第三章「作品」
終業式のあと。
美琴は、いつものように模型部のプレハブへ来ていた。
「明日から夏休みか〜……。」
開いた窓から、湿った夏の風が吹き込んでくる。 遠くでは、帰宅する生徒たちの声がまだ聞こえていた。
「美琴の夏休みは消えたもんな!」
康太が笑いながら言う。
今やっている作業量を考えると、本当に夏の間で終わる気がしない。
「夏休みも部室来るのか?」
涼介が手を動かしたまま聞いた。
「……うん。だって完成させたいもん。」
美琴は机の上のプラモデルを見る。
数週間。 削っては盛り、削っては盛りを繰り返した腕パーツ。
もう、最初みたいな貧相さはなかった。
箱絵みたいな、重厚で力強い腕。 まだツギハギだらけの反対側と比べると、その違いははっきり分かる。
美琴は、自分の手で形になっていくパーツを見つめながら、小さく呟いた。
「ほんと、思った通りに形が変わっていく……。」
その言葉に、涼介は少しだけ笑った。
「まだ腕の成形が終わっただけだ。」 「これから加工、スジ彫り、塗装。」 「組み上げる時に、プロポーションの調整もある。」
「まだまだ道は長いな!」 康太が椅子を軋ませながら笑う。
「まぁ、夏休み消えるとは言ったけど、息抜きくらいは出来るって!」
「俺たちは基本ここにいるしな。」 涼介が続ける。
「工具とか使いたかったら、夏休み中も自由に使っていい。」
そして、ふと思い出したように康太を見る。
「康太。合鍵、まだ余ってたよな?」
「おう、あと二本くらいあったはず!」
康太は鍵束を取り出し、そのうちの一本を美琴へ放った。
「ほら、美琴!」
「わっ……と。」
美琴は慌てて受け取る。
掌の中の鍵は、小さいのに妙に特別な物みたいに感じた。
「あと……。」
涼介が少し言いづらそうに視線を逸らす。
「一人の時に、なんかあったら困るし……。」
「おっし!」 康太が勢いよく立ち上がった。
「じゃあ連絡先交換するぞ!」 「美琴が来る時、俺らも来れるようにするから!」
「あ、そっか。」
美琴はスマホを取り出す。
「じゃあ、まず康太君。」
「おう!」
すぐに交換は終わった。
そして。
「……はい、涼介君も。」
美琴がスマホを差し出すと、涼介は少しだけ動きを止めた。
「あ、あぁ……。」
どこかぎこちない手つきでスマホを取り出す。
その様子を見て、康太がニヤニヤ笑った。
「おっ、涼介照れてんのか?」
「うるせぇ。」
「はいはい。」
数秒後。
「よし! 模型部グループ完成!」
康太が嬉しそうにスマホを掲げる。
直後。
ポコン。 ポコン。 ポコン。
グループ画面へ、大量の写真が貼られ始めた。
完成したロボット。 戦車。 飛行機。 色んな角度から撮られたプラモデル。
「……なにこれ。」
美琴が呆れたように笑う。
「俺の作品集!」
康太は胸を張った。
シンナーの匂いが漂うプレハブ。
窓の外では、蝉が鳴き始めていた。
その日の夜。
「お母さーん。夏休みの間も部活行くからー。」
リビングでテレビを見ていた母へ、美琴は声をかけた。
「あら、そうなの?」 母は少し驚いたように振り返る。
「じゃあお弁当作る? 買って食べるならお金渡すけど。」
「うーん……。」 美琴は少し考える。
模型部のプレハブ。 シンナーや塗料の匂いが混ざった、あの独特な空気を思い出した。
「あんまり部室で食べたくはないかなぁ。塗料の匂いとかするし……。」
「あはは、たしかに。」 母は苦笑する。
「じゃあ、お昼代渡しとくわね。」
そう言って財布から取り出したのは、千円札が五枚。
「とりあえず一週間分くらい。」
「ありがとう!」
美琴は嬉しそうに受け取った。
「それにしても模型部ねぇ。」 母はどこか面白そうに笑う。
「おもちゃ作りなんて、美琴も意外な物にハマったわね。」
その瞬間。
『プラモはおもちゃじゃない。』
ふと、最初に涼介へ言われた言葉を思い出す。
美琴は少しだけ頬を膨らませた。
「おもちゃじゃないよ。プラモデル。」
「はいはい。」 母は楽しそうに笑う。
「まぁ、頑張りなさい。」
「うん!」
美琴はお金を握ったまま、自分の部屋へ戻った。
ベッドへ寝転がりながら、スマホを開く。
すぐに、今日作った模型部のグループLINEが目に入った。
康太 『明日は9時に部室集合な!』
そのすぐ下。
涼介 『了解』
たったそれだけのやり取りなのに、なんだか少し嬉しくなる。
美琴は、OKと書かれたスタンプをすぐに返した。
すると今度は、別の通知が表示される。
藍沢アカネ 『ミコ明日ヒマ? 夏休み始まった事だし、どっか遊びいかない?』
クラスメイトで、仲のいい友達だった。
夏休み。 遊びの誘い。
少し前の自分なら、多分すぐOKしていたと思う。
でも今、美琴の頭に浮かぶのは――
テープだらけの旧キット。 削りかけの腕。 シンナーの匂いがするプレハブ。 そして、完成へ少しずつ近づいていく、あの感覚だった。
美琴は少しだけ申し訳なく思いながら、返信を打つ。
『ごめん! アカネちゃん! 明日は部活行かなきゃなんだ!』
少し迷ってから、続けて打ち込む。
