第7話「先生の目と、古い本」
ゼム先生、六十二歳。
二十年この学院で教え続けた男が——
わしに、何を言いたいんじゃろうか。
まあ、聞いてみよう。
放課後は、静かじゃ。
子供らが帰ると、教室から笑い声が消える。
残るのは斜めに差し込む夕陽と、
消えかけた黒板の文字だけじゃ。
わしが荷物を片付けておると——
「少し残れ」
ゼムじゃった。
帰りかけておったエイナとガルが、振り返った。
「二人は先に帰りなさい」
エイナがわしを見た。
心配の色が混じっておる。
「大丈夫じゃ」
「……うん」
二人の足音が廊下を遠ざかって——消えた。
二人きりになった教室は、妙に広く感じた。
ゼムは教卓の前に立って、腕を組んでおった。
六十二年分の皺が、その顔に刻まれておる。
「座れ」
「立っておいてもよいか。
長くかかるようなら」
「……好きにしろ」
珍しく、こだわらなかった。
わしは窓枠に寄りかかった。
校庭の石畳を、夕陽が長く照らしておる。
「お前は——何者だ」
唐突じゃった。
じゃが、想定の範囲内じゃった。
「ヴィンじゃ。魔力ゼロの、六歳」
「それは知っておる」
「では、何を聞きたいんじゃ」
ゼムが、わしをじっと見た。
「どこで、あれだけのことを覚えた」
「旅の途中で」
「——その答えは聞き飽きた」
「本当のことじゃから、他に言いようがない」
ゼムが、ゆっくりと息を吐いた。
「六歳が知っている知識ではない」
「そうかもしれん」
「魔法陣の構造をあの深さで理解できる学者は——
この国に何人いると思う」
「さあ。十人前後か」
「六人だ。わしが知っているだけで」
「ほう。少ないのう」
ゼムの目が細くなった。
「驚かんのか」
「驚くほどのことでもない」
「その六人は全員、三十年以上研究した者たちだ。
お前は——六歳だぞ」
わしは窓の外を見た。
校庭の木が、風に揺れておる。
葉が一枚、ひらりと落ちていった。
一万年前、あの葉にも名前がついておった。
落ちる速度も角度も、今日の風向きも、全部知っておった。
じゃが——こうして眺めると、また違う顔をしおる。
「ヴィン」
「うん」
「お前は——何を目指しておる」
わしは少し考えた。
「暮らすことじゃ」
「暮らす」
「飯を食うて、眠って、明日が来る。
それでいい」
ゼムが、長い沈黙の後に言うた。
「——嘘をついておる」
わしは振り返った。
ゼムの目が、真っ直ぐじゃった。
「お前は何かを——待っておる」
鋭いのう。
全知を持たなくとも——人間には人間の見方がある。
「待っておる、とは?」
「わからん。ただ——お前は何かに向かっておる顔をしている」
わしは少し考えた。
嘘はつきたくない。
かといって、全部話せる話でもない。
「そうかもしれんのう」
「向かっておる先は何だ」
「名前がついておらん」
「名前が?」
「まだ——わからんのじゃ。
何に向かっておるのか、自分でも」
ゼムが、眉を寄せた。
「六歳らしい答えか、
それとも妙に老けた答えか——判断がつかん」
「どちらでもあるのかもしれん」
しばらく、沈黙が続いた。
ゼムが教卓の端に置いてあった本を手に取った。
表紙のない、古い本じゃ。
「これを渡す」
受け取ると——ずっしりと重かった。
「何じゃ、これは」
「魔法理論の書。この国で一番古いものだ。
魔力がなくても——読む分には困らんだろう」
わしは布表紙を開いた。
細かい字で、びっしりと書き込まれておる。
ここかしこに、別の手による書き込みも混じっておった。
「……こんな本が、この村に」
「わしが持っておった」
それだけじゃった。
理由は、言わなかった。
何十年も手放さなかった本を——
ただ、渡した。
「——お前を見ておると」
長い沈黙の後、ゼムが言うた。
「若い頃の、わしを思い出す」
「先生も魔力ゼロじゃったのか」
「違う。魔力はある。……あった」
過去形じゃ。
全知が静かにざわつく。
ゼムの過去が、霧の向こうで動こうとする——が、わしは止めた。
知らんでよい。
聞いてから、知ればいい。
