037)牡牛を跳びたい
「宙香!」
私は後ろ姿に向かって叫んだ。立ち止まり、振り向いた宙香に走り寄って行った。
「何?」
何の感情も持たない顔で私を見る宙香に戸惑った。疎ましいとか、裏切り者とか、そう言った感情をぶつけてくれたほうが、宙香らしいのに。
「どこへ行くの?」
「いつもの浜辺」
「浜辺に何があるの? 私も一緒に行っていい?」
「別にいいけど。何も無いわよ」
何も無い場所へ、毎日何をしに行くのだろう。
「在斗、成功したね」
「そうだね」
「凄かったね」
「そうだね」
会話が続かなくなった。仲間の奮闘振りに、宙香の気分がもっと高揚していることを期待していたのだけど。
ただ黙々と歩く時が流れ、やがて、潮の音が近付いてきた。
ナツメヤシの林を抜けた先に、青い空の下、透き通る海があった。
「綺麗!」
宙香の存在を忘れて、私はしばらく、遠く水平線まで広がる穏やかな海を眺めた。
自分の時代でも、海へ行ったことが無かった。今までの私の人生は、本当に行動範囲が狭かったと気付かされる。
いろんな所へ行って、いろんな経験をしたい。
初めて、私の中で生まれた気持ちだった。今まで、私はいったい何を怖れていたんだろう。
「宙香、私。牡牛を跳びたい」
隣りに立つ宙香へ、静かに伝えた。
「いいんじゃない?」
どうでもいいと言っているみたいに聞こえた。
「宙香は本当に、儀式を受けないつもりなの?」
宙香は黙って海を見つめている。
「このまま帰国して、代表と顔を合わせても平気?」
遠慮がちに尋ねると、宙香は瞼を伏せた。左手で右腕を抱えて、落とした視線の先をずっと眺めている。
宙香自身も、どうしたらいいのか分からないみたい。
「私に、何か手伝えることないかな?」
私の言葉に、宙香は険しい顔を見せた。
「いったい、何のつもりよ。放っておいてくれない? 私の問題でしょ」
「だって宙香は、私と違うから」
宙香の強い目力を受けても怯まず、私は踏ん張った。
「私は神託で選ばれた訳じゃないから、儀式を受けても、誰のためにも、何の役にもならないって分かってる。だから、牡牛を跳ぶのは自分のため」
宙香はぶすっとして、私から顔を背けた。
「でも宙香は違うでしょ。神様に選ばれてここへ来てる。儀式に挑まずに帰ったら、後悔しない?」
「うるさい……」
ぽつりと言った後、宙香は感情を開放したように叫び出した。
「うるさい、うるさい、うるさい! 紬生に言われなくても分かってる。そんなこと、私が一番分かってるの! もう、放っておいて!」
そして、睨むように林を振り返った。
「ついでに。あそこで待ってるソラに伝えておいて。一人で帰れるから、もう迎えに来ないでって」
ソラ?
私がそちらを見ると、ナツメヤシの陰でソラが立っていた。
「今日は帰る。でも、明日も明後日も、宙香と話をしに来るから」
来なくていいと、宙香は言わなかった。
翌日から、訓練を終えた後に宙香の所へ向かうことにした私。
今日はどんな訓練をしたとか、誰が何をしたとか、宙香が興味を示すことは無くても、話をするのが日課になった。