『夏休みの間、しばらく部活多くなるかも……。ごめんね。』
送信。
スマホを胸の上へ置き、美琴は天井を見上げた。
明日もまた、部室へ行く。
削って。 貼って。 失敗して。
それでも少しずつ、“作品”が完成へ近づいていく。
そう思うだけで、自然と口元が少し緩んだ。
窓の外では、夏の虫が鳴いていた。
朝、目を覚ますと、スマホへ通知が来ていた。
昨日送ったLINEへの返信だった。
アカネ 『おっけー。ミコ模型部だっけ? あの外れのプレハブだよね。』
最後には、意味深なニヤニヤ顔の絵文字。
「……?」
美琴は首を傾げる。
なにが言いたいんだろう。
少し悩みながらも、とりあえず適当にスタンプだけ返した。
夏休み初日の朝。
美琴は鞄を肩へ掛けながら、いつものプレハブへ向かっていた。
朝から部室へ来るのは、なんだか少し新鮮だった。
蝉の鳴き声。 強い日差し。 まだ人の少ない校舎。
夏休みなのに、自分は学校へ向かっている。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
ガラッ。
部室の扉を開ける。
シンナーの匂い。 回る換気扇の音。
そして。
「おう、おはよー美琴!」
康太がすぐに振り返った。
涼介は作業中のまま、軽く片手を上げる。
「おはよう。」
美琴も自然と笑った。
「今日からは時間あるからな!」 康太が嬉しそうに椅子を回す。
「一日一日、作業ペース上がるぞー!」
そう言いながら、本人はまた完成品を眺めている。
……絶対この人、見てる時間の方が長いよね。
美琴は少しだけ笑った。
すると。
「今日は、成形した腕の加工やるか。」
涼介が机の上のパーツを指差した。
「今は挟み込み無視してるから、ちゃんとはまらないだろ。」
「あー……。」
たしかに、今の腕は無理やりテープで固定しているだけだ。
「それを、ちゃんとはめられるよう加工する。」
涼介はパーツを手に取る。
「後ハメ加工ってやつだ。」
「後ハメ加工……。」
また新しい単語だ。
でも今度は、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、 “どうやるんだろう” の方が強い。
「挟む側の軸に、穴あるだろ?」
涼介がパーツを指差す。
「そこを外側まで繋げる。」
「ただ、開きすぎるとグラつく。」 「だから少しずつ削って、合いを確認しながら調整するんだ。」
美琴は小さく頷いた。
そして、細いノコギリを手に取る。
ギコ、ギコ……
慎重に切り込みを入れる。
その後、ヤスリで少しずつ穴を広げていく。
削って。 合わせて。 また削る。
何度も繰り返す。
すると――
ーカチッ。
小さく、でも確かな音が鳴った。
「……おぉ。」
美琴は思わず声を漏らす。
久しぶりだった。
パーツ同士が綺麗にはまる、この感覚。
でも今回は違う。
最初から用意されていた形じゃない。
自分で削って。 自分で調整して。 自分の手で作った“カチッ”だった。
その事が、少しだけ嬉しかった。
――その時だった。
ガラッ!!
突然、プレハブの戸が勢いよく開いた。
「ミコ!! 助けに来たよ!!」
聞き覚えのある声。
「夏休みから男女でプレハブ籠もるとか、なんかいかがわしい事でもやってんじゃないでしょーね――」
そこまで叫んだ瞬間。
「……って、クッサ!!」
アカネが勢いよく顔をしかめた。
シンナーと塗料の匂いが、一気に流れ込む。
「うわ、なにこれ!? めちゃくちゃ臭うんだけど!!」
「アカネちゃん!?」
美琴は思わず立ち上がった。
なんでここに!?
突然の乱入に、美琴は完全に混乱する。
その横で。
「誰?」
康太が小声で聞く。
「クラスメイト……。」
するとアカネは、プレハブの中をぐるりと見回した。
散乱した工具。 塗料瓶。 灰色のパーツ。 粉まみれの机。
そして。
黙々とヤスリを動かしている涼介。
「…………。」
数秒の沈黙。
「えっ、ほんとにプラモ作ってるだけなの?」
「だからそう言ったじゃん!!」
美琴が顔を赤くしながら叫ぶ。
康太が吹き出した。
「なんだよ美琴、疑われてたのか?」
「うるさい!!」
涼介はというと、 騒ぎなど気にしていないみたいに、黙ったままパーツを削っていた。
「あんたが木戸で……そっちのオタクが湊ね。」
「オタクって……。」
少し騒ぎが落ち着いた後、康太が呆れたように肩を落とした。
「つーか、なんでここ分かったんだよ。」
「ミコがLINEで“部室行く”って言ってたし。」 アカネは当然みたいに答える。
「模型部って、あの外れのプレハブしかないじゃん?」
たしかにその通りだった。
アカネは改めて部室の中を見回す。
散乱した工具。 塗料瓶。 灰色のパーツ。 粉まみれの机。
そして、相変わらずシンナー臭い空気。
「……うわぁ。」 アカネは半笑いになった。
「ミコ、ほんとにこんな所入り浸ってたんだ……。」
「べ、別にいいじゃん!」
美琴が慌てて言い返す。
すると。
「ま、だから決めた。」
アカネはニヤッと笑った。
「アタシ、今日から模型部入るから。」
ガタッ!!
