055)牡牛を……!
紀元前一八二八年 クレタ島、二十九日目。
チャレンジできる最後の儀式の日は、クレタ島で過ごす最終日でもあった。
成功してもしなくても、今夜には未来へ戻ることが決まっている。最初で最後の挑戦だ。
「牡牛と呼吸を合わせるんです。いいですね、訓練通りに。紬生さんならできる」
ソラと瞳を合わせ、私は素直に頷いた。
今日この時のために、やれることは全部やってきたという自信がある。訓練では牡牛も跳べるようになっていた。
私にはできる。
こんな風に自分のことを信頼できる日が来るなんて、旅に出る前は思ってもいなかった。この場所に私を立たせてくれた、全ての出来事に感謝していた。
宙香とハグを交わし、儀式場へ降り立った私に、人々から励ましの拍手が贈られてくる。
目をつむり、大きく深呼吸。
観覧席の喧騒が、嘘のように気にならない。私は静かな気持ちで、牡牛が現れるのを待った。
牛舎の入口で、神官が旗を振るのが見えた。開放の合図だ。
牡牛は飛び出すように姿を見せるや否や、鋭い眼光と角を私へ目掛け、向かって来た。
跳んでやる。
私は唾を呑み込んだ。
そのあとは、どうやって身体を動かしたのか思い出せない。
何となく跳んでいた記憶はある。
両手で広場の土を捉えて、自然に身体が前に転がった時、観覧者達の口笛や歓声が耳に届いた。
成功した!
私、やってのけたんだ!
喉から、歓喜の叫びが溢れた。
立ち上がって、両手を振りながら大きくジャンプした私へ、大勢の人達の熱い拍手が送られてくる。
クリティネの座っているほうを振り返ると、クリティネはわざわざ腰を上げ、錫杖を空へ掲げて見せてくれた。
幸せだった。達成感の伴った、生きているという感覚。
何て、気持ちいいんだろう!
高揚した気持ちでソラの所へ駆け寄って行った私は、そのままソラに抱き付いてしまった。恥ずかしいとか、何か言われるとか、そんなことは頭から吹き飛んでいた。自分の衝動を止めることが出来なかった。
「ありがとう、ソラ。あなたのお陰!」
「おめでとう、紬生。よく頑張ったね」
ソラは、そっと私の背中を支えながら、耳元で囁くように言った。
私は驚いて、ソラの顔を見上げた。ソラが私を呼び捨てにしたのは、あの時以来。
「紬生さんが、挫けなかったから。成功したんですよ」
口元に笑みを浮かべてから、改めてそう言い、ソラは私から離れて行った。
紬生。
そう呼ばれるのが、とても懐かしく感じて、ぼんやりしている内に、ソラは次に挑む舘谷さんと話し初めていた。
もう少しソラと、この気持ちを共有したかった。
代わりと言っては申し訳ないけど、宙香が私を抱き締めてくれた。
「おめでとう、紬生!」
「ありがとう!」
私も力いっぱい宙香を抱き締めた。
このふわふわした気持ちは、しばらく収まりそうにない。
そう感じていた私を一気に現実へ引き戻す出来事が、その直後に起こった。




