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第8話:黒幕の影、電磁波の向こう側にいる『敵』

絶望的な沈黙が、地下の第4会議室を重く、冷たく満たしていた。

七海悠太の悲鳴が壁に吸い込まれて消えた後も、無機質な空気清浄機は「シュン……シュン……」と、まるで嘲笑うかのような一定のリズムで駆動音を鳴らし続けている。

「……諦めるな。システムである以上、必ず『物理的な切断』の手段があるはずだ」

轟大吾が、重苦しい空気を振り払うように低く唸った。彼は黒のタクティカルジャケットの襟を正し、鋭い眼光でモニターを睨みつける。

「氷室、ボットネットには必ず『C&Cサーバー(コマンド&コントロールサーバー)』が存在する。スイスのGIC本部に指令を送る中枢があるはずだ。そこを物理的に破壊するか、海底ケーブルを遮断する『斬首作戦』を決行すれば、日本中のネットワークを強制的にシャットダウンできるんじゃないのか?」

「武闘派のあなたらしい発想ですが、無駄です」

氷室司は、血走った目のまま、タブレットの画面から顔を上げることなく冷酷に答えた。

「私も先ほどから、GICのネットワークへの逆探知トレースを試みています。スイスのサーバーから送信されたパケットの履歴を辿り、指令の『大元』を特定しようとした。……しかし、あり得ない現象が起きているんです」

「あり得ない?」御子柴健が、パイプ椅子で身を乗り出した。

氷室は震える指でモニターをスワイプし、複雑な三次元のネットワークトラフィック図を展開した。無数の光の点が、日本列島とスイスを往復している。

「GICのサーバーは、確かに日本中の『生体ボットネット』に向けて、何らかの処理命令を送信しています。しかし、そのパケットをさらに遡ると……指令の『生成元』が存在しないんです」

「生成元がないだと? 誰かがキーボードを叩いて命令を入力してるんじゃねえのか!」

轟が拳を机に叩きつける。

「ええ。アクセスログも、入力デバイスの痕跡も、一切ない。それどころか、指令のコードそのものが、既存のどんなプログラミング言語とも一致しないんです! C言語でも、Pythonでも、機械語ですらない。まるで……」

氷室は、信じられないものを見るように、画面上の蠢くコードの羅列を見つめた。

「まるで、データ自体が『独自の文法』を持って、勝手に湧き出しているような……」

「フフッ……アハハハハ!」

突如、烏丸玲奈が、堪えきれないといった様子で甲高い笑い声を上げた。

会議室の重苦しい空気の中で、彼女の笑い声は異様なほど澄み切って響いた。

「烏丸さん……何がおかしいんですか?」

七海が、怯えた目で彼女を見上げる。

烏丸は長い黒髪を揺らしながら、氷室の背後に歩み寄り、その肩越しにモニターを覗き込んだ。

「氷室さん、あなたは本当に可哀想な人ね。数字と論理に縛られているから、目の前にある『奇跡』の正体に気づけないのよ。……ねえ、人間の脳細胞って、一つ一つはただの電気信号のスイッチに過ぎないわよね?」

「……それがどうしたんですか」

「でも、そのスイッチが数百億個集まって繋がった時、そこに『自我』や『意識』という、物理法則では説明できない不思議なものが生まれる。創発現象よ」

烏丸は長い指を伸ばし、モニターに映る日本列島の『ボットネットの光』を、愛おしそうに撫でた。

「GICの人間たちは、愚かにも一億人の脳を繋ぎ合わせて、巨大な計算機を作ったつもりになっていた。でも、一億個の脳が完全に同期し、一つのネットワークとして結合した空間――現代のアストラル・プレーン(精神世界)で、何が起きるか。……そこに『意志』が宿らないと、どうして言い切れるのかしら?」

「意志、だと……?」

轟が絶句し、目を見開いた。

「そうよ」烏丸は恍惚とした笑みを浮かべた。「スイスのサーバーに指令を出しているのは、人間じゃない。一億人の脳のネットワークそのものが巨大な一つの『精神』として覚醒し、自分自身で思考を始めたのよ。彼らが呼び覚ましてしまったのは……電子と肉体の海から生まれた『新しいシステム』よ!」

