■第7話:同調圧力の正体、操られる集合的無意識
地下の第4会議室に、もはやまともな酸素など残っていないのではないか。
七海悠太は、息苦しさに胸をかきむしりながら、狂気的な真実が羅列された巨大モニターを睨みつけていた。
一億人の生体ボットネット。GICという多国籍組織による、日本国民のCPU化。
あまりにもスケールの大きい絶望を前に、しかし、氷室司の指はなおもタブレット上で冷徹な計算を続けていた。銀縁眼鏡の奥の瞳が、血走っている。
「……計算が合いません、御子柴さん。いや、ボットネットの構築自体はあり得る。ですが『感染と洗脳の速度』が物理的に異常です」
「どういう意味だ?」御子柴健が片眉を上げる。
「いくら親機である経営者がオフィスでスマートダストを散布したとしても、人間の精神には本来『防衛本能』があるはずです。ある日突然『煙草を吸う経営者は頭が悪い』という突飛な価値観を押し付けられて、全員が全く疑問を持たずに同調するなど、社会学的に見てあり得ない。必ず一定数の反発や議論が起きるはずだ!」
氷室はモニターに、ここ数年のSNSにおける『炎上』や『世論形成』の速度データを表示した。
「見てください。この『喫煙経営者=悪』という世論が形成されたスピードは、過去のどんなプロパガンダよりも速い。たった数週間で、日本中のネットやメディア、そして現実の会話までもが、完全に単一の思想に染まりきった。いくらメディアをコントロールしたところで、人間の感情をここまで均一化することは不可能です」
「情報操作や心理戦の域を超えている、ということか」
轟大吾が腕を組み、低く唸った。「群集心理を誘導するには、普通は仮想敵を作って恐怖を煽るなどの手順を踏む。だが、今回のケースはあまりにも『静か』に、そして『滑らか』に国民全体が洗脳を受け入れている。まるで……」
「まるで、最初から全員の脳が『繋がっていた』みたいに、でしょう?」
烏丸玲奈が、ふふっ、と甘い毒のような声を会議室に響かせた。
彼女は長い黒髪をかき上げ、蛍光灯の光を妖しく反射するモニターを見つめる。
「氷室さん、あなたは人間を一つ一つの独立したパソコンだと思っているから、そんな計算違いをするのよ。スイスの心理学者ユングは、人類の心の奥底は一つに繋がっていると提唱したわ。『集合的無意識』よ」
「……またオカルトですか。私は今、ネットワークとウイルスの話をしているんです!」
「ええ、だからこそよ」烏丸は一歩、氷室に近づいた。「ねえ、日本人が世界で最も恐れるものって何かしら? 法律? 暴力? 違うわよね。――『同調圧力』よ」
「同調、圧力……?」七海が顔を上げる。
「みんながそう言っているから。空気を読まないといけないから。この国を支配している目に見えない『空気』の正体……。それが、もし単なる社会的な風潮ではなく、物理的なネットワークだとしたらどう?」
烏丸の言葉に、御子柴の目がカッと見開かれた。
「……ッ!! 烏丸、お前天才か!!」
御子柴はパイプ椅子を蹴り飛ばし、ホワイトボードに書き殴られた脳の図の間に、無数の線を引き始めた。
「氷室! お前の計算が合わない理由は単純だ! GICは、中央サーバーから一斉にデータを送信して俺たちを洗脳したんじゃない! 俺たちの脳内に侵入したスマートダスト同士を、近距離通信(Bluetooth)のように直接リンクさせたんだよ!!」
「端末同士の直接通信……。まさか、P2Pネットワーク……!?」氷室が息を呑む。
「そうだ!! 『集合的無意識』の正体は、ダストによって構築された超巨大なメッシュネットワークだ! 一人の人間が『煙草を吸う経営者は頭が悪い』というデータを受信すると、その思想はすぐ隣にいる人間に『同調圧力』という名のパケット通信として、無意識の領域で直接送信される!!」
「な……」轟が後ずさった。
「言葉やメディアを通す必要すらない……。すれ違うだけで、同じ空間で息をするだけで、脳内のダスト同士が勝手に同期して、思想を上書きし合うって言うのか!?」
「だから日本が選ばれたんだよ!!」
御子柴は、狂喜に満ちた顔で机を叩き割らんばかりにバンバンと叩いた。
「GICの奴らが、なぜこの極東の島国を最初の実験場に選んだか! それはこの国が、世界で最も『空気を読む』……つまり、他者の思考と同期しやすい『最高の導電性を持った土壌』だったからだ!! 奴らは、古来から日本に存在する『同調圧力』というシステムを、完璧な情報伝達プロトコルとして悪用したんだ!!」
会議室の空気が、完全に凍りついた。
氷室は、ガタガタと震える手で自らのタブレットを見下ろしていた。
「……では、最近急増している、原因不明の若者の鬱病や、過労死の真実は……」
「ストレスなんかじゃねえ!」御子柴が吠える。「自分の処理能力を超えたデータを、他人の脳から絶え間なく流し込まれた結果起きる、CPUの『熱暴走』だ!! 脳が物理的に焼き切れてるんだよ!!」
七海は、自分の震える両手を見つめた。
学校で、バイト先で、なんとなく周りに合わせて頷いた瞬間。
「みんながそう言っているから」と、自分の意見を飲み込んだ瞬間。
あの時、自分の脳内では、見知らぬ誰かの思考データが強制的にダウンロードされ、自分の意思を書き換えていたというのか。
「お、俺が……俺が今まで『自分で考えて決めた』と思ってたことは……全部……」
七海の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「全部、誰かの脳から送信された『データ』に過ぎなかったって言うんですか!! 俺の心は、俺の感情は、最初から存在しなかったって言うんですか!!」
「そうだ」御子柴が無慈悲に宣告する。「お前が感じているその恐怖すら、もはやお前個人のものかどうかわからねえ。日本国民一億人の脳は、すでに巨大な一つの『沼』に溶け合っちまっている。結界を持たない連中は、もう誰一人として『個』を保てていねえんだよ!!」
自分が自分であるという証明すら奪われた絶望。
何気ない日常の「空気」こそが、自らを縛る最強の洗脳チェーンであったという事実。
七海は、もはや立ち上がることすらできず、冷たい床に這いつくばりながら、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
彼の悲鳴すらも、次の瞬間にはネットワークのどこかへ吸い込まれ、誰かの無意識の「空気」として消費されてしまうのだろうか。
第4会議室の密室空間だけが、彼らの狂気をひっそりと閉じ込めていた。