「は!?」 「えぇ!?」
美琴と涼介の声が綺麗に重なった。
その横で、康太だけが腹を抱えて笑っている。
「アッハハハ!! おもしれぇなお前!!」
「笑い事じゃないんだけど!?」
美琴がツッコむ。
アカネは腕を組みながら、ふんっと鼻を鳴らした。
「だって、アタシの可愛いミコを、こんな野獣二匹の中に放っとける訳ないじゃ〜ん?」
「誰が野獣だ。」
涼介が即座に返す。
「っていうか、アカネちゃん写真部だったよね!?」
美琴が聞くと、アカネはケロッとした顔で答えた。
「あっちは籍置いてただけ。」 「だから問題なし!」
「問題しかない気がするけど……。」
美琴は頭を抱えた。
その時。
「藍沢。」
涼介が真面目な顔で口を開く。
「お前、模型に興味はあるのか?」
空気が少しだけ変わった。
さっきまで騒いでいた康太も、静かになる。
アカネは一瞬だけ目を丸くした後、小さく肩をすくめた。
「弟が好きだから、多少は知ってるっつーの。」 「作ってやった事もあるし。」
「……。」
数秒。
「まぁ、それならいい。」
涼介は小さく頷き、そのまま机へ向き直った。
そして何事もなかったみたいに、エアブラシを手に取る。
その瞬間。
「へぇ。」 アカネが少し身を乗り出した。
「結構本格的なエアブラシ使ってんだね。」
美琴と涼介が同時に顔を上げる。
「えっ、アカネちゃんエアブラシ知ってるの!?」 「……知ってるのか。」
二人の反応に、アカネは少し得意げに笑った。
「ネイルで使うからね。」 「そのくらいはギャルの嗜みよ♪」
そう言って、自分の爪を軽く見せる。
「まぁ、アタシのは充電式のちっちゃいやつだけど。」
「その爪、自分でやってんのか!?」
今度は康太が勢いよく食いついた。
「マジ!? すげぇ綺麗じゃん!」
「ネイリスト頼む金ないから、自分でやってるだけ。」
アカネは少し照れ臭そうに言いながら、手を差し出した。
「でも綺麗っしょ?」
「へぇ〜……。」
康太はその手を軽く取る。
「上手いな。」 「この艶、なかなか出せねぇぞ。」
完全に塗装を見る目だった。
「……ッ!」
アカネの肩が小さく跳ねる。
「あ、あんまジロジロ見んなって!」
慌てて手を引っ込め、ぷいっと顔を逸らした。
その様子を見て、美琴は少しだけ目を丸くする。
康太はというと、まだ感心したように頷いていた。
「いやマジで綺麗だった。」
「だからうるさいって!」
アカネは顔を赤くしながら叫ぶ。
そして誤魔化すように、大きく咳払いした。
「と、とにかく!!」
ビシッと模型部の三人を指差す。
「アタシも模型部入るから!!」 「明日からもここ来るからね!」
数秒後。
ポコン。
模型部のグループLINEへ、新しい名前が追加された。
『藍沢アカネ』。
シンナー臭いプレハブが、また少しだけ賑やかになった。
次の日。 アカネは家からプラモデルを持ってきていた。
「おっ、スカイラインじゃん! 渋いな。」
康太が、アカネの持ってきた箱へすぐに食いつく。
箱には、 『1/48 スカイライン2000GT』 の文字。
「弟に頼まれてたやつ。」 アカネは箱を机へ置きながら言った。
「どうせなら本格的に作って、あいつ驚かせてやろうと思ってさ。」
そして、康太をビシッと指差す。
「木戸! あんた、ちゃんとした作り方アタシに教えなさいよ!」
「へいへい。」
康太は笑いながら椅子を持っていき、アカネの隣へ座った。
「まずはニッパーな。」 「車はパーツ細かいから飛ばすなよ〜?」
「うわ、もう怖い事言う。」
二人のやり取りを横目に、美琴も自分の作業へ戻る。
腕の加工は、なんとか終わった。
そして今日から、次の工程へ入る。
「今日はスジ彫りするぞ。」
涼介が、美琴の作った腕パーツを手に取った。
「元からあったモールドは、成形でほとんど消えてるからな。」 「新しく彫り直す。」
「スジ彫り……。」
美琴は少し緊張しながら、灰色の腕を見つめた。
涼介は続ける。
「腕の装甲を意識しろ。」 「実際にこんな機械があったら、どんなパーツ構成になってるか。」 「一枚一枚、装甲をイメージするんだ。」
「うーん……難しいなぁ……。」
美琴が唸ると、涼介は箱絵を指差した。
「箱絵と同じように作りたいんだろ?」 「だったら、まずは箱絵を真似すればいい。」 「見えない所は想像だ。」
「……そっか。」
美琴は箱絵と見比べながら、鉛筆で少しずつ線を書き込んでいく。
ここが分割されてて。 ここが開閉して。 ここは、腕を動かすための装甲。
そんな事を考えているうちに、気づけば腕は線だらけになっていた。
「……こんな感じかな。」
美琴は腕を持ち上げる。
そこへ刻まれた大量のライン。
それだけで、さっきまでとは比べ物にならないくらい格好良く見えた。
「いいと思うぜ。」
涼介が頷く。
そして細いテープを取り出した。
「今描いた線に沿って、ガイドテープを貼る。」 「そしたら、一本一本ニードルで彫るんだ。」
「力入れすぎんなよ。」 「最初は軽くなぞる感じでいい。」
美琴は小さく頷き、ニードルを手に取った。
カリ…… カリ……
ガイドテープへ沿って、少しずつ線を彫っていく。
灰色だった腕へ、細い溝が刻まれていく。
「……なんか、本当に装甲っぽい。」
美琴は思わず呟いた。
その瞬間。
「あっ!」
手が滑る。
ガリッ。
線が大きくズレた。
「うわぁッ!!」
美琴が慌てて顔を上げる。
だが。
「瞬間接着剤で埋めて、削って掘り直し。」
涼介は落ち着いた声で言った。
「……直せるの?」
「大抵のミスはな。」
その言葉に、美琴は少しだけ目を丸くする。
失敗しても終わりじゃない。
埋めて。 削って。 またやり直せばいい。
カリ…… カリ……
気づけば美琴は、また無心でニードルを動かしていた。
