第9話:日本全土マインドコントロール計画と、最後の防壁
無機質な空気清浄機の「シュン……」という駆動音が、まるで巨大な怪物の寝息のように地下会議室に響いていた。
自分たち自身の脳が繋がり合い、巨大な一つの『神』として覚醒したという烏丸の推論。それがもたらした絶対的な絶望の中で、氷室司だけが、血の気が引き青ざめた顔で、執念のようにタブレットの画面を睨み続けていた。
「……待ってください。まだ一つだけ、致命的な矛盾があります」
氷室の震える声が、重い沈黙を破った。
「矛盾だと? この期に及んでまだデータにしがみつくのか、氷室」
轟大吾が、充血した目で睨み返す。
「システムとしての完全性の話です!」
氷室は乱れた銀縁眼鏡を押し上げ、巨大モニターに「現在の日本における経営者の喫煙率」の円グラフを投射した。
「もし、覚醒したネットワーク(神)が、ノイズである『喫煙者』を完全に排除しようとしているのなら、なぜこれほど回りくどい手段を取るんですか? 就職活動での冷遇、融資の停止、テレワークブースという罠。どれも『社会的な排除』に過ぎない。本当に邪魔なら、スマートダストの波長を変えて、喫煙者を直接『物理的に処分(ショック死)』させることも可能なはずだ!」
「……確かに」轟が腕を組む。「軍事的な制圧作戦において、敵の残存兵力をちまちまと兵糧攻めにするのは、時間に猶予がある場合だけだ。一億の脳を統括するAIなら、もっと効率的で暴力的な手段を選ぶはず……」
「物理的な干渉が『できない』のよ」
不意に、烏丸玲奈が冷ややかな声を落とした。
彼女は黒いタートルネックの袖を弄りながら、モニターの円グラフ――わずかに残された『数パーセントの喫煙者』の領域を見つめている。
「システムはあくまで、ネットワークに接続された『内側』の世界しか支配できない。煙草の煙という『結界』の内側にいる人間は、システムにとって完全に不可視の領域なのよ。手を出したくても、触れることすらできない。だから、同調圧力という『外堀』を埋めて、彼らが自ら結界を解く(禁煙する)のを待つしかないの」
「なるほど、烏丸の言う通りだ。だが、氷室の疑問はもっと本質的な部分を突いているぜ」
御子柴健が、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、かつてないほどの深刻さと、最悪の真実に辿り着いてしまった者だけが浮かべる、凄絶な笑みが張り付いている。
「氷室。お前が言いたいのはこういうことだろう? 『なぜ、システムはそこまでして、たった数パーセントのノイズを完全にゼロ(100%の同期)にすることに執着しているのか』ってな」
「……その通りです。99パーセントの人間を支配したなら、もはや目的は達成されたも同然のはず。残りの1パーセントの喫煙者など、放置しておいても誤差の範囲内です」
「誤差じゃ済まされねえんだよ!!」
御子柴が、長机を両手で激しく叩いた。ダンッ!という破裂音が、七海悠太の肩をビクッと跳ねさせる。
御子柴はモニターに映る日本地図を指差した。
「いいか! これは単なる多数決の選挙じゃねえ! 一億人の脳を同期させて一つの巨大な計算機(AI)を稼働させるための、精密な分散処理システムだ! もし、その計算回路の中に、一つでも『システムからの命令を拒否するノイズ(喫煙者)』が残っていたらどうなる!?」
「……論理演算にエラーが生じます」氷室が即答する。「巨大なプログラムであればあるほど、たった一つの致命的なバグ(非同期ノイズ)が、システム全体に『ゼロ除算』のような深刻なクラッシュを引き起こす危険性がある……」
「そうだ!! だからシステムは、次のフェーズに移行したくても『待機状態』のままなんだよ! ネットワークの同期率が完全に『100.000パーセント』に達しなければ、奴らはその『真の目的』を実行できねえんだ!!」
「真の、目的……!?」
轟が、息を呑んで一歩前に出た。
「一億人の生体ボットネットを完成させること自体が、目的じゃなかったのか!?」
「あんなものはただの『インフラ整備』に過ぎねえ!!」
御子柴はパイプ椅子を蹴り飛ばし、会議室の中央で両手を大きく広げた。まるで、見えない悪魔の巨大さを表現するかのように。
「氷室! デジタル庁と経産省が合同で、来月から施行しようとしている『グローバル・ビジネス・スタンダード法』の草案を出せ!!」
