■第3話:古の結界術と、ニコチンが防ぐ『何か』
「……物理的な兵糧攻め、か。轟さんの見立ては相変わらず血生臭くて素敵だけれど、少しばかり三次元に囚われすぎているわね」
烏丸玲奈が、ふふっ、と鈴を転がすような笑い声を漏らした。
会議室の無機質な蛍光灯の下だというのに、彼女の周囲だけがひどく薄暗く、濃密な空気を纏っているように錯覚させられる。烏丸は黒髪を指に絡めながら、ゆっくりと立ち上がった。
「そもそも、なぜ『煙』なの? なぜ『ニコチン』でなければならなかったのかしら」
「それは……依存性が高く、健康被害という大義名分を掲げやすいからでしょう」氷室司が、苛立たしげに眼鏡のブリッジを押し上げた。「アルコールや糖分への規制も進んでいますが、受動喫煙という『他者への害』をアピールできる煙草は、社会から排除するためのスケープゴートとして最適だった。それだけのことです」
「浅いわね、氷室さん。データと合理性だけで世界が回っていると思ったら大間違いよ」
烏丸は長机の周りをゆっくりと歩き始めた。彼女のヒールが鳴るコツ、コツという音が、密室の静寂を奇妙なリズムで切り刻む。
「古来より、人類は『煙』を神聖なものとして扱ってきたわ。ネイティブ・アメリカンのピースパイプ、神社の常香炉、密教の護摩焚き……。なぜだと思う? 煙はね、目に見えない霊的な次元――こちら側とあちら側を隔てる『結界』を張るための、最も原始的で強力な魔術だからよ」
「魔術……またあなたのオカルト趣味ですか」氷室がため息をつく。「ここは特務考察機関です。非科学的な妄想で会議を引き延ばすのはやめていただきたい」
「オカルトじゃないわ、最先端の科学の話をしているのよ」烏丸がピタリと足を止め、氷室の背後に立った。「氷室さん、ニコチンが脳のどこに作用するか、データ至上主義のあなたなら当然知っているわよね?」
「……ニコチン性アセチルコリン受容体です。ニコチンがそこに結合することで、ドーパミンなどの神経伝達物質が放出され、一時的な快楽や覚醒作用をもたらす。それが依存のメカニズムだ」
「正解。じゃあ、その『アセチルコリン受容体』という鍵穴に、常にニコチンという鍵が刺さったままになっていたら、どうなるかしら?」
「どうなるって……他の物質が結合できなくなる、つまり競合的拮抗が起きますが……」
そこで、氷室の言葉がピタリと止まった。
彼の視線が、虚空を泳ぐ。何か恐ろしい計算式に気づいてしまったかのように。
その沈黙を破ったのは、腕組みをしていた轟だった。
「……電子戦か」
「えっ? ジャミングって、あの妨害電波ですか?」七海悠太が素っ頓狂な声を上げる。
「ああ」轟は険しい顔つきで頷いた。「ミサイルやレーダーの誘導を無効化するために、空中にチャフ(金属片)を撒き散らしたり、妨害電波を出して通信を飽和させる戦術がある。烏丸の言う通りなら……」
「ククク、そういうことか!」
御子柴健が、腹の底から湧き上がるような笑い声を上げた。彼は立ち上がり、ホワイトボードに乱暴に脳のイラストと、そこへ向かう波線を書き殴った。
「氷室、お前さっき言ったよな。あの『空間除菌システム』は、俺たちのシナプスを直接書き換えるための波長……いや、それだけじゃない。微小なナノマシンか、それに類する神経干渉物質を『綺麗な空気』と一緒に散布しているんだ!」
「なっ……神経干渉物質!?」
「そうだ! 政府は、俺たちの脳の『アセチルコリン受容体』をターゲットにして、外部から直接命令をダウンロードさせるための物質を空気中にばら撒いている。だが、そこに立ちはだかる厄介なバグがあった」
御子柴は、ホワイトボードの脳を覆うように、黒いマーカーでモクモクとした煙の絵を描き足した。