その日の帰り道。
夕焼けに染まった住宅街を、美琴とアカネは並んで歩いていた。
昼間の暑さはまだ残っているけれど、吹く風は少しだけ涼しい。
しばらく他愛ない話をしていた時、不意にアカネが口を開いた。
「ミコ、あんたいいとこ見つけたね。」
「え?」
美琴が顔を上げる。
アカネは前を向いたまま、小さく肩をすくめた。
「康太はなんだかんだ教えるの上手いしさ。」 「湊も愛想悪いけど、ちゃんと真剣じゃん?」
「……うん。」
美琴は小さく頷いた。
アカネが自然に康太を名前で呼んでいる事に、少しだけ不思議な感じがする。
「なかなかないよ、あんな部活。」
その言葉に、美琴は少しだけ考え込んだ。
入部する前は、 “おもちゃで遊んでる部活” くらいに思っていた。
でも実際は違った。
削って。 直して。 失敗して。 またやり直して。
みんな、本気だった。
「プラモデル完成した時も、すごい感動したし……。」 美琴はぽつりと呟く。
「今やってる事、正直めちゃくちゃ面倒なんだけど。」 「でも、その面倒なのが楽しいっていうか……。」
うまく言葉に出来ない。
でも。 パテを盛って、削って。 少しずつ理想へ近づいていく時間は、不思議と嫌じゃなかった。
するとアカネが吹き出した。
「完全に沼じゃん。」
「うぅ……。」 美琴は少しだけ顔を赤くする。
アカネは笑いながら続けた。
「まぁ、部活楽しそうでよかったよ。」 「でも、アタシとの時間もちゃんと忘れないでよ?」
「友達なんだからさ。」
「アカネちゃん……。」
「まぁ?」 アカネはニヤッと笑う。
「アタシも模型部入ったから、結局ずっと一緒にいるんだけどね!」
そう言って、夕陽を背に振り返る。
オレンジ色の光が、揺れる髪を照らしていた。
その姿を見ながら、美琴は自然と笑う。
「……うん!」
夏の終わりみたいな風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
あれから三日。
美琴は、ようやく腕のスジ彫りを終えていた。
彫った際に出来た細かな傷をヤスリで整え、何度も指先で表面を確かめる。
シャッ…… シャッ……
気づけば、この音にもすっかり慣れていた。
「よし。」
涼介がエアブラシを持ち上げる。
「じゃあ、サフ吹くぞ。」
「サフ?」
「サーフェイサー。」 「傷とか、表面状態を確認するための下地だ。」
美琴は塗装ベースへ刺さった腕パーツを見る。
何週間も、 削って。 埋めて。 また削って。
ようやくここまで来た。
でも今の腕は、まだ色も質感もバラバラだった。
灰色のプラスチック。 白いパテ。 瞬間接着剤の跡。
作業した場所だけが、まだらに残っている。
そこへ――
シュゥゥゥ……
細かな霧が吹き付けられる。
薄く。 均一に。
腕が少しずつ、同じ色へ染まっていく。
「……っ。」
美琴は思わず息を呑んだ。
今まで、 ただの“作業途中”だったもの。
継ぎ接ぎだらけだったもの。
それが初めて、 ひとつの“作品”に見えた。
「次は、美琴がやるんだ。」
涼介がエアブラシを美琴へ差し出した。
「えっと……どう使うの……?」
美琴は恐る恐る受け取る。
すると。
「その上のレバー押すと塗料出るんだよ!」
アカネが嬉しそうに割り込んできた。
「ん〜と、サフとかいうのは分かんない! 説明して!」
「……。」
涼介が深いため息をつく。
「さっき説明しただろ。」
「サフってのは、溶きパテみたいなもんだ。」 「薄めたパテを吹き付けて、表面の傷とか状態を確認する。」
机の上の瓶を指差す。
「これを一対二〜三くらいで薄めて、エアブラシで吹く。」 「すると細かい傷とかヘコみも見えてくるんだ。」
「へぇ〜。」
アカネは感心したように頷いた。
「要するに下地ね。」
「それもさっき言った……。」
涼介は頭を抱える。
その横で。
「アカネ、お前はこっち。」
康太がアカネの首根っこを掴んだ。
「ちょっ、ちょっとくらい見せなさいよ! 気になるじゃん!!」
「カーモデルは後で、あっちとは比較にならねーくらいやる事増えるから!」 「今はエンジン組むのに集中しろ!」
「はーい、分かりましたよーだ。」
引きずられていくアカネ。
向こうは向こうで、なんだか楽しそうだった。
美琴は改めて、手の中のエアブラシを見る。
金属製の冷たい感触。
少し緊張する。
「レバー押してみろ。」
涼介に言われ、美琴はそっと上のレバーを押した。
シューッ……
細かい霧が吹き出す。
「うわっ……。」
思わず声が漏れる。
「直接当てるな。」 「横から吹いて、その中へ潜らせる感じで塗れ。」
美琴はゆっくり腕パーツを動かした。
シュッ…… シューッ……
灰色だったパーツへ、薄くサフが乗っていく。
少しずつ。 均一に。
自分の手の中で、パーツの表面が変わっていく。
涼介が吹いていた時も凄いと思った。
でも。
自分でやると、まるで違った。
「……すごい。」
美琴は小さく呟く。
吹き終わった後、しばらく乾燥を待つ。
そして。
ライトへ当てた瞬間――
「うわぁ……。」
さっきまで見えなかった傷。
小さなヘコみ。
削り跡。
全部、浮かび上がっていた。
「これが表面処理だ。」 涼介が静かに言う。
「見えなくなるまで、また繰り返す。」
「……また?」
美琴は思わず顔をしかめる。
その横で。
シャッ…… シャッ……
もう既に、涼介はヤスリを動かし始めていた。
夏休みは、まだ終わりそうになかった。
夏休みに入って、一週間が経った。
美琴は、まだ表面処理を続けていた。
サフを吹いては削り。 吹いては、また削る。
最初は無数にあった傷も、今ではかなり減っている。
ライトへ当てた時の反射も、少しずつ滑らかになってきていた。
「……なんか、本当に金属っぽくなってきた。」
