061)魂の格
「紬生さんには、鍵付きの部屋へ移ってもらいます。出発までの間、可能な限り、この木箱と一緒に過ごしてください」
そう言われて、あの狭い部屋へ荷物を取りに行った。部屋へ入り、扉が閉まる音を聞いたと同時に、身体が凍り付いた。
ママが私を見上げて微笑んでいる。ベッドから腰を上げて近付いてくる間も、固まった身体をどうすることもできなかった。
ふわっと、ママが私を抱き締めてきた。
こんな風に優しく抱き締められたのは、いつ以来だろう。もしかしたら、初めてかもしれない。なのに、何の感動も無かった。
「どうして、ここにいるの?」
「そんな怖い顔して、どうしたのよ」
「どうしてここにいるのか、聞いてるの」
「紬生に会いに来たのよ。決まってるじゃない。長旅ご苦労様。向こうでの儀式も、成功させたんだってね。詩葉ちゃんに聞いたわ。紬生にしては上出来じゃない。頑張ったのね」
紬生にしては……。
私は無言でママから離れた。
『あんたの育て方を間違った』
これまでママが、私への評価として浴びせてきた言葉はそれだった。
ママの言うことに逆らったり、教団の教えからズレた言動をしたりするたびに、そうやって罵倒されてきた。
ママの思考には常に、教団の教義のフィルターがかかっている。ママ自らの意思で主張される意見はほとんど無い。
例えば、私が桃を食べたいと思ったとする。だけどママは、代表からリンゴを私へ与えるように言われた。
そうなってしまうと、私がどんなに桃が食べたいと訴えようが、桃の良いところをプレゼンしようが、今日だけお願いを聞いてと懇願しようが、ママは耳を貸さない。
ママには代表や教団の言葉が全てで、自分の娘の気持ちより大切なのだ。母娘の会話どころか、人間同士としての会話も成り立たない。
親の説得に成功したクラスメイトが、やりたいことを自由にやっている様を見るたびに、私は切ない思いをしてきた。
ママの意思なら説得も可能かもしれない。だけど、そもそもママの意思でないものを、どうやって説得したらいいの? 納得させるなんて不可能。
支配されたり傷付けられたりして育った子供は、自分は力の無い人間だと思い込むと、心理学の本に書いてあった。無力感を習得してしまっている状態なんだとか。
私の場合は無力というより、自分を肯定することに罪悪感を覚える。
今もそう。
紬生にしては頑張ったと言われると、牡牛を跳び越えた時の感動も、達成感も、私には分不相応に思えてくる。
大切な根っこの部分で自信が揺らぐ。
ママは、私の自信を完封する使命を与えられて生まれてきた人。本気でそう思う。
ママにとって、私は失敗作。失敗作の使い道は、自分のお供をさせることだけ。
私がどんな風に感じるとか、違う考えを持っているとか、ママはきっと気にもしていない。
ママがいる限り、私の人生に自由な選択肢は無いと、娘が嘆いていることなんて知りもしないんだ。
私はもう、今までのように嘆いているだけの人生は嫌。
口を噤んだまま、私は荷物をまとめ始めた。
「どこかへ行くの?」
干してあった下着を急いでボストンバッグへしまう。
「ねえ、紬生。何とか言いなさい」
「ママには関係ない」
「帰るつもり? ここから出てはダメだと言われてるんでしょ。止めなさい」
私を止めようとしたママの手を振り払った。
「離して! 特別な儀式を受けた私と、一般信者のママとでは、魂の格が違うの。今後一切、私に指図しないで!」
考えたこともなかったフレーズが、口からスラスラと出た。魂の格が違うだなんて言葉、意識の表層に初めて浮かんだ。
発した自分に、私自身が一番引いていた。ママに対する憎しみが、こんなにも歪んだ表現で、自分の中に潜んでいたなんて。
青ざめた顔で、ママは二、三歩よろめきながら後退った。
私はバッグを掴むと、ママから逃げるようにして部屋から走り去った。
ママを黙らせてやった。それなのに、スカッとしたとは、どうしても思えない。
次に用意された十二畳ほどの広い部屋で、自己嫌悪に苛まれ、私は一人、ベッドで打ちひしがれた。




