■第2話:見えない包囲網、仕組まれた市場淘汰
「……洗脳、ですか。御子柴さん、流石に飛躍が過ぎる。オカルトを通り越してSFだ」
氷室司が、床に落としたタッチペンを拾い上げながら、震える声で吐き捨てた。しかし、その指先は依然として小刻みに震えている。彼が提示したデータと、御子柴の「洗脳電磁波」説が、あまりにも残酷な精度で合致してしまったからだ。
「SFだと? 氷室、お前がさっき言った『市場の淘汰』って言葉、そいつを物理的な軍事用語に置き換えてみろ」
御子柴はパイプ椅子を蹴るようにして座り直し、轟大吾に視線を送った。轟は腕組みをしたまま、重苦しく口を開く。
「……『経済的封鎖』、あるいは『兵站の遮断』だ。もし御子柴の言う通り、煙草の煙が政府のコントロールを阻害するノイズだとするならば、政府にとって喫煙経営者は『制御不能な独立勢力』に等しい。軍事的な定石で言えば、真っ先に無力化すべき対象だ」
「無力化って……そんな、おじさんの会社は普通に求人を出して、普通に福祉サービスをやってるだけですよ!」
七海悠太が叫ぶように言った。
「求人? ああ、そこが最初の罠だ。いいか七海、最近の求人倍率の偏り、特にお前のおじさんがやってるような札幌の介護事業所や福祉サービスの現場で、何が起きているか知ってるか?」
轟がモニターを指し示す。そこには、2029年度の業種別採用成功率のデータが映し出されていた。
「見てみろ。非喫煙者が代表を務める事業所には、政府の『就業支援AI』から優先的に“優秀で従順な”人材が送り込まれる。逆に、経営者が喫煙者であるというだけで、アルゴリズムはその事業所を『ブラック企業』あるいは『ガバナンス欠如』としてスコアを下げ、検索順位の最下層に沈める。これは単なるイメージ戦略じゃない。物理的な『人材の兵糧攻め』だ」
「……確かに」氷室が、自身のタブレットから別の資料を引っ張り出した。「最近、札幌市内の地銀や信用金庫の間で、融資判断の基準に『健康経営スコア』という項目が密かに追加されています。その中で最も減点幅が大きいのが『代表者の喫煙習慣』。実態がどれほど健全でも、煙草を吸っているという一点だけで、運転資金の蛇口を締められる」
「待ってくださいよ! それじゃあ、まるで……」
「ああ、見えない包囲網だ」御子柴が七海の言葉を奪った。「いいか、これは『頭が悪いから潰れる』んじゃない。『潰すように社会のOSが書き換えられている』んだよ! 融資を止め、人材を奪い、コンプライアンスという名の踏み絵を迫る。そして、資金繰りに窮した経営者が最後に頼るのは何だ? 政府系の救済コンサルや、デジタル庁主導の経営統合プログラムだろう?」
「そこで……完全に『去勢』されるわけね」
烏丸玲奈が、楽しげに目を細めた。彼女は長机の上に置かれたミネラルウォーターのボトルを見つめ、指先でその表面をなぞる。
「政府のプログラムを受け入れた経営者は、オフィスに例の『空間除菌システム』をフル稼働させることを義務付けられる。そして、彼らの脳はクリーンな空気と共に、従順な子羊へと書き換えられていく。……ねえ、氷室さん。その『更生』した経営者たちの、その後のデータはあるかしら?」
氷室は無言で画面を切り替えた。
「……統合プログラム後の経営者の再犯率、いえ、再喫煙率はゼロ。それどころか、かつての独創的な経営判断は影を潜め、一様に『地域社会との調和』や『政府方針への完全準拠』を口にするようになっています。業績は……安定していますが、成長曲線は完全にフラット。まるで見えないレールの上を走らされているようです」
「それだ。それが奴らの狙いだ」
御子柴が立ち上がり、ホワイトボードに大きく「2029」と書き殴った。
「2029年、日本は空前の人手不足と経済危機に直面している。政府にとって一番の不安要素は、予測不能な動きをする『強い経営者』なんだよ。だから、煙草という防壁を持つ連中を『知能が低い』とレッテル貼りして排除し、社会全体を思考停止したシステムの一部に組み込もうとしている。これは国家規模の『家畜化計画』なんだよ!」
「な、何だって言うんだァァァーーーッ!?」
七海の絶叫が会議室に響き渡る。
「でも、御子柴さん……もしそれが本当なら、どうしてそこまでして『経営者』を狙うんですか? 一般の労働者だって煙草を吸う人はいるでしょう?」
七海の素朴な疑問に、答えたのは轟だった。
「指揮官を叩くのが戦術の基本だからだ。トップの脳さえ書き換えれば、その下にある組織全体をコントロール下に置ける。特に介護や福祉のような、地域に根ざした多人数のスタッフを抱える組織の長が『ノイズ』を撒き散らしているのは、支配者層にとって極めて都合が悪い」
「……さらに、もう一つ理由があるわ」
烏丸が、ふっと視線を上げた。その瞳には、窓のない会議室の壁を通り越して、もっと遠くの何かを見ているような不気味な光が宿っていた。
「煙草を吸うという行為は、極めて個人的で、非生産的な『空白の時間』を生むでしょう? 現代のデジタル社会において、何も接続されない、誰にも邪魔されない5分間……。その『空白』こそが、彼らのシステムが最も侵入できない聖域なのよ。政府はその聖域そのものを、この日本から消し去ろうとしている……」
「聖域……?」
「ククク、烏丸の言う通りだ。氷室、お前が信奉するその『データ』ってやつが、いかに血の通わない偽物か、そろそろ理解できたか?」
御子柴の挑発に、氷室は悔しそうに唇を噛んだ。しかし、次の瞬間、氷室のタブレットが鋭いアラート音を鳴らした。
「……! 御子柴さん、妙なニュースが入りました。本日14時、札幌市内の大手福祉法人の代表が、記者会見で『全事業所からの煙草の完全排除』と……『空間除菌システムの全室導入』を同時発表しました」
「来たか……」
「その代表、昨日までは『役員室が煙で真っ白になるほどのヘビースモーカー』として有名だった男です。それが、会見ではまるで別人のような……憑き物が落ちたような笑顔で話しています」
会議室に、冷たい沈黙が流れた。
空気清浄機のフィルターが、何かを捕らえたように「シュン」と音を立てる。
「……奴ら、動くのが早すぎる。七海、お前のおじさんの事業所も危ないぞ」
御子柴の言葉に、七海は顔を伏せ、震える拳を握りしめた。
「……そんなの、絶対に間違ってる。おじさんは、あんなに一生懸命、利用者さんのことを考えて……。煙草を吸いながら『次はどんなサービスが必要かな』って、いつも悩んでたのに……!」
「いいぜ、その怒り。それこそが、奴らが一番恐れている『ノイズ』だ」
御子柴は不敵な笑みを浮かべ、巨大モニターに映し出された札幌の地図を睨みつけた。
「第2段階だ。氷室、その会見をした法人のバックにいるコンサル会社を洗え。轟、例の除菌システムを製造している工場の物流ルートを特定しろ。烏丸、……奴らの波長を逆探知する方法を考えろ」
「了解……」
それぞれの思惑が交錯する中、密室の議論はさらなる深淵へと加速していく。国家が仕掛けた「市場淘汰」という名の包囲網。その真の目的は、単なるマインドコントロールに留まるものではなかった。