美琴は、腕パーツを光へ透かしながら小さく呟く。
その隣では、アカネも車のボディを磨いていた。
カーモデルは表面が広い分、処理がかなり大変らしい。
それでもアカネは妥協せず、何度もライトへ当てて傷を確認している。
「うわ、ここまだ残ってる……。」
不満そうに呟きながら、またヤスリを動かす。
その横顔は、いつもの軽い雰囲気じゃない。
絶対に妥協したくない。
そんな顔だった。
「よし!」
突然、康太がパンと手を叩いた。
「二人ともそろそろ塗装入りそうだし、今日は塗料の補充ついでにイワサキ行くか!」
「イワサキ?」
アカネが首を傾げる。
「商店街にある模型店だよ。」 「プラモいっぱい売ってるの。」
美琴が説明すると、アカネは少し目を輝かせた。
「へぇ〜。」 「弟に教えたら喜ぶかも。」
そして椅子から立ち上がる。
「じゃ、行こ。」
「まぁ、塗料の補充は部費で買うから。」
康太は机の上に置いてあった封筒をひらひらさせた。
「美琴とアカネのプラモに使いそうなの優先で買ってやるよ。」
「マジ? やるじゃん。」
アカネが嬉しそうに笑う。
「お前らも金あったら工具買えば?」 「新しいプラモは、それ完成するまで禁止な!」
「うっ……。」
美琴は苦笑しながら財布を開いた。
お昼をコンビニのパンで済ませていたおかげか、母からもらった食費がまだ二千円ほど残っている。
新しい工具。
その言葉だけで、少し胸が高鳴った。
新しいヤスリ。 ノコギリ。 ニードル。
ショーケースに並んだ工具たちが、頭の中へ浮かぶ。
気づけば、美琴の心はもう模型店へ飛んでいた。
「じゃあ、行くか。」
涼介もバッグを手に立ち上がる。
四人は、夏の日差しの中へ歩き出した。
向かう先は――岩崎模型店。
シンナー臭いプレハブから続く、もうひとつの“秘密基地”だった。
「いらっしゃ〜い。」
店へ入ると、いつもの気だるげな声が響いた。
カウンターでは、京子が頬杖をつきながらこちらを見ている。
「お、美琴。」 「旧キット、順調かい?」
そして。
「……って、なんか一人増えてる?」
「新入部員だ!」
康太が即答した。
「ってか、やっぱ京子さんが美琴に旧キット売ったのか!」 「おかげで美琴の夏休み、完全に消えたぞ!」
「いや、そんな事……。」
美琴は苦笑しながら否定する。
すると京子は、楽しそうに笑った。
「あっははは!」
「まぁ、最近の“組むだけで綺麗”なプラモもいいけどさ。」 「一回は旧キット通っとかないと。」
そう言いながら、美琴を見る。
「どうだい?」 「自分の手で形になっていくの、結構いいもんだろ?」
「……はい!」
美琴は大きく頷いた。
その様子を見て、京子は満足そうに笑う。
そして。
そのやり取りを見ていたアカネが、じーっと京子を見つめていた。
「……綺麗。」
ぽつりと呟く。
次の瞬間。
「そのナチュラルメイクどうやってるんですか!?」
怒涛の勢いで京子へ詰め寄った。
「うわっ、よく見たらアイプチしてる!?」 「えっ、でも全然分かんない!」 「マスカラ!? 付け方違うのかな!?」 「すごっ、普通に二重に見える!!」
「近い近い。」
京子が苦笑する。
「なんだいこの子。」 「また変なの入部したねぇ。」
「アタシ、藍沢アカネって言います!」
アカネは勢いよく頭を下げた。
「あたしは岩崎京子。」 「この店で店番やってる。」
「ん〜……じゃあイワちゃん!」
「おい。」
京子は呆れたように笑う。
「……まぁ、いいけどさ。」
そして少し首を傾げた。
「メイク好きなの?」
「うん!」
アカネは即答する。
「でも最近、プラモ作るのも楽しくなってきた!」
その言葉に、京子は少しだけ目を細めた。
「メイクもプラモも、似たようなもんだよ。」
「理想の形を作って。」 「下地を整えて。」 「色を乗せる。」
「やってる事は、案外同じさ。」
アカネは目を輝かせた。
「……たしかに。」
「プラモ上手くなれば、メイクも上手くなるかもね。」
京子が笑う。
「うわっ、それ最高じゃん!」
アカネは勢いよく振り返った。
「康太!」 「もっとプラモ教えてよね!!」
「はいはい。」
康太は、棚へびっしり並んだ塗料瓶を眺めながら適当に返事をする。
その横で。
美琴は、なんだか少し不思議な気分になっていた。
プラモデル。
ただの“おもちゃ”だと思っていたもの。
でも今は、 色んな物と繋がって見え始めていた。
今日はアカネの紹介も兼ねて、塗料の補充にな。」
康太は棚へ並ぶ塗料瓶を眺めながら言った。
「あと、こいつらに新しい工具も見繕ってやってよ。」 「新しいプラモは禁止してるから、旧キット売りつけんのは禁止な!」
康太は親指で、美琴とアカネを指差す。
京子は頬杖をついたまま、くすっと笑った。
「なるほどねぇ。」 「美琴は、この前の旧キットまだやってんだろ?」
「はい。」
「アカネは?」
「スカイライン2000GT!」
アカネが即答する。
すると京子は少し目を丸くした。
「へぇ〜。」 「最初から渋いの行くねぇ。」
「弟に頼まれてたやつなんです!」
「いいじゃん。」
京子は笑いながら頷いた。
「じゃ、まずは美琴からな。」
京子がカウンターから身を乗り出す。
「今どんな工程やってんだい?」 「まだ塗装までは行ってないんだろ?」
「今、腕の表面処理してます。」 「サフをエアブラシで吹いて、傷確認してるところです。」
美琴が答えると、京子は「おぉ」と感心したように頷いた。
「ちゃんと旧キットやってる顔になってきたねぇ。」
「えぇ……。」
美琴は少し苦笑する。
「じゃあ、足はまだなんだね。」 「それなら、どのみち加工系の工具は欲しくなる。」
京子はショーケースの中から工具を取り出した。
「ホビーノコとプラ板なんてどうだい?」
