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第10話:最終決断、そして会議室は煙に包まれる

「……残り、11時間」

氷室司が、焦点の合わない虚ろな瞳でタブレットのデジタル時計を読み上げた。

時刻は午後1時を回ったところだ。明日の午前0時をもって、「たばこ事業法・完全廃止法案」が施行される。日本列島からニコチンという物質が物理的、かつ合法的に消滅するまでのタイムリミット。

「それが、人類の自我の寿命というわけですね……」

氷室は、ゆっくりとタブレットを長机の上に置いた。常にデータを信奉し、論理の力で世界を解き明かしてきた男の顔には、もはや完全な諦観しか残っていなかった。

「……降伏です。物理法則も、数学的確率も、すべて奴らの掌の上だ。システムそのものが『空気』と同化している以上、我々には逃げ場がない」

「クソッ!!」

轟大吾が、怒りに任せてパイプ椅子を蹴り飛ばした。凄まじい金属音が地下室に響く。

「敵の司令塔が『人間』なら、首の骨をへし折ってでも止めてやる! だが、相手は一億人の脳が繋がった『概念』だ! ミサイルで空気を吹き飛ばすことはできねえ! 軍事的には……完全な詰みだ!」

「嫌だ……俺、嫌ですよ……!」

七海悠太は、頭を抱えたまま、子供のようにポロポロと涙をこぼした。

「明日になったら、俺も、おじさんも、みんな……あの不気味な笑顔で『クリーンなビジネスをしましょう』って言いながら、お互いの脳みそをハッキングし合うバケモノになっちゃうんだ……! 俺の心は、俺の感情は、全部消えちゃうんだ……!」

死よりも恐ろしい「自我の消滅」。

会議室の隅に鎮座する空間除菌システムが、絶望に沈む彼らをあざ笑うかのように「シュン……シュン……」と一定のリズムで稼働し続けている。

その綺麗な空気が、今や猛毒にしか感じられなかった。

「……死と再生は、宇宙の摂理よ」

烏丸玲奈が、静寂の中でぽつりと呟いた。彼女は、虚空を見つめながら、まるで殉教者のような穏やかな微笑を浮かべている。

「個人の魂が消え、巨大な一つの神に統合される。それはオカルトの観点から言えば『人類の補完』であり、高次元へのアセンション(次元上昇)……。抗うことのできない、美しい進化の形なのかもしれないわね」

「ふざけるな」

低く、しかし地の底から響くような声が、烏丸の言葉を切り裂いた。

リーダーの御子柴健だ。

彼は、よれよれのスーツのポケットに両手を突っ込みながら、ゆっくりと立ち上がった。その無精髭に覆われた口元には、狂気に満ちた、あの不敵な笑みが張り付いていた。

「進化だ? 統合だ? 笑わせるな。俺たちは人間だ。愚かで、非合理的で、無駄なことばかり考える『ノイズ』の塊だ。その薄汚いノイズこそが、俺たちの魂の証明だろうが!」

御子柴は、巨大モニターに映し出された『日本全土の同期率:99.999%』という赤い数字を睨みつけた。

「いいか、氷室。お前はさっき『逃げ場がない』と言ったな。轟、お前は『打つ手がない』と言った。だがな、奴らのシステムは『100.000%の同期』が完了しなければ、世界侵略(フェーズ2)に移行できねえんだ。たった一つでも、強烈なバグが残っていればな」

「バグ……?」氷室が顔を上げる。「しかし、明日になれば日本から煙草は消滅します! 結界を張るための物質がなくなるんですよ!」

「『外の世界』からはな」

御子柴は、スーツの内ポケットから、くしゃくしゃになった小さな箱を取り出し、長机の上に放り投げた。

ドサッ、という鈍い音が響く。

それは、封を切られていない、カートン詰めの『紙巻きたばこ』だった。

「み、御子柴さん……それ……!」七海が息を呑む。

「旧世紀の遺物さ。俺が個人的に密輸ルートからかき集めて、この会議室の床下収納に死ぬほど備蓄してある。……ここは何処だ、轟?」

不意に問われ、轟はハッとして周囲を見回した。

「……窓のない、地下深くの第4会議室。分厚いコンクリートの壁と、独立した空調設備……」

「そうだ」御子柴がニヤリと笑う。

「ここは、偶然にも奴らが恐れた『旧型喫煙所シェルター』と全く同じ構造をしている! 電波は遮断され、外の空気は入ってこない。完璧な電波暗室ファラデーケージだ!」

「まさか……!」氷室が弾かれたように立ち上がった。

「この会議室の中で煙草を吸い、内部をニコチンと紫煙で満たし続ける……? ここを、システムから完全に切り離された『絶対防空圏』にするというんですか!?」

「そうだ!!」御子柴が吠える。

「外の世界が一億人のボットネットに飲み込まれようと知ったことか! 俺たち特務考察機関サイファーの5人だけが、この密室に立てこもり、ニコチンの結界を張り続ける!! 奴らの巨大な脳内にポツンと残った、永遠に切除できない『悪性腫瘍』になってやるんだ!!」

