045)大岩
「あの日。『牡牛跳び』の儀式場で、初めてウザクを見た」
代表が神託を受け取った日のこと?
クリティネは頷き、ここではない遠くへ眼差しを向けた。
「抱いていた猫が、手から離れて。捕まえようと儀式場へ降りた私を、牡牛が襲った」
『巫女王を救ってしまった』
私はアテンダントの男が言っていたことを思い出して、はっとした。代表はきっと、身を挺してクリティネをかばったんだ。
「ウザクに触れた時、宿命とか、この国の将来のことが、一瞬で些細なことになった」
え?
「運命だとも思った」
クリティネ!
私は言葉を呑み込んだ。クリティネは代表のことを好きになってしまった。でも、その気持ちを誰にも咎めることはできない。
どうしてそんなことを私に伝えるの?
「私は自分の願いを叶えるため。ウザクの願望を利用する」
クリティネの願いって?
「ツムギには見えている。大岩は、放たれたがっている」
オリーブの樹の下で長い時を過ごすことを、大岩は望んでいただろうか。神聖な存在になることを、大岩は夢見たりしただろうか。
御神体を初めて間近で見た時、私はそう思った。
クリティネは自分を、がんじがらめにされている大岩に例えているんだ。
クリティネは代表を待っているのね。
クリティネの瞳に、覚悟が宿っているのが伝わってくる。
代表とクリティネが再会して、どんなドラマが繰り広げられるのかは分からない。だけど、現代で、代表が歳を重ねているのを知っている私は、クリティネに何と言えばいいのか。
クリティネのために、私に何ができる?
「これは私の問題。ツムギが背負わなくていい。ただ、聞いて欲しかった」
知っているのに、何もできないなんて……。
「ここを出たら、ここで私が話したこと。ツムギは全て忘れる」
嫌だ。忘れたくない。クリティネ、ひどい。ソラのことだって……。
「ソラの記憶の封印は、きっかけがあれば解ける」
じゃあ、クリティネと話したことも、いつか思い出せる?
クリティネの表情は何も語ってくれなかった。
その内に、周りの空間がざわつき始めた。まただ。代表の所から引き離された時と同じ。
「ここは、私の意識の中。もうすぐ、形を維持できなくなる。崩壊する」
そう言っている間にも、クリティネの姿がざらざらとしたもので欠けていく。これがクリティネの言う崩壊なんだ、きっと。
待って。もっと話がしたい。
「ツムギの怪我。私なら早く治せる。身体を預けて……」
また、会えるってこと? 今度、私はどこへ行くの?
「もう、ツムギはそこにいる」
そう言うクリティネの姿は既に見えず、声しか聞こえなかった。