細いノコギリ。 そして、白いプラスチック板。
「延長、成形、ディテールアップ。」 「旧キットなら絶対使う。」
後ハメ加工の時に使った工具だった。
自分で削って。 調整して。 パーツが綺麗にはまった時の感触を思い出す。
たしかに、あれは気持ちよかった。
自分の工具なら、もっと楽しいかもしれない。
「……これ、買います。」
美琴は小さく頷いた。
「毎度あり。」
京子がニヤッと笑う。
「次はアカネだな。」
「はいはい!」
アカネが勢いよく手を挙げる。
京子はスカイラインの箱を軽く見ながら言った。
「カーモデルはなぁ。」 「表面の仕上げで、見た目の大半が決まる。」
「だから直結する工具選ぶなら――」
棚からいくつか道具を取り出す。
「クロス。」 「コンパウンド。」 「あとスポンジヤスリ。」
「うわ、なんか急にプロっぽい。」
アカネが目を輝かせる。
「車はツヤが命だからね。」
京子が笑う。
「なるほど〜……。」
アカネは真剣な顔で頷いた後、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、あと!」
「ニッパーとヤスリも、イワちゃんが使ってるのと同じの欲しい!!」
「おいおい。」
京子は少し呆れたように笑う。
「見た目から入るタイプかい。」
「違うし!」 「上手い人と同じ道具使ったら、なんか上手くなれそうじゃん!」
「まぁ、気持ちは分かる。」
その横で。
康太が小さく頷いていた。
「めちゃくちゃ分かる。」
美琴とアカネが新しい工具を選び終える頃には、康太が大量の塗料瓶を抱えて戻ってきていた。
どうやら、涼介と一緒に色を選んでいたらしい。
「京子さん、これお願い!」
康太はカゴをカウンターへ置く。
カチャカチャ、と塗料瓶が小さく鳴った。
「はいはい。」
京子は慣れた手つきで値札を確認し、レジへ打ち込んでいく。
その横で。
「……京子さん。」
涼介が、ぽつりと口を開いた。
「ん〜?」
京子は値札を見たまま返事をする。
少しだけ間を置いてから、涼介は言った。
「あの、1/32の零戦さ……。」
店の奥。
高い棚へ置かれた、大きな箱。
前に来た時から、涼介が何度も見ていたキットだった。
「……美琴と藍沢のプラモ、一段落したら。」
「絶対、買いに来るから。」
「だから……取っといてくれないか。」
涼介は少し視線を逸らしたまま続ける。
「文化祭で……展示したいんだ。」
数秒。
レジを打つ音だけが、静かに店内へ響く。
そして。
京子は、小さく笑った。
「……はいはい。」
その声は、どこまでも優しかった。
「じゃあ京子さん、またな!」
康太が袋を抱えたまま、カウンターへ向かって手を振る。
「おう、また来な。」
京子も気だるそうに手を振り返した。
そのまま四人は店を出ようとする。
――その時。
「涼介。」 「康太。」
後ろから、京子の声がした。
二人が同時に振り返る。
京子はカウンターへ頬杖をついたまま、少しだけ笑っていた。
「ありがとね。」
一言だけだった。
「……。」
美琴とアカネは顔を見合わせる。
何に対してのお礼なのか、よく分からない。
お客への挨拶。
きっと、そんな感じなんだろう。
でも。
涼介と康太は、その言葉の意味をちゃんと分かっているみたいだった。
二人は静かに笑う。
そして。
「また来る。」
涼介が小さく手を上げた。
「今度は部費もっと持ってくるわ!」
康太も笑う。
夕陽の差し込む模型店。
その空気は、どこか少しだけ懐かしそうだった。
次の日。
美琴とアカネは、いよいよ塗装の準備へ入っていた。
「今回は教えるために、一通り通してやる。」
涼介は塗料を混ぜながら言う。
「美琴は片腕。」 「藍沢はボディ。」
「次からは、成形終わってからまとめて塗装した方が効率いいからな。」
カチャ…… カチャ……
塗料皿の中で、薄め液と塗料が混ざっていく。
「吹き方は基本サフと同じ。」 「塗料は、薄い色から順番に塗る。」
そして。
涼介は、あの黄色いテープを机へ置いた。
「マスキングテープ。」 「塗らない場所を覆ってから吹く。」
「なるほど。」
美琴は素直に頷く。
すると。
「簡単そうって思っただろ?」
康太がニヤニヤしながら口を挟んだ。
「このマステが地獄なんだよ。」 「まぁ、やってみ?」
「……?」
美琴は首を傾げる。
テープ貼るだけじゃないの?
なんでそんな大変なんだろう。
ペタペタ……
美琴とアカネは、言われた通りマスキングを始めた。
「そこ、はみ出てる。」 「ナイフで切れ。」
スーッ……
「その貼り方だと塗料入り込む。」 「貼り直し。」
ペタペタ……
「ダメ。」 「貼り直し。」
「………………。」
美琴は無言になった。
「……め、めんどくさい……。」
ただテープを貼るだけ。
そう思っていた。
なのに。
位置を合わせて。 空気を抜いて。 隙間を確認して。
想像以上に神経を使う。
その横では――
「おいおい!」 「クリアパーツに傷付くぞ!」 「もっと力抜けって!」
康太が慌てた声を上げる。
「だって入っちゃうんだもん!」 「もう康太がやってよ!」
「ダメだ!」 「そこは自分でやるもんだ!!」
「ぅう〜〜ッ!!」
アカネが唸る。
でも。
その顔はちゃんと真剣だった。
気づけば。
一回目のマスキングが終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……終わったぁ……。」
美琴は机へ突っ伏す。
「続きは明日だな。」
涼介が片付けながら言った。
四人は帰る支度を始める。
ガラッ――
プレハブの戸を開けると、生ぬるい夜風が流れ込んできた。
遠くで蝉が鳴いている。
七月が終わる。
夏休みが終わるまで、あと一ヶ月だった。
「……できた。」
二日後。
