■第4話:空白の領域、電波暗室としての喫煙所
鼓膜を圧迫するような沈黙が、地下の第4会議室を支配していた。
壁際の空気清浄機が発する「シュン……シュン……」という単調な駆動音だけが、まるで時を刻む秒針のように不気味に響いている。
日本全土に散布される「スマートダスト」と、それを物理的・化学的に防いでいた「ニコチンと紫煙の結界」。その事実がもたらした絶望の余韻を断ち切るように、氷室司が猛烈な勢いでタブレットのキーボードを叩き始めた。
「……認めません。いくら御子柴さんの論理が筋立っていようと、これは現実の日本社会です。一億人規模の脳をハッキングするインフラを、誰にも気づかれずに構築するなど、物理的に不可能です。必ずどこかに『システムのエラー』や『監視の目』を逃れる空間があるはずだ」
氷室の指先が弾かれ、巨大モニターに複雑な図面がいくつも展開された。それは、2020年代前半に建設されたオフィスビルから、最新の2029年型スマートビルに至るまでの、空調設備とフロアマップの変遷図だった。
「これは……建築基準法のデータか?」
腕組みをした轟大吾が、鋭い視線をモニターに向ける。
「ええ。もし政府が中央空調を利用してナノマシンを散布しているなら、建物の構造そのものに何らかの細工が施されているはずです。しかし、過去10年間の設計図を比較しても、ダクトの構造自体に異常はない。……ただ一つ、『ある空間』が完全に消滅していることを除けば」
「『喫煙所』、ですね」
七海悠太が、青白い顔でポツリと呟いた。
「その通りです。2026年の健康増進法および建築基準法の歴史的改定により、屋内喫煙所は事実上、日本から完全撤廃されました」
氷室は図面の一部を拡大する。そこには、かつて「喫煙室」として指定されていた、フロアの隅の小さな四角いスペースが映し出されていた。
「私はこれまで、これを単なる健康被害対策だと信じて疑わなかった。しかし、御子柴さんの言う通り『煙』がナノマシンの干渉を防ぐジャミングであるならば……政府は、ダストを散布する前に、防空壕を徹底的に破壊しておく必要があった」
「ふん。ようやく俺の次元まで降りてきたな、氷室」
御子柴健が、パイプ椅子に深く背中を預けながら、口の端を歪めた。
「だが、ただの防空壕じゃないぜ。轟、お前の専門分野だ。この『旧型喫煙所』の構造、軍事的な視点から見てどう思う?」
御子柴に促され、轟がモニターの前に歩み出る。分厚い胸板が、黒のタクティカルジャケットを内側から押し上げている。彼は図面の「換気システム」の数値を指差した。
「……なるほど。そういうことか」
轟の低い声が唸った。
「旧来の喫煙所は、周囲のフロアに煙を漏らさないために『陰圧(内部の気圧を外部より低くする)』に設定されている。そして、吸い込んだ空気は、他のフロアの空調と交わることなく、専用の排気ダクトを通ってビルの外へ直接廃棄される。さらに、煙の粒子を逃さないための分厚い強化ガラスと密閉性の高いドア……」
轟は振り返り、全員の顔を見回した。
「これは単なる小部屋じゃない。軍の細菌戦研究所や、NBC(核・生物・化学)兵器の処理施設で使われる『完全隔離シェルター』と全く同じ構造だ。つまり、政府がオフィス中にどれだけナノマシンを散布しようが、旧型の喫煙所の中にだけは、その『汚染された空気』が一切入り込まない!」
「加えて言うなら、電磁波の観点でも完璧ね」
烏丸玲奈が、ふふっ、と艶やかな声で議論に割り込んだ。彼女は黒いタートルネックの襟元を指先でなぞりながら、虚空を見つめている。
「喫煙所の中って、よくスマホの電波が悪くなったでしょう? 煙を遮断するための鉛入りの壁材や、何層にも重なったフィルター……あれは、現代社会のあらゆるネットワークから切り離された『空白の領域』。言うなれば、懺悔室や瞑想部屋と同じよ。神の目――つまりシステムの監視から逃れ、自分の内なる声とだけ向き合える、最後の聖域だったの」