「あった、とは」
「若い頃——使い過ぎた。
池が空になったまま、戻らなかった」
「器が、割れたんじゃ」
「……そうだ」
しばらく、沈黙じゃった。
夕陽が、教室の床に長い影を作っておった。
「じゃから——若い頃のわしに重なるというのは、
少しおかしな話なのじゃが」
わしが言うと、ゼムが口の端を少し動かした。
笑うたのか、苦笑したのか。
「お前は——諦めておらんじゃろう」
「何を」
「魔力がなくても、魔法に向き合うことを」
わしは少し考えた。
「向き合うとも、諦めるとも——思うておらん」
「ではなんだ」
「ただ——面白いんじゃ」
ゼムが、わしを見た。
「魔法が?」
「魔法の理が。
人間が何千年もかけて積み上げてきたものが。
魔力がなくても——理は見える」
ゼムが、ゆっくり椅子に座った。
腰が悪そうじゃ。
じゃが、それは言わない方がよかろう。
「……お前は、不思議な子供だ」
「よく言われるのう」
「何度目だ」
「今日で、五度目じゃ」
帰り道、エイナが待っておった。
「大丈夫だった?」
「うん」
「何を言われたの」
「本をもらった」
「本?」
わしは古い本を見せた。
エイナが興味津々で覗き込んだ。
「すごい……ぎっしり書いてある」
「魔法理論の書らしい」
「なんで先生がくれるの」
「さあ」
エイナが、少し首を傾げた。
それ以上は聞かなかった。
聞かない分別が——
一万年分の知恵でも、なかなか見分けられんものじゃ。
「一万年——」
「また旅の話する気でしょ」
「よくわかるのう」
エイナが、ふふ、と笑った。
ガルが後ろから走ってきた。
「遅いぞ! 何してたんだよ」
「本をもらった」
「魔力ないのに!?」
「魔力がなくても、理は読める」
ガルが「意味わかんない……」と呟きながら、先を歩いた。
夜、マルタの家で本を開いた。
竈の火の明かりで、細かい字を追う。
六歳の目には——少し、きつい。
じゃが、面白かった。
人間が積み上げてきた理の話は、
神が見てきたものとは少し違う。
神は「こうなっている」と知っておった。
人間は「なぜこうなるのか」を、問い続けておった。
その差が——なかなか、深いのう。
「何読んでんだい」
マルタが覗き込んだ。
「ゼム先生にもらった」
「ゼムが?」
マルタが、少し間を置いた。
「……あいつが自分から渡したのかい。
珍しいこともあるもんだ」
「先生を知っておるのか」
「昔からの顔なじみだよ。
若い頃——この辺りに魔物が出てな。
ゼムが一人で退けた。
でも、退けた後に——
もう魔法が使えなくなっておった」
「事故か」
「さあね。本人は何も言わなかった。
誰も聞けなかった。
ただ——村には残って、
子供らに教え続けた」
わしは本を見た。
使えなくなって、それでも残った。
子供らに伝え続けた。
今日、この本を——理由も言わずに、渡した。
人間というのは、行動に全部が出る。
言葉より、ずっと正直じゃ。
「面白いか」
「うん」
「そりゃよかった。でも早めに寝な。
子どもは寝なきゃ育たない」
「わしも、育つのか」
「当たり前じゃないか」
「六度目じゃ」
「何がだい」
「何でもない」
マルタが首を傾げながら、戻っていった。
わしは本を閉じた。
今夜は一ページだけでいい。
時間は——まだある。
窓の外、月が出ておった。
先生の目。
諦めたのに、諦めておらん目。
一万年、わしも同じだったんじゃろうか。
それとも天界では——諦めるものが、何もなかっただけか。
まだ、わからん。
でも——わからないことが、また一つ増えた。
悪くない。
お読みいただきありがとうございます。
ゼム先生、二十年間ずっと魔力を失ったままで、
子供らに魔法を教え続けた——そういう人でした。
使えなくても、伝え続けた。
伝えることは、使えることより難しいのかもしれません。
「面白い」「続きが気になる」と思ったら、
ブックマークと評価をいただけると、ゼム先生がもう少し笑顔を見せてくれるかもしれません。
次話、学院に新しい生徒が現れます。




