第2話:森と、空腹と、拾い主
追放された元神様、五歳。
全てを知っているのに、何もできない。
森は、思ったより暗かった。
街道を外れてすぐ、
木々が空を覆い尽くしとる。
五歳の足では根を跨ぐのも一苦労じゃ。
三歩歩いて躓き、五歩歩いて枝に引っかかる。
一万年、世界を見下ろしておったのに——
足元の石ころに負けておる。
なかなか、新鮮な体験じゃ。
頭の奥で、何かがざわついておった。
森の構造。毒のある植物。
水場の位置。獣の気配。
情報が洪水のように押し寄せてくる。
知っておる。全部知っておる——
が、五歳の頭には多すぎる。
例えるなら、
滝の水を茶碗で受けるようなものじゃ。
必要なものだけ掬いたいのに、
全部まとめて降ってくる。
あれが毒草じゃ、あの木は登れる、
東に水場がある、
三十歩先の茂みに兎がおる——
同時に、全部。
うるさいのう。
わしは目を閉じて、一つだけ選んだ。
——水。
まずは水じゃ。
小川は、すぐに見つかった。
見つかったというより——
知っておったから、歩いただけじゃが。
冷たい水を両手で掬った。
指の隙間からぼたぼた零れる。
五歳の手は小さい。
三回掬って、ようやく一口分。
一万年、喉の渇きなど知らなんだ。
水が喉を通った瞬間——
ほう、と声が漏れた。
うまい。
これは、うまいぞ。
アメノウズメの踊りをこの場で披露してもらいたくなるくらいの味じゃ。
神であった頃、水の成分も温度も、
この川の源流がどこかも、全て知っておった。
じゃが「冷たい水がうまい」という、
たったそれだけのことを——知らなんだ。
知識と体験は、別物じゃ。
一万年かけて辿り着いた結論を、
たった一口の水が証明しおった。
問題は、飯じゃった。
水はある。知識もある。
三十歩先に兎がおることも知っておる。
——捕まえられん。
五歳じゃぞ。
走れば転ぶ。罠を作ろうにも、紐がない。
木の実を探したが、手が届かん。
全知が「あの枝に食える実がある」と
教えてくれるたびに、
五歳の身体が「無理じゃ」と答える。
知っておるのに、できない。
これが——人間か。
なるほどのう。
一万年見ておっただけでは、わからんわけじゃ。
結局、地面に這いつくばって、
キノコを三つ見つけた。
全知が「食える」と言うておるから食えるが、
味は——まあ、土じゃな。
腹は、まだ鳴っておった。
二日目の夜に、雨が降った。
木の根元に身を寄せて、膝を抱えた。
寒い。当たり前じゃが、寒い。
神であった頃は
気温という概念すら意識の外じゃった。
今は、歯が鳴っておる。
がちがちと。情けない音を立てて。
……ふむ。
これが「辛い」という感情か。
嫌いではないな。
三日目の朝、煙の匂いがした。
全知が即座に告げる。
南東、二百歩。焚き火。
人間が一人。刃物を持っておる。
敵意はない——が、
ここから先はノイズが混じって読めん。
わしは少し考えて、まっすぐ歩いた。
木々の合間に、小さな焚き火が見えた。
傍らに座っておったのは——
大柄な女じゃった。
旅装束。使い込まれた革の外套。
腰に鉈。背中に大きな籠。
年は三十か、四十か。
日に焼けた肌に、太い腕。
山菜採りか、猟師か。
いずれにせよ——
森を知っておる目をしておった。
女が、こちらに気づいた。
「……なんだい、あんた」
わしを見て、眉を寄せた。
「こんな森の奥に、子供が一人?」
「散歩じゃよ」
「散歩」
女は呆れたような顔をした。
それから、わしの足元を見た。
裸足じゃった。
靴は昨日、泥に埋まって片方なくした。
「三日は食ってないね」
「……なぜわかる」
「目を見りゃわかるよ。あたしは猟師だ」
女は焚き火の傍に置いてあった包みを開いた。
干し肉と、硬そうなパン。
「食いな」
わしは一瞬、全知に問うた。
毒はない。悪意もない。
ただの——お節介じゃ。
「すまんな」
受け取って、かじった。
硬い。顎が痛い。味は粗末じゃ。
干し肉は塩辛く、パンはぼそぼそしておる。
——うまかった。
水の時と同じじゃ。
いや、それ以上じゃった。
豊穣の女神・デメテルに感謝じゃ。
誰かが差し出してくれたものを食う、
ということの意味が——
胸の奥に、じわりと広がった。
「うまいのう」
「そうかい」
女は素っ気なく答えて、
自分の分を食い始めた。
しばらく、二人で黙って食うた。
焚き火がぱちぱちと鳴っておった。
「——で、どうするんだい」
「どう、とは」
「帰る家はあるのかって聞いてんだよ」
わしは干し肉をもう一口かじって、
ゆっくり噛んだ。
「ないのう」
「だろうね」
女は火を見つめたまま、
ふんと鼻を鳴らした。
「あたしはマルタ。
この先の村に住んでる。
——ついてくるかい」
わしは、マルタという女を見た。
全知がまたざわつく。
この女の過去。この女の事情。
この女がなぜ一人で森にいるのか。
情報が流れ込もうとする——が、
わしは目を閉じて、止めた。
知らんでよい。
この女が飯をくれた。
それだけで十分じゃ。
「世話になるのう」
「……まるで年寄りと喋ってるようだよ。調子が狂うよ。」
猟師というのは、そこまで読める物なのかのお。
マルタは立ち上がって、火を消した。
大きな籠を背負い直して、歩き始めた。
わしはその背中を追いかけた。
五歳の足では、
大人の歩幅に追いつくのがやっとじゃ。
「遅いよ」
「足が短いんじゃ、仕方なかろう」
マルタが、少しだけ歩幅を狭めた。
——振り返らずに。
ほう。
不器用な優しさじゃ。嫌いではない。
わしはのんびりと歩きながら、思った。
一万年、人間を見ておった。
戦争も、革命も、英雄の死も、王の涙も。
全部見た。全部知っておった。
じゃが——
森で飢えた子供に、
黙って飯を差し出す女のことは。
知らなんだなあ。
空が、広かった。
木々の隙間から差し込む朝の光が、
昨日より少しだけ暖かかった。
お読みいただきありがとうございます。
全知全能だったのに兎すら捕まえられない・・・
それでも水のうまさも、飯の温かさも、
神様だった頃には知らなかったことばかりです。
知識はあるのに何もできない元神様の人間生活、
ここから少しずつ動き出します。
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マルタの歩幅がもう少し狭まるかもしれません。
次話、マルタの村で元神様、初めての「暮らし」を知ります。




