097)不器用
私達は階段で五階へ向かった。
「いつから仕事に戻るの?」
「一ヶ月くらいは休むつもり」
「次も、長い業務になる?」
そうなったら、しばらく会えなくなる。
「もう、潜入はしてないんだ。潜入にはアンドロイドが派遣されるようになったから。近年は、単発の業務ばかり」
「いろんな場所へ行ってるんだね」
「それはそれで、適応が追い付かなくて大変なんだけど。それも含めて、楽しんでる」
ソラを遠く感じて、寂しさを覚えた。私との歳の差に近い年月、ソラは私の知らない世界を見てきた。
ソラといる資格、私にあるのかな。
そんなことを思いながら、事件の起こった部屋へ入った。
消えずに残っている灯油の臭いが、あの日の記憶を呼び起こす。切なくて、狂おしいほどの、胸の痛みが私を襲った。
「ソラは……。クリティネのこと、吹っ切れたって言ったの、本心じゃ無かったんだね」
ソラが驚いた顔で私を振り返った。
「あの時、クリティネのためなら、自分はどうなっても構わないって、思ったんでしょ」
私の顔は息苦しさで腫れ上がっているかもしれない。だけど、聞かずにはいられなかった。
ソラは静かな瞳で私を見ている。そのまま何も言わないつもりなのかと、不安になった頃、ゆっくりと口を開いた。
「何をどう伝えたら、紬生に僕の気持ちを分かってもらえるか、ずっと考えてた。見舞いに来てくれても、よそよそしくて。きっと、怒ってるって思ってた」
そう言われて、自分の抱えている感情の種類に気付かされた。
「うん。すっごく怒ってる」
「あの時は、勝手に身体が動いてた。クリティネと言うよりも、あの父娘に対して、僕は真剣になってたんだと思う。宙香へ誤解を与えたのは、僕の行いが原因だし。何とか、あの子の気持ちを止めたかったんだ」
恥ずかしそうに、ソラは首筋を掻いた。
「あの時、あんなことを言ったのは、あの人を庇った自分が信じられなくて。何と言うか、反射的に思い付いた後付けみたいなものなんだ」
ソラは、てへへという感じの視線を向けてきた。
「何よそれ!」
憤慨した私はソラの胸を拳で叩いた。
「どれほど私がショックを受けたか、ソラは想像もしてないでしょ!」
そう言って何度も叩いた。
「ごめん」
どれだけ強く叩いても、ソラはびくともしないで受け止めていた。
「ソラがいなくなったら私……。私……」
瞳の熱くなった私を、ソラがぎゅっと抱き締めてきた。
「ごめん。もう、あんな無茶は、紬生のためにしかしない」
「私のためでも、しないで!」
「う~ん。それは約束できない」
そんなの駄目! と言おうとした私の唇は、ソラの唇で塞がれてしまった。
「好きだよ。ずっと、紬生と生きていきたい」
私達はもう一度キスをした。
至聖所の隅にある代表の執務机の引き出しへ、私は鍵を差し入れた。今日、ソラとこの部屋へ来たのはこのためだった。
鍵は数日前、ソラの病室に顔を見せた波江野さんから預かっていた。代表からソラへ、渡したい物が引き出しに入っていると聞いている。
三段の一番下の引き出しを開けると、分厚い茶色の封筒が入っていた。中身は現金で、一千万は入っているようだった。
「こんなことだろうと思ったよ」
落胆した笑みをソラが浮かべた。
私ももっと、心の通う何かを期待していた。例えば手紙とか。
代表という人は、こういった方法でしか気持ちを示せない人なんだ。
「ん? この箱は?」
現金の入った封筒を持ち上げたソラが声を上げた。
見ると、A4用紙より一回り大きいくらいの木箱が、引き出しの底に置いてあった。大きさは違うけど、黄金のオリーブの実を入れていたのと同じ質感の箱だ。蓋には付箋が張り付けてあった。
『荷物を整理していたら、大切に保管されているのを見付けました。波江野』
二センチほどの厚みの箱を取り出し、机の上で蓋を開けてみると、中にはA4サイズの写真が入っていた。
粘土型に残された小さい手型と足型、赤ちゃんの写真が収められた額が写っている。額の中に記された日付は、ソラの誕生日だった。
「これ、僕の……」
きっと離婚する時、額そのものは持って行けなかったのではないか。だから、せめてと、代表は写真に収めた。
それをわざわざ引き伸ばして、黄金のオリーブの実と同じくらい大切に保管していた。
何て不器用な人なんだろう。
ソラと私は充血した瞳で笑い合った。