美琴とアカネは、大まかな塗装を終えていた。
美琴は、完成した腕パーツをそっと持ち上げる。
そこには、もう最初の頃みたいな貧相な灰色の腕はなかった。
重厚な金属色。
固く握られた拳。
厚みのある装甲。
ツギハギだらけだった旧キットが、少しずつ箱絵の姿へ近づいている。
それが嬉しくてたまらなかった。
「次はスミ入れと部分塗装だな。」
涼介が言う。
「え、部分塗装?」 「筆で塗るやつでしょ?」
アカネが勢いよく反応する。
「アタシ絶対それ得意だよ!」
「お前はこっち。」
康太は即座にアカネの肩を掴んだ。
「えっ。」
そのまま別の机へ連れていかれる。
数分後――
「えぇーーッ!?」 「また磨くの!?」
向こうの机からアカネの悲鳴が響いた。
「そのためにスポンジヤスリとコンパウンド買ったんだろーが!!」 「カーモデルは塗って磨いての繰り返しなんだよ!!」
「ほら、工具も使ってやんないと泣くぜ?」
「ぅう〜〜〜……。」
「分かったわよぉ……。」
そんなやり取りが聞こえてくる。
美琴は思わず苦笑した。
「……まぁ、カーモデルは磨き工程多いからな。」
涼介が静かに言う。
「でも、あっちはもう組み立てほぼ終わってる。」 「こっちはまだ腕だけだ。」
「……っ。」
美琴はハッとした。
たしかに。
アカネのスカイラインは、もう車の形になっている。
一方、自分はまだ腕。
このままじゃ、本当に夏休みが終わってしまう。
「涼介君、早く教えて!」
美琴は慌てて言った。
すると涼介は少し笑う。
「まぁ、あっちはあっちでこれからが地獄だけどな。」
そして、小瓶を取り出した。
「よし。」 「じゃあ次はスミ入れ。」
「前に説明だけはしたよな?」
たしかに聞いた。
溝へ線を流し込む作業。
美琴は、自分で彫った大量のスジ彫りを見る。
そこへ。
「このエナメル塗料を――」
チョン……
筆先が溝へ触れる。
すると。
スーッ……
黒い線が、気持ち良いくらい綺麗に流れていった。
「おぉ……。」
美琴は思わず声を漏らす。
「これを全部。」 「薄い色はグレー。」 「濃い色はブラックで濃淡つけろ。」
「分かった。」
美琴はエナメル塗料を手に取った。
チョン…… スーッ……
チョン…… スーッ……
「……。」
気づけば、夢中になっていた。
これは――
ちょっとどころじゃなく、気持ちいいかもしれない。
「……できた。」
あの後。
美琴は、全ての溝へスミ入れをし、はみ出した部分を何度も修正していた。
拭き取り過ぎてやり直し。
色が薄くてもう一回。
そんな作業を繰り返して――
ようやく。
腕パーツは完成した。
そこにあったのは、さらに存在感を増した重厚な腕。
ただ色が付いただけじゃない。
溝へ流れた影。
金属みたいな質感。
何週間もかけて作った形。
最初の灰色の旧キットとは、もう別物だった。
そして今なら分かる。
後ハメ加工の意味。
あれは、塗れなくなる場所を無くすための加工だった。
何度も削って、やり直した表面処理。
あれをやると、塗装した後の質感が本当に“本物”みたいになる。
一つ一つの工程。
何度も調整する理由。
全部に意味があった。
――やるとやらないとじゃ仕上がりが違うぜ!
康太が何度も言っていた言葉。
今の美琴なら、心から頷ける気がした。
「まだやる事はあるけど、一旦腕から離れるぞ。」
涼介が言う。
「最後は全体のバランス見ながら調整した方がいい。」
美琴は少し名残惜しそうに腕を見た。
何週間も触り続けたパーツだった。
「次は、今まで腕でやった事を全部のパーツでやる。」
「……全部?」
「全部だ。」
涼介は当然みたいに頷く。
「その前に。」 「体以外のパーツを接着しろ。」
「そこで、まだ教えてない工程やる。」
「……まだあるの?」
美琴は思わず苦笑した。
それでも。
もう嫌ではなかった。
美琴は接着剤を手に取り、次のパーツへ向き直った。
接着剤が乾いた頃。
涼介が、机の上へ旧キットを立たせながら言った。
「今のプラモと、この箱絵。」
「何が違うと思う?」
美琴は箱絵と見比べる。
灰色だった頃より、かなり格好良くなっている。
でも――
「う〜ん……。」
美琴は少し悩んだあと、ぽつりと呟いた。
「足が短い……とか?」 「あと、肩がちょっと下がってる?」
「そう。」
涼介は頷く。
「だからプロポーションを変える。」
「プロポーション?」
「立たせた時、一番格好良く見える形に調整するって事だ。」
そして。
涼介は腿パーツを指差した。
「まずは足を伸ばす。」
「ここの部分。」 「真っ二つに切れ。」
「真っ二つ!?」
美琴は思わず声を上げた。
涼介は平然としている。
「真っ二つだ。」
「でも、最初だって縦に真っ二つだっただろ?」 「それを繋げてたんだ。」
「横に切っても問題ない。」
「……たしかに。」
言われてみれば、その通りだった。
美琴は少し悩んだあと、決意する。
――待って。
真っ二つって事は……
「ノコギリ使える!?」
美琴の目が輝いた。
「あぁ。」 「プラ板も使う。」
涼介が答える。
美琴は嬉しそうにホビーノコを取り出した。
キコキコ……
少しずつ。
腿パーツが切れていく。
そして――
コト。
綺麗に真っ二つになった。
「……大丈夫かなぁ。」
不安になる。
でも。
どこかワクワクしていた。
「その断面へ、伸ばしたい分のプラ板を挟む。」
「ヤスリで形整えながらな。」
「まぁ、二ミリくらいか?」
「そこは自分で決めろ。」
「二枚重ねてもいいの?」
「あぁ。」
美琴は箱絵を見る。
スラッと伸びた足。
少し悩んだあと、一ミリと一・五ミリを重ね、合計二・五ミリ伸ばす事にした。
接着剤を塗る。
挟む。
固定する。
「パーツの形に合わせて切り取れ。」 「はみ出た部分はヤスリ。」
