081)過去の事実
「あの時、ミノタウロスに襲われて、私は四、五時間ほど意識を失っていました」
「そんなに?!」
心配する私をどこか他人事のように、ソラは聞き流した。
「夢の中、……だと思うのですが、あるビジョンを見ました。紬生さんがそこにいました」
「私?」
ソラが何を言おうとしているのか、全く予想ができなかった。
「紬生さんの信じる教団の教祖が……」
ソラは首を振りながら顔をしかめた。
「面倒なので、あの男と言います」
私は黙って頷いた。
「あの男の身体から血が流れていて。どこかの床に倒れていました。私はそれを、上のほうから覗き込んでいました。私の真下くらいの位置に、幼い、多分、中学生くらいの紬生さんが立っていて、私を見上げていました」
私は目を見開いて、あっと声を上げた。
「それは、私の記憶と同じだわ!」
言ってしまってから、重大さに気が付いて顔が硬直した。
「どういうことですか?」
急いで首を振って、私は押し黙った。
「記憶があるんですね。私を見たんですか?」
俯いた私の肩をソラが掴んだ。
「話してください。ちゃんと知りたいんです」
私は再び首を振った。
「ソラかどうか、思い出せない」
あの時の男の顔を思い出そうとすると、いつも霞がかかったようになる。
「紬生さんの知ってることを話してくれませんか」
懇願するように、私の顔を覗き込んでくるソラ。
私は唾を飲み込んだ。
「代表が落ちて来るところを見た。十五の時だった。代表が落ちて来たほうを見上げたら、そこに……」
「そこに、私がいたんですね」
私は何度も首を振った。
「分からない。ソラじゃない」
ソラが代表を突き落としたなんて思いたくないし、信じられない。
だけど、本人の口から聞いてしまった。あの男がソラだということは間違いのない事実。きっと、気を失っている間に、未来のビジョンを見たんだ。
ソラが代表を突き落とした、私はその目撃者だった。
分かってしまったのに、私は否定し続けた。
「違う、ソラじゃない。ソラはそんなこと、しないでしょう?」
今度は、懇願する気持ちの私がソラを仰ぎ見た。
私の瞳を避けるようにして、ソラは深い息を吐き出した。
「紬生さんが十五歳だとすると、私は二十二歳。ちょうど、今の任期が明ける頃です」
言い終えて、ソラは半ば呆然とした。
「あいつを突き落とす、ですか。私なら、やり兼ねませんね」
「嘘よ。嫌だ、そんな冗談言わないで」
私は半泣きになってソラの腕を掴んだ。
「あれは夢なの。ソラも私と同じ夢を見たのよ」
その証拠に、代表は頭から血を流してたのに、後遺症も残らず生きてる。
しばらくしてソラは、心を決めたような瞳を私へ向けた。
「紬生さんにとってそれは、紛れもない過去の事実。過去は変えられないし、変わらない」
「そんな! 諦めないで! 私にとっては過去かもしれないけど。ソラにしたら、まだ起こってもいない、未来のことじゃない!」
「あの男だけは、どうしても許せないんです」
あの時の、覚悟を決めたような男の瞳がソラの瞳と重なった。
「違う。ソラは誤解してる」
クリティネとアリネの秘密を話すことになっても、この際、ソラに事実を打ち明けようと思った。
だけど……。
喉まで出かかった言葉を、私は急いで飲み込んだ。
クリティネが代表を想っていることを知ったら、何だそうだったのか、めでたしめでたしと、ソラはなるだろうか。そうはならない。
むしろ、ソラが嫉妬に駆られて、代表を突き落とすシナリオもあると閃いてしまった。
「誤解ですか?」
「あ、えっと……。そ、そんなことで、ソラの気が晴れるとは思えない。きっと、もっと苦しむ」
ソラは俯いて黙り込んだ。
「すみませんでした」
やっと口を開いたソラは無理に笑顔を見せた。
「紬生さんを心配させるようなことを言ってしまいました。どうかしてました。大丈夫です。あんな男のために、この先の人生まで、台無しにしたくないですから」
「本当に?」
「私を信じてください」
信じると言いたいのに、喉が締め付けられて言えなかった。だってソラ自身が、自分を信じていないのが伝わってくる。
そんな私を見て笑う、ソラの身体が小さくて弱々しく見えた。




