070)戦意喪失
ミノタウロスがちゃんと追って来ているかを目視するため、速度を上げる前に振り返った私は愕然とした。
いない……。
ミノタウロスの姿がどこにも無い。ホテルへ戻ったにしても早すぎる。
足取りが緩んだ私の視界の端を、何かが横切った。
そちらを見ると、ミノタウロスはすぐ横の民家の上にいた。日干しレンガの壁の最上部で私を見下ろしている。
呆気に取られている内に、飛び降りてきたミノタウロスは、私の行く手を阻むように立ちはだかった。
来た道を戻れない私は、目に入った細い路地へと走った。
低い唸り声が私を追って来る。
南へ行きたい思いも虚しく、路地は東に向かって延びていた。
路地を抜けた先は、初めて訪れる場所だった。畑が広がっている。宮殿が遠くなっていた。
何とか、宮殿まであいつを引き連れて行かないと。
宮殿の方角へと畦道を進んだ私に、畑を踏み荒らしながら追いつき追い越すと、ミノタウロスは私の数步先へ躍り出た。
きゃっと反射的に声を出した私は、迷う間も無く反対方向へ逃げた。畑を抜け、家屋が並んでいる通りへ入った。
宮殿からどんどん離れていってる。どうしよう。
焦りから不安が押し寄せてきていた。だけど、足を止めるわけにはいかない。
見知らぬ街並みの中を、ミノタウロスに追い立てられるがまま、私は逃げ彷徨った。気が付いた時には、海の近くまで来ていた。
波の音と、慣れ親しんだ潮の香りがする。
浜辺へ行けば、漁師がいるかも。
そう閃いた私の足取りが確かになった。
迷いなく海のほうへ進もうとした時、唸り声が猛烈な勢いで近付いてきた。
振り向くと、触れられそうな距離にミノタウロスの顔があった。
「ぎゃっ!」
叫ぶのと、踵を返して逃げたのはほとんど同時だった。
なのに、一瞬で私はミノタウロスに捉えられ、抱き抱えられていた。
「離して! 離してよ!」
暴れる私の上半身を肩で担ぎ直し、それまでは全力を出していなかったことを示すかのようなスピードで、ミノタウロスは走り始めた。
通り過ぎる家々が、物凄い速さで遠ざかる。
口を閉じていないと舌を噛みそうだった。両足はミノタウロスの胸の前で、がっしりと固定されていて動かせない。
民家が途切れ、オリーブの林に入ってしばらくすると、ミノタウロスは私を抱えたまま飛び上がった。
不本意ながら、しがみ付いた私が息を呑んでいる間に、ミノタウロスは石積みの塀の上に着地した後、塀の内側へと飛び降りた。
飛び越えた塀は、私のちょうど目線の高さで、左右にずっと続いている。塀の向こうから飛び乗った時は、もっと高く感じたから、塀の内と外で、高低差があるのかもしれない。
ミノタウロスは大事なモノを扱うように、ゆくっりと私の足を地面へ置いた。
そして私から離れると、唸りながら同じ場所をうろうろしたり、ぐるぐる回ったりを繰り返している。
どういう事態になったのか分からないけど、ミノタウロスが戦意を喪失しているのは分かった。
気持ちが少し落ち着いた私は、辺りに意識を向けた。
五十メートルほど離れた所に石造りの建物が見える。クノッソス宮殿とまでは言わないけど、宮殿と同じような太い柱が並んだ大きな屋敷だ。
私と建物の間には、色とりどりの花が咲き乱れ、その上を黄色い蝶が飛び交っている。
近くを飛んでいた群れが、私の周りでひらひらと舞い始めた。まるで、佇んでいる私に話しかけているみたい。
建物の柱と柱の間に垂らされた薄い布が揺れて、女の人が姿を見せた。私を認めると、しずしずと上品な足捌きで近付いて来る。
見覚えのある女性。クリティネと入れ替わっている時に、水を用意してくれた侍女だった。




