078)自己犠牲 1
アリネは目を覚まさなかった。
大丈夫だと言っていたクリティネの表情にも陰りが浮かんでいた。
私は一人、アリネの横で胡座を組んだ。瞳を閉じて、波の音に神経を集中する。
黄金のオリーブの実を返す……。
アリネの意識へ到達するには、黄金のオリーブの実を返すことを思い浮かべれば良いと、クリティネに言われている。
ゆっくりと、長く息を吐く。
自分の中に宿る黄金のオリーブの実の感触を探り寄せ、イメージを浮き上がらせる。
それに触れたと思った瞬間、私の意識は宇宙空間のような闇へ翔んだ。
きっとこの闇の中にアリネはいる。真っ暗で、正直言うと怖かったけど、アリネを捜すことに集中する内に、恐れも忘れていった。
少し離れた場所に、水滴のようなものが浮かんでいるのを捉えた。
近付いて行くと、丸い水の中にアリネの身体が浮かんでいた。アリネは目蓋を閉じ、母親の体内で羊水に浮かぶ胎児のような格好をしている。
いた。良かった。
アリネ、アリネ!
水の表面を叩いても反応がない。もう一度呼びかけてみた。
「放っておいて」
口は動いていない。音としてはクレタ島の言語で返ってきた。
意味が理解できるのは、ここがアリネの意識の中だということ。私がアリネの意識と同化しているからだと思う。
迎えに来たの。一緒に戻ろう。
「もう、そっちへは戻らない」
どうして?
「ここにいるほうが楽なの」
その音と共に、アリネの記憶がアリネの感情と共に押し寄せてきた。
『これはあなた達のため。お前になら、その意味が分かるだろう』
『嫌だ。クリティネと一緒にいたい。私達を引き離さないで。巫女様!』
石の扉が重い音を立てて閉じられていく。細くなっていく光をただ黙って見つめる。やがて、完全な暗闇が訪れ、希望が絶たれた。
巫女王になるための孤独で苦しい修行の日々。厳しい先代の巫女王。
その日々の中で、アリネが拠り所にしていたのはクリティネの存在だった。クリティネに会いたいという切望にも近い想いが、アリネのモチベーションを保っていた。
巫女王として開眼した日、久し振りにクリティネと会えた。クリティネはまだ幼く、ただ大好きな妹に会えたという感じで、嬉しそうに接っしてきた。
以前と何も変わらないクリティネが、アリネにとってどれほど救いだったかが伝わってくる。アリネの心が温かいもので満たされていく。
それに混じって、自分はもういい、クリティネさえ幸せになってくれれば、という気持ちがアリネに芽生えた。
アリネにとって、クリティネはもう一人の自分。自分が辛い分、クリティネが幸せならそれでいい。
不自由さを押し付けられて育ったアリネには、そんな極端な構図を描く心が出来上がっていった。
アリネの神託をクリティネが人々へ届ける日々が始まる。二人三脚で巫女王を行うのはそれなりに充実していた。
それでもアリネには、クリティネが抱える罪悪感も見えていた。クリティネから、二人で巫女王から解放されようと言われて、決意を固めるアリネ。
パロス島の王子に身を任せる覚悟はできていた。それなのに、いざとなるとパニックになり、クリティネに念のようなものを翔ばしてしまった。
直後、ソラに殴られて気を失った代表の意識が、アリネの所へ翔んできた。
『あなたの望みを叶えてあげる。だから、私の望みを聞いて』
代表に黄金のオリーブの実を託すアリネ。
『九ヶ月後、この実を返しに来て。クリティネは、ずっとあなたを待っている』
代表はぼんやりとした表情のまま、彼方へ消えて行った。
「私の役目は終わった。次代の巫女王は生まれた。私が戻らなくても、世界は回る」
その考えは昔の私と重なって、はっとした。
自分が何を思っているのか、何をしたいのかを主張しなくても、つまりは私がいなくても、普通に物事は進んで行く。
でもそれは無理に蓋をして、自分の気持ちを押し殺していたからそう見えただけ。
本当は嫌だった。納得がいっていなかった。違うと声を張り上げたかった。
私は静かにアリネに問いかけた。