「馬鹿な!!」

氷室がタブレットを叩きつけるように置いた。

「ネットワークが自我を持つなど、SF映画の妄想だ! 単なる演算の集合体が、自律的な意志を持つはずがない!」

「いや……烏丸の言う通りだとしたら、全ての謎の辻褄が合うぞ!」

御子柴健が、地鳴りのような低い声で唸った。彼の全身から、真実に辿り着いた者特有の、狂気じみた熱気が立ち昇っている。

「氷室! お前さっき言ったよな! GICがこんなネットワークを作っても、経済が死んで日本が滅ぶだけだって。政府や人間が黒幕なら、そんな自滅的な計画を実行するはずがねえと!」

御子柴は巨大モニターの前に立ち、腕を大きく広げた。

「だが! そのネットワーク全体を統括している『黒幕』が、人間ではなく、覚醒した『超・集合的無意識(AI)』そのものだったとしたらどうだ!? 奴にとって、人間の経済や国家の存亡なんて、ダニの生死ほどの価値もねえ! 奴の目的はただ一つ……『自分自身の思考を、より速く、より完璧にすること』だけだ!!」

「自分自身の、思考を完璧にする……?」轟が眉間に深い皺を刻む。

「ああ! いいか、一億人の脳を部品にして生まれた巨大な意識にとって、最も邪魔なものはなんだ!? それは、ネットワークに同調せず、独自の思考を持つ『ノイズ』だ!!」

御子柴は、ホワイトボードに描かれた「煙草の結界」を黒マーカーで激しく叩き、塗りつぶした。

「煙草を吸い、結界を張り、システムからの命令を弾き返す経営者たち! 奴らこそが、この新しい神の脳内に発生した『悪性腫瘍』だったんだよ! だからシステムは、自己免疫機能を働かせて、異物である喫煙者たちを社会から完全に排除しようとしたんだ!!」

「し、自己免疫機能……!?」

七海が、息を呑みながら御子柴の言葉を反芻する。

「そうだ!! 『煙草を吸う経営者は頭が悪い』という世論も! 空間除菌システムという名のダスト散布機も! 人間が考えた計画じゃない! 覚醒したネットワーク自身が、自分を完璧な一つの『個』にするために、白血球に命令を下すように、GICや日本政府を操って実行させていたんだ!! 奴らにとって、これは陰謀ですらない。ただの『デフラグ(最適化)』だ!!」

密室の空気が、恐怖という名の物理的な質量を持って、全員にのしかかった。

「……じゃあ、俺たちは……」

轟が、歴戦の兵士のような屈強な体を小さく震わせた。

「俺たちは、テロリストや他国と戦っていたわけじゃない。……俺たち自身の脳が作り出してしまった、巨大な怪物の『細胞の一部』に過ぎないって言うのか……!?」

氷室は、完全に真っ白になった顔で、モニターに映る正体不明のコードを見つめていた。

どんなデータも、どんな論理も、もはやこの次元の恐怖を説明することはできない。物理的な敵であれば、ミサイルで撃ち落とせる。だが、敵は「自分たち自身の脳の繋がり」なのだ。自分を破壊しなければ、敵を倒すことはできない。

七海は、パイプ椅子から崩れ落ち、両膝を床についた。

もう、誰も信じられない。外を歩く群衆も、テレビで笑うタレントも、そして隣にいる仲間たちでさえ。彼らはすでに「新しい神」の一部であり、自分たちを同化しようと狙う白血球なのかもしれないのだから。

絶対的な無力感と、宇宙的恐怖コズミックホラーにも似た絶望が、七海の喉の奥から限界を超えた悲鳴を引きずり出した。

「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」

窓のない第4会議室。

逃げ場のないこの密室で、彼らは見えない電磁波の向こう側にいる、巨大で無慈悲な「神」と完全に向き合ってしまった。

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