「化学的なニコチンのバリアだけじゃない。喫煙所という『空間』そのものが、物理的にも電波的にも、スマートダストの侵入を許さない『電波暗室』として機能していた……!」
氷室が愕然とした表情で、自らの導き出した結論に慄く。
「だから奴らは、法律を変えてまで日本中の喫煙所を急ピッチで解体した」御子柴が長机をドン!と叩いた。「結界を破壊し、聖域を奪い、経営者たちを『ナノマシンが充満するフロア』へと引きずり出すためにな。だが、話はここで終わりじゃねえぞ」
御子柴の眼光が、獲物を狙う鷹のように鋭さを増す。
「七海。さっき、お前のおじさんの会社の話をしてたな。おじさんの事業所にあった喫煙所は、解体された後、どうなった?」
急に話を振られ、七海はビクッと肩を震わせた。
「えっ? あ、はい。大家さんから強制的に喫煙所を撤去させられて……その代わり、国から補助金が出るからって、最近よく見る『一人用のテレワーク集中ブース』が設置されました。電話ボックスみたいな、防音のやつです。おじさん、煙草が吸えなくなった代わりに、一人になりたい時はよくそこに入って休憩してるって……」
その言葉を聞いた瞬間、氷室の表情が凍りついた。
彼は狂ったような手つきでタブレットを操作し、新たなデータをモニターに叩きつけた。
「……2027年以降、爆発的に普及した個室型テレワークブース。経産省とデジタル庁の『オフィス環境適正化補助金』の対象となり、全国の旧喫煙所スペースの実に89パーセントが、このブースに置き換わっている……!」
「氷室、そのブースの『スペック』を読み上げろ」
御子柴の声が、地を這うように低くなる。
氷室はモニターの文字を追いながら、次第にその声を震わせていった。
「製造元は……先ほどの空間除菌システムと同じ、日本環境浄化機構のダミー会社。ブース内の設備は、完全防音設計、外部ネットワークからの遮断機能。そして……『超高濃度・局所的空間浄化ディフューザー』標準装備。さらに、集中力を高めるための『骨伝導式・特定周波数BGM再生機能』……ッ!!」
「な……」
轟が絶句し、一歩後ずさった。
「馬鹿な……。防音と電波遮断で外部との接触を絶ち、密室の中に『超高濃度の洗脳ナノマシン』を噴霧する。さらに骨伝導で、直接脳にサブリミナル波長を流し込むだと……?」
轟の額に、冷たい汗が滲む。
「これはテレワークブースなんかじゃない。逃げ場のない密室で思考を強制的に書き換える……『洗脳用アイアンメイデン(鉄の処女)』だ!!」
「……ああっ!」
七海が、頭を抱えて悲鳴のような声を上げた。
「じゃ、じゃあ! 煙草を奪われて、息苦しくなって、一人になろうとしてあのブースに逃げ込んだおじさんは……! 経営者たちは……!!」
「ククク……最高に悪辣なトラップだ」
御子柴は、恐怖に慄くメンバーを見渡し、歓喜にすら似た狂気の笑みを浮かべた。
「奴らは、喫煙所という『聖域』を奪っただけじゃない! 孤独を求め、システムから逃れようとする『自我の強い人間』が、自ら進んであの箱に入るように仕向けたんだ! そして、最も無防備になった密室の中で、致死量レベルの洗脳プログラムを脳髄に直接ダウンロードさせている!!」
巨大モニターに映し出された、街に溢れるスタイリッシュなテレワークブースの画像。
それはもはや、便利なオフィス家具などではなく、日本中のビルに仕掛けられた「強制収容カプセル」に他ならなかった。
「もう日本に『空白の領域』なんて存在しねえ」
御子柴が、窓のない会議室の壁をドンと叩く。
「俺たちの呼吸する空気も、逃げ込む個室も、すでに奴らの手の中だ。……どうする氷室? お前の大好きな『データ』は、この絶望から逃げる方法を教えてくれるのか?」
氷室は反論することもできず、ただカタカタと震える手で眼鏡を握りしめていた。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
七海の魂の底からの絶叫が、逃げ場のない地下会議室の壁に、空しく反響し続けた。