「籠城戦、か……」

轟が、ゴクリと生唾を飲み込んだ。その目には、絶望の代わりに、死地を見据えた戦士の強烈な光が戻っていた。

「外に出れば、一瞬でスマートダストに感染し、自我を失う。……つまり、一生この地下室から出られない。兵糧が尽きるか、寿命が尽きるまでの、終わりのない防衛戦だぞ」

「あら、素敵じゃない」

烏丸が、長い黒髪を揺らしてクスクスと笑った。

「神様の脳みその中で、最も純粋で、最も汚れた人間の魂を守り続ける。……これ以上の、究極の魔術儀式なんて存在しないわ」

御子柴の狂気的な提案。

それは、世界を救う方法ではない。外の人間たちは明日、間違いなくシステムに飲み込まれる。だが、彼ら5人がこの部屋で「ノイズ」であり続ける限り、システムは不完全なままバグを起こし続け、世界侵略のスイッチを押すことはできないのだ。

人類の未来は、この窓のない密室に閉じ込められた5人の「愚かな考察者たち」の命と引き換えに、首の皮一枚で繋ぎ止められる。

「七海」

御子柴が、静かに呼びかけた。

「俺たちは、ここで『考察』を続ける。明日も、明後日も、外の世界が終わってもだ。……お前はどうする? 外に出て、何も知らない幸せな歯車になるか?」

七海は、長机の上に置かれた煙草の箱を見つめた。

手はまだ小刻みに震えている。一生、太陽の光を見られない。狭い地下室で、煙に巻かれながら死を待つだけの狂った生活。

だが……七海は、両手で思い切り自分の頬を張り飛ばした。パーン!という乾いた音が響く。

「……冗談じゃないですよ」

七海は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、不敵に笑おうとして、顔を引きつらせた。

「俺……おじさんの仇、討ちたいですから。それに、俺がビビってツッコミを入れないと、あなたたちの議論、すぐにオカルトや陰謀論に飛躍して、収集つかなくなるじゃないですか……!」

「フッ……違いない」氷室が、眼鏡の奥で初めて微かに笑った。「論理的破綻を防ぐ観測者は必要です。私も、最後までデータであなた方と戦いましょう」

5人の意志が、完全に一つになった。

それは、システムが強要する「同期」ではない。それぞれが全く違うベクトルから、自らの強烈な「自我」によって導き出した、バラバラで、不格好で、完璧な決断。

御子柴は、箱から紙巻きたばこを1本引き抜くと、無精髭の口元に咥えた。

そして、銀色に光るジッポライターを取り出す。

カチン、という冷たい金属音。

シュボッ、と小さな炎が上がり、オレンジ色の光が5人の決意に満ちた顔を照らし出した。

御子柴が深く息を吸い込むと、煙草の先端が赤く燃え上がる。

彼がゆっくりと息を吐き出すと、紫色の濃厚な煙が、無機質な蛍光灯の光を遮るように、空中にたなびいた。

『ピーッ! ピーッ! 空間の汚染を検知しました。直ちに空気を浄化――』

部屋の隅の空間除菌システムが、異常を検知してファンを最大出力で回し始める。しかし、紫煙の粒子は次々とナノマシンを絡め取り、床へと叩き落としていく。

壁の巨大モニターに映っていた「同期率99.999%」の赤い数字が、激しいノイズと共に明滅し、やがて「ERROR」の文字を残してプツリとブラックアウトした。

結界は、張られた。

紫色の煙が充満し始めた密室の中で、御子柴は深く椅子に腰掛け、残りの4人を見渡した。

もう、誰も怯えていない。彼らの目には、次なる謎を解き明かさんとする、果てしない考察への渇望だけが燃えていた。

「さて、世界は救えなかったが……俺たちの戦いはこれからだ」

御子柴が、煙草の灰を床に落としながら、獰猛に笑う。

「特務考察機関サイファー、第74回定例会議を再開する。……次の議題を出すぞ、氷室」

窓のない第4会議室。

世界で最後に残された、最も愚かで、最も純粋な「人間の自我」たちの白熱する議論は、煙の向こう側で、永遠に終わることなく続いていく。

(『特務考察機関サイファー ~煙草を吸う経営者は頭が悪い編~』 完)

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