「後は今までと同じだ。」
涼介は続ける。
「これ、アーマーとかにも使えるからな。」
「……すご。」
美琴は素直に感動した。
たった数ミリ。
それだけで、こんなに印象が変わる。
プラモデルって、本当にすごい。
「次は肩だな。」
涼介は胴体パーツを持ち上げる。
「肩の付け根。」 「腰に向かって狭くなってるだろ。」
よく見ると、たしかにそうだった。
妙に撫で肩だった原因はこれか。
「そこを山なりに切り取る。」
「空洞部分は後でプラ板貼るから、そのままでいい。」
美琴は慎重に削っていく。
肩パーツを合わせる。
すると――
「おぉ〜……。」
箱絵みたいに、肩がしっかり上がった。
鋭いシルエット。
重厚な体型。
手を加えるたび、どんどん格好良くなっていく。
その変化が、たまらなく楽しかった。
その頃。
向こうの机では――
「康太康太!」 「ほら見て!!」
アカネが車体を光へかざしている。
「指映る!!」 「やばくない!? マジ綺麗なんだけど!!」
「おぉ、かなり上手いじゃねーか!」
康太も嬉しそうに笑う。
「じゃあ次はクリアー吹いて、もう一回磨きだな!」
「えぇ〜〜……。」
アカネが机へ突っ伏した。
でも。
その顔は、どこか嬉しそうだった。
康太とアカネは、なんだかんだで結構気が合うらしい。
あれから、一週間と少し。
美琴の作業速度は、見違えるほど速くなっていた。
接着したパーツを成形する。
足を延長する。
アーマーを削る。
盛る。
また削る。
サフを吹く。
表面処理。
塗装。
スミ入れ。
何度も繰り返した工程。
最初は意味も分からなかった作業が、今では自然と手から出てくる。
気づけば。
机の上には、綺麗に仕上がったパーツが並んでいた。
頭。
腕。
胴体。
足。
重厚な金属色へ塗装された旧キット。
美琴は、その光景を見て自然と笑っていた。
すると。
「じゃあ、組み立てだな。」
涼介が静かに言った。
「いよいよ完成?」
「いや。」 「まだ一手間ある。」
涼介は、細いプラ棒とアルミ線を取り出した。
「そのまま接着してもいい。」 「でも、最後にこれでバランス調整する。」
「胴体の中へプラ棒を仕込む。」 「そこへアルミ線を通すんだ。」
「針金……?」
美琴は少し驚いた。
「あぁ。」 「これで腕や足を繋ぐ。」
「最後に角度を調整して、一番格好良い立ち姿にするんだ。」
美琴は言われた通り、アルミ線を通していく。
腕。
足。
胴体。
少しずつ。
バラバラだったパーツが、一つへ繋がっていく。
そして――
「胴体を接着して。」 「そこ削れば、一通り完成だな。」
「…………。」
美琴は言葉を失った。
机の上。
そこに立っていたのは、もう最初の旧キットじゃなかった。
ガッシリと張った肩。
スラリと伸びた足。
重厚な金属色。
キラリと光る、一つ目。
箱絵の中にいた。
あの無骨で重厚なロボットが。
今、目の前へ立っていた。
「これを……。」
美琴の声が震える。
「……私が作ったの?」
胸が熱い。
涙が出そうになるくらい、嬉しかった。
そんな美琴を見て、涼介は少しだけ笑う。
「まだ終わりじゃないぜ。」
「あと、デカール。」 「仕上げのトップコート。」
八月二十日。
町が、近づく夏祭りに少しずつ浮き足立っている頃。
――私の初めての“作品”が、静かに形を成していた。
次の日も、美琴は模型部のプレハブにいた。
今日はデカール。
水へ浸し、ゆっくりずらして貼り付ける。
小さなマーク。
数字。
警告表示。
それだけなのに。
貼るたび、プラモデルの情報量が増えていく。
「やるとやらないとじゃ、仕上がり全然違うだろ?」
康太がニヤニヤしながら言った。
「全部がそうだった!」
美琴は即座に答える。
「今なら康太君の言ってた意味、ちゃんと分かる!」
康太は嬉しそうに笑った。
「だろ?」
その後ろから。
「康太!!」
アカネの大声が響く。
「ほら見て!!」 「顔映る!! 顔!!」
アカネはピカピカのスカイラインを抱え、康太へ詰め寄っていた。
「鏡みたいなんだけど!!」
「指紋付けんなよ〜。」
康太は苦笑する。
「まぁ、こっちもそろそろ完成だな。」
「どっちも最後まで気ぃ抜くなよ!」
康太とアカネは向こうの机へ戻っていく。
美琴はトップコート。
アカネは最後の部分塗装。
残る工程は、もうわずかだった。
そして――
「「できたぁッ!!」」
二人の声が、同時にプレハブへ響いた。
机の上。
そこには二つのプラモデル。
重厚な箱絵から、そのまま飛び出してきたみたいな一つ目のロボット。
そして。
鏡みたいに光を反射する、ピカピカのスカイライン2000GT。
「すごっ!!」 「なにこれ!? イラストまんまじゃん!!」
アカネが目を輝かせる。
「ミコやるぅ!!」
「アカネちゃんのもすごく綺麗!!」 「どうやってここまで光るの!?」
美琴も負けないくらい興奮していた。
二人は、自分の作品を見て。
相手の作品を見て。
何度も歓声を上げる。
その後ろでは。
涼介と康太が、満足そうに笑っていた。
そして。
「「……でも。」」
二人の声が、また綺麗に重なる。
「私のこの足の部分……。」
「アタシのエンジン周り……。」
完成したばかりのプラモデルを見つめながら、二人は同時に言った。
「「もう少し汚れてた方が、格好良くない?」」
数秒。
そして。
涼介と康太は吹き出した。
「あー、もう完全に沼だな!」
康太が笑う。
「じゃあ次はウェザリングだ!」
「ウェザリングはドライブラシって技術使う。」
涼介も続けた。
また知らない単語。
でも。
今の美琴とアカネは、それを聞くだけでワクワクしていた。
プレハブに漂う、もう慣れ親しんだシンナーの匂い。
少しずつ早くなってきた夕暮れ。
夏休みが、終わろうとしていた。




