023)牡牛を跳ぶということ
紀元前一八二八年 クレタ島、三日目。
私達が訓練場に着いた時には、既に、広場は柵で半分に仕切られていた。木製の柵で、私の肩くらいの高さがありそう。
「あの柵の向こうで、本物の牡牛相手に訓練をやるんです」
牛舎から遠いほうの仕切り側で、準備運動をしている私達に向かって、ソラがさらりと言った。
爆弾を投下されたくらいのインパクトを受けたのは、私だけじゃないと思う。皆一様に絶句している。
ソラはふっと息を吐いた。
「安心してください。皆さんはやりませんから」
今日はね、と口の端で笑いながら付け加えた。
「見学できますよ」
言いながら、ソラは柵のほうへ足早に向かって行く。
そのソラの後を追うように、在斗が駆け出し、他の皆も柵のほうへ向かって歩き始めた。
私はと言うと、近付きたくない気持ちと、見ておかなきゃという気持ちがない交ぜになって、尻込みしている内に一番最後になった。
私の前を宙香が歩いている。
昨夜宙香は、ソラと一緒にホテルへ戻って来た。
ラウンジで待っていた私は、胸を撫で下ろすと同時に、宙香へ笑いかけていたと思う。
だけど宙香は、不愉快だと言わんばかりの表情を隠しもしないで、横を通り過ぎて行ってしまった。
ソラとまた何かあったのかもしれない。そう思ってソラのほうを見ても、ソラの表情からは何も読み取れないまま、今に至っている。
こうして訓練に参加してるのだから、取り敢えずは大丈夫だと思って放っておこう。どうせ、私が宙香の心配をしたって、宙香は喜ばないから。
皆が並ぶ一番端で、柵の上部に手をかけて向こう側を覗いた。
一頭の牡牛が牛舎から放たれ、丁度、こちらへ向かって駆け出して来るところだった。
黒い毛並みの大きな牛。鋭く尖った角の先を誇らしげに空へ向け、不機嫌そうに鼻の穴を膨らませている。
そのまま、私のいるほうへ突進してくるように見えて、身体に緊張が走った。
が、牡牛はふいに方向を変え、柵の内側にいた一人の男性のほうへ走り出した。
男性が牡牛に激突されてしまう。
私は息を呑んだ。
しかし、男性はひょいっと、ジャンプした足を広げて、軽々と牡牛を跳び越えた。まるで、手を使わずに、高い跳び箱を跳び越えたみたいな動きだった。
牡牛は目の前から消えた男性のことなど忘れたように、真っ直ぐ走り去って行く。
凄い。
私の横でも、おおっと言う、驚愕と称賛の声が上がる。
牡牛を跳び越えた男性は、儀式を受ける他のグループが連れて来たトレーナーだった。跳び越えた後で、柵の外へ避難してから、何人かを集めて話をしている。
「あれは、無理だろ。俺にはできる気がしないよ」
波江野さんが嘆いた。
私も全く同じ意見だった。
私の顔はきっと、波江野さん以上に悲愴感が漂っているはず。そう思っても、そんな自分の顔を隠す余裕すら無かった。