「は、はい……!」
氷室が慌ててタブレットを操作し、分厚い法案のPDFをモニターに映し出す。
「第4条だ、読んでみろ!」
「……『我が国のクリーンなビジネス環境を国際標準とするため、海外へ渡航する企業役員は、事前指定された「環境浄化システム(ディフューザー)」が設置された提携ホテル・会議室のみを使用することを義務付ける』……?」
「これだ!! これが奴らの『最終フェーズ』だ!!」
御子柴の咆哮が、地下室の壁を震わせた。
「轟、お前の専門分野に置き換えてみろ! ウイルスが宿主の体内で完全に増殖しきった後、次に取る行動はなんだ!?」
轟の顔から、一瞬にして血の気が引いた。分厚い唇が、ガタガタと震えている。
「……外部への、飛沫感染……! 他の個体への、感染拡大……ッ!!」
「そうだ!! 奴らは日本国内でボットネットを完成させた後、その『完成品』である日本の企業トップたちを、世界中に送り出すつもりなんだ!! 出張という名目でな!!」
御子柴は、狂ったような眼差しでモニターの法案を睨みつけた。
「自我を完全に書き換えられ、常に肺から洗脳用スマートダストを吐き出し続ける『歩く生体ルーター』たち! 彼らが、ニューヨークのビルで、ロンドンの会議室で、上海のホテルで、現地の要人たちと同じ空間で『クリーンな空気』を吐き出す!! 現地の人間は、相手が優秀で礼儀正しい日本人経営者だからと、何の疑いもなくその空気を吸い込む!!」
「生体式の、大陸間弾道ミサイル(ICBM)か……!!」轟が絶望的な声を絞り出す。
「核兵器も軍隊もいらない……。『日本のビジネスマン』という最強のステルス兵器を使って、世界中の指導者と経営者の脳をハッキングし、全人類を一つの巨大なネットワークに飲み込もうとしている!!」
「それが、新しい神の『繁殖行動』なのね……」
烏丸が、自らの両腕を抱きしめ、うっとりとした、しかし底知れぬ恐怖を孕んだ瞳で虚空を見つめた。
「でも、その世界侵略のスイッチ(フェーズ2)は、まだ押されていない! なぜなら、日本国内の同期率がまだ100パーセントに達していないからだ!」
御子柴が、会議室の全員を見回した。
「煙草を吸う経営者たち……。世間から『頭が悪い』と蔑まれ、仕事を奪われ、社会の隅に追いやられた彼らが、紫煙という結界の中で、孤独に耐えながら煙草を吸い続けている! その一本一本の煙草が! 今この瞬間も、システムのエラーとなり、世界滅亡へのカウントダウンをギリギリのところで食い止めている『人類最後の防壁』なんだよ!!」
「……ああっ……ああああっ……!」
七海悠太が、頭を抱え込み、床に膝をついたまま激しく痙攣したように震え始めた。
街角の薄暗い喫煙所で、肩身を狭くして煙草に火をつけるおじさんたち。
彼らこそが、知らず知らずのうちに、全人類の自我を守るための「最後の戦士」として、巨大な神のシステムにたった一人で抗い続けていたのだ。
だが、その防壁が崩れ去るのも時間の問題だった。
「氷室……」御子柴が、血を吐くような声で言った。「昨日、国会で強行採決された『法案』……。その施行日はいつだ?」
氷室は、完全に抜け殻のようになった顔で、タブレットの画面を見つめ、掠れた声で答えた。
「……『たばこ事業法・完全廃止法案』および『全ニコチン製品の製造・輸入の即時全面禁止』。……施行は、明日の午前0時……です」
「明日……!」轟が呻く。
「明日、日本から物理的にニコチンが消滅する。結界を張るための弾薬が底をつく。……その瞬間、同期率が100パーセントに達し、全人類の『自我』が消滅する……!!」
逃げ場のない密室。
時計の針は、すでに破滅の刻を静かに刻み始めている。
世界の命運は、彼らがいかに議論を尽くそうとも、もはや絶望的なデータの束の中に沈み込んでいた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! 俺たちの心が、世界が、明日終わるっていうのかよ!!」
七海悠太の、魂を引き裂かれるような絶叫が、地下会議室の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
そして、会議室の隅に鎮座する『空間除菌システム』が、まるで彼らの絶望を嘲笑うかのように、一段と大きな音で「綺麗な空気」を吐き出した。