「ニコチンだ! 煙草を吸う人間の脳内では、受容体にニコチンがガッチリと結合して『蓋』をしている! だから、政府がどれだけ高濃度の洗脳用ナノマシンを吸わせようとしても、受信機である受容体が埋まっているから弾かれちまうんだよ!!」
「そ、そんな馬鹿な……人間の脳をハッキングするナノダストなんて、現在の技術で……」
氷室が震える手でタブレットを操作し、猛烈な勢いで検索をかけ始める。
「さらに、吐き出された『煙』の粒子そのものが、物理的なチャフ(妨害兵器)として機能しているんだ」轟が立ち上がり、巨体を揺らして力説する。「煙草の煙は微小粒子だ。それが会議室やオフィスに充満していると、空間除菌システムが散布するナノマシンと空中で衝突し、結合して床に落ちてしまう。つまり、喫煙所とは、最新鋭の洗脳兵器が一切通用しない『絶対防空圏』だったというわけだ!」
「その通りよ」
烏丸が妖艶に微笑む。「古来のシャーマンが、悪霊から身を守るために煙を燻らせたように。現代の経営者たちもまた、無意識のうちにニコチンと紫煙という『結界』を張り、システムからのハッキングを防いでいたの。彼らが独創的で、時に狂気じみた決断を下せるのは、政府の用意した『常識という名のプログラム』から完全に切断されているからよ」
「……あ、ありました」
氷室の掠れた声が、会議室に響いた。
全員の視線が、氷室の青ざめた顔に突き刺さる。彼はモニターに、ある特許庁のデータベースを映し出した。
「デジタル庁と厚労省が共同出資している、例の空間除菌システムの開発元……『日本環境浄化機構』の隠し特許です。技術名は……『合成アセチルコリン模倣型・空間浮遊式スマートダスト』……!! 主用途は、『特定周波数による集団のストレス値の均一化と、攻撃性の抑制』……ッ!」
氷室の言葉に、密室の温度が急激に下がったように感じられた。
「ストレス値の均一化だと?」御子柴がギリッと歯を鳴らす。「綺麗な言葉を使いやがって。要は、怒りや反骨心といったノイズを消し去り、全員を同じ思考回路を持った『従順な働き蜂』に書き換えるってことじゃねえか!」
「……っ!! じゃ、じゃあ……!」
七海が、ガタガタと震える足で立ち上がった。彼の顔には、かつてないほどの恐怖が張り付いている。
「世間で『煙草を吸う経営者は頭が悪い』って言われてるのは……」
「ああ」御子柴が、死刑宣告を下すように重々しく頷いた。「『結界』の存在に気づかせないまま、奴らに自ら武器を捨てさせるためだ。煙草を吸うのは恥ずかしいことだ、愚かなことだと思い込ませ、禁煙外来に送り込み、ニコチンを完全に抜く。そして、無防備になった脳髄に、除菌システムから直接『政府の意志』をダウンロードさせる」
「全国の企業トップの脳を、一つの巨大なネットワークに接続するつもりか……!」轟が呻くように言った。
「全企業の意思決定権が、たった一つの『管理者』に握られる。市場も、経済も、福祉も、全ての決定が政府の思い通りになる……完全なる、一億総ハッキング社会の完成だ!!」
御子柴の咆哮が、壁に反響する。
巨大モニターに映し出された、無数の「代表取締役:非喫煙者」という求人データの文字。それはもはや、単なる募集要項ではなく、脳を書き換えられた『完了者』たちの不気味なリストにしか見えなかった。
七海は両手で頭を抱え込み、絶望に満ちた声を張り上げた。
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
悲鳴のようなその声すらも、無機質な空気清浄機は「シュン……」という静かな駆動音と共に、冷たく吸い込んでいった。




