第1話:一万年ぶりの空腹
元・全知全能の神、五歳。
できないことだらけの人生が、今日から始まる。
わしはかつて、すべてを知っておった。
星が生まれる瞬間も、魂が消える刹那も、時間の裏側に何が流れているかも。
知らぬことなど、何一つなかった。
一万年以上、そうやって存在しておった。神として。全知全能として。
うむ、傲慢じゃったな。
知っておるということは、時として、恐ろしく退屈なことでな。
驚きがない。誤算がない。明日が今日と同じ顔をしておる。
そのうちわしは、「知っておる」ということを「支配しておる」と勘違いするようになった。
天界の者どもが何を望もうと、下界の人間どもが何を願おうと、わしが正しいのじゃ、と。
まあ——そこが、いかんかったな。
ある神が反旗を翻した。若い神じゃった。
力も知恵もわしには遠く及ばぬ、青い神じゃ。
普通であれば指一本で終わる話じゃった。
じゃが、わしは少し——ほんの少し、油断した。
いや、正確に言えば、飽いておったのかもしれん。
完全な勝利を、一万年繰り返してきたのでな。
魂のどこかが「また同じか」と思うておったのじゃろう。
結果、やられた。
全知全能の力を身に宿したまま封じられては面倒なことになる、とわしは咄嗟に判断した。
じゃから自ら散らした。
十の能力を、この世界の果てへ果てへと。
桜の花びらが風に散るように、わしの全ては空へ溶けた。
封じられるよりはよかろう。
まあ、そういうこともある。
一万年、神をやっておれば、執着というものが薄くなる。
失うことを恐れるには、わしは少々、いろいろなものを見過ぎた。
気がつけば、わしは落ちておった。
天界の底が、ぱっくりと口を開けて。
力も、知恵の輝きも、神としての衣も、何もかもが剥がれ落ちて。
ただの、よぼよぼとした老爺ひとり。
雲を突き抜け、風に揉まれ、鳥に怪訝そうな顔をされながら。
まあ、そんな顔してみてくれるな。
下界の緑が、随分と近くなってきた。
ふむ。
人間というのは、ああやって暮らしておるのか。
初めて見る景色じゃな。
——悪くない。
落ちながら、わしは考えておった。
雲を抜けるたびに冷たい風が頬を叩く。
鳥が驚いて逃げていく。
今度は逃げおったわい。
下界の緑が、じわじわと近づいてくる。
なかなか悠長な落下じゃが——急ぐ旅でもない。
して、次は何になろうかのう。
魔法使いなどよいかもしれん。
一万年、あの力を上から眺めるだけじゃった。
指先から炎を出す感触とはいかなるものか。
魔法陣を組み上げる時の緊張とは、どんなものか。
全てを知っておったはずなのに——自分でやったことがない。
それは、まだ知らぬということじゃ。
商人もよいのう。言葉と算盤だけで世界を動かす。
一万年、結末を先に知っておった。
今度は知らずに賭けてみたい。
明日を知らぬまま、朝を迎える感覚とやらを。
いや——女子も捨てがたい。
一万年かけても覗けなんだ視点が、まだあるというのは——なかなか、そそられる話じゃ。
まあ、一万年じじいをやったんじゃ。次くらい、よかろう。
さて、どんな世界に落ちるやら。
考えておるうちに、わしはだんだん——軽くなっていった。
気がついたら、影がなかった。
次に気がついたら、手もなかった。
一万年まとっておった何もかもが、霧のように薄れていく。
おかしいのう、と思う間もなく
——思うておるわしまでが、ただの光になっておった。
青い、小さな光。
なるほど。これが魂か。
ずいぶん、身軽じゃ。
*****
その夜、ヴァルディス家の庭師が空を見上げて腰を抜かした——という話は、後から聞いた。
青い流れ星が屋敷の方へ落ちていったと。
翌朝には村中に広まり、翌々日には「神の祝福が降った」という話になっておった。
人間というのは、話を盛るのが上手い生き物じゃ。
まあ——あながち外れでもなかったが。
*****
目が、開いた。
高い天井。細工の入った柱。柔らかな寝具。
ほう。なかなか、裕福そうじゃ。
わしは小さな手を持ち上げて、まじまじと眺めた。
ふっくらとした、赤子の手。
握ろうとすると、ぐ、ぐ、と時間がかかる。
一万年ぶりに、できないことがある。
——悪くない。