011)神話になる前の時代
紀元前一八二八年 クレタ島、二日目。
東の空に広がる朝焼けが目に入った。
太い柱に支えられた開口部の向こう、どこからか、横笛の音が響き渡って来る。ここが異郷の地であることは、間違えようのない事実なのだと、聞き馴染みの無い旋律が、私に教えてくれているようだった。
緩やかなリズムを乗せた風が、私の肩にかかった黒髪をなびかせる。
地中海の東部とエーゲ海の南端に浮かぶ島、クレタ島。紀元前二○○○年頃から都市が栄え、文明が築かれた。
私達は、クレタ文明で栄えた都市の一つであるクノッソスに来た。そして今、入り組んだ内部構造で、未来では、迷宮として名高いクノッソス宮殿にいる。
人の身体で牡牛の頭を持つミノタウロスが閉じ込められていた、古代ギリシャ神話の舞台と言われているクノッソス宮殿。ミノタウロスを倒した英雄テセウスも、糸を辿ってやっと、宮殿から脱出に成功したとされているくらい、複雑な構造をしている。
幾つもの部屋と廊下を通り抜け、既に帰り道が分からなくなっていたけど、前を行くソラが平然とガイドをしているから、私も安心していられた。
「今いるこの宮殿は、残念ながら、現在より百三十年後の、紀元前一七○○年頃に崩壊する運命にあります。宮殿の遺跡は西暦一九○○年に、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズによって発掘されますが、それは崩壊後に建てられる新宮殿の遺構です」
「じゃあ、未来へ戻ってからクノッソスへ行っても、全く違う宮殿が建っているってことですか?」
在斗の問いに、ソラは柱を指差しながら答えた。
「上に行くほど太くなる独特なこの柱は、新宮殿にも引き継がれます。ですが、その他の部分は、残された壁画、彫像などの色彩や構図の痕跡から、僅かに面影を拾うしかありません」
未来でクレタ島へ旅行しても、この宮殿を偲ぶことはできない。
そう聞いても、少しもがっかりしないのは、未来で海外旅行をする自分の姿が思い描けないせいだ。
「私達が入れるのは、一般人にも解放されているエリアだけです。中庭へ行くまでの御祓を兼ねたこのルートは、日本で言うところの、神社の参道のようなものだと考えてください」
「迷路のような参道ね」
詩葉さんが溜め息を吐いた。
「飾ってあるのは、似たような牡牛ばかりだし。目印にもならない」
波江野さんもぼやいた。
波江野さんの言う通り、宮殿内には牡牛の壁画や頭部の彫像がたくさん設えられている。
ソラは壁際に置かれた牡牛の彫像の横に立ち、私達のほうを振り返った。
「クノッソスの人々にとって牡牛は、神のメッセンジャーであり、神の化身なんです。古代ギリシャ神話では、ゼウス神が牡牛の姿で、このクレタ島へ来たエピソードがあります。あれは、牡牛を神と同一視している、ここクレタの文化から着想を得て、古代のギリシャ人が創作したのでしょうね」
ミノタウロスの神話についても同じなのだろう。
古代のギリシャ人は、この迷路のような宮殿を訪れ、牡牛と迷宮をモチーフにして物語を作った。
その神話を生み出した古代ギリシャの国はまだ、この世に存在していない。
私が来たのは、哲学者も数学者も詩人もいない、まだ神話にもなっていない時代なのだ。




