壁や床から濁流が噴き出す。


 魔石灯の火が消えるほど強い風が坑道内を走る。


 これらは一つでも起きた時点で、荷物を置いて退避する。


 次に、重なった場合に危険となる異常。


 支柱が普段より大きく軋む。


 排水溝の水が濁り、砂や小石が増える。


 小さな落石が続く。


 普段と違う低い音が山の奥から聞こえる。


 漏水量が短時間で増える。


 床や壁へ新しい亀裂が見つかる。


「これらは、一つだけなら局所的な異常の可能性があります」


 レオンハルトは紙を指した。


「二つが同じ区画で起きたら、作業を止めて監督へ報告してください。三つ以上が重なった場合は、岩盤全体が動いている可能性があります。許可を待たず退避してください」


「鉱山長に止められた場合は?」


 若い班長が尋ねる。


「確認した兆候を伝えてください。それでも止められた場合、最後に判断するのは皆さん自身です」


「若様の命令だと言っても?」


「言わないでください」


 レオンハルトは首を横に振った。


「これは僕の命令ではありません。皆さん自身が、命を守るために使う基準です」


 オットーが低く笑った。


「命令でなくとも、儂らには十分です」


「オットー」


「山の中で最後に決めるのは、山を見ている者です」


 老人は図面へ手を置く。


「若様は、逃げる道と合図を教えてくださった。それを使うかどうかは、儂らが決めます」


 班長たちも一人ずつ頷いた。


 レオンハルトは避難経路を確認する。


 主坑道が使える場合。


 主坑道が塞がれた場合。


 旧運搬路へ回る場合。


 負傷者が出た場合。


 魔石灯を持つ者が先頭と最後尾につくこと。


 木杭へ取りつけた反射片の目印を見失わないこと。


 班長は、自分の班の人数を退避前後に必ず数えること。


 誰か一人が戻らなくても、班全体で無計画に引き返さず、監督へ報告すること。


「雨が三日続いた場合、僕は坑口で避難準備を始めます」


 レオンハルトは告げた。


「予備の魔石灯、担架、毛布、飲み水を用意します。坑道内へ入るのは、連絡が途絶えた場合や、取り残された人がいる場合だけです」


「若様まで入る必要はありません」


 オットーが言う。


「できる限り入口に残ります」


 レオンハルトは答えた。


「でも、中に人が残っていると分かった時は、何もしないとは約束できません」


 オットーは何か言おうとしたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「ならば、せめて一人では入らぬと約束してください」


「約束します」


 アルノルトは説明内容を確認し、記録紙の末尾へ署名した。


『本確認会は雨季前の一般的な安全教育であり、採掘停止命令ではない』


 その一文を、レオンハルトも確かめる。


 後から、勝手な命令だったと意味を変えられないために。


 窓へ、雨粒が一つ当たった。


 続いて、もう一つ。


 やがて細かな音が連なり、休憩所の屋根を叩き始める。


 オットーが窓の外を見る。


「始まりましたな」


 まだ、雨季の最初の雨にすぎない。


 だが、山の中では既に水が動き始めている。


 レオンハルトは確認会の記録へ日付を書き、参加者全員の署名を集めた。


 父の許可は得られなかった。


 鉱山を止める権限もない。


 それでも、鉱夫たちが自分の足で逃げるための道と判断基準は残せた。


 雨音が少しずつ強くなる。


 その音に紛れ、遠い山の奥から、低く重い響きが聞こえたような気がした。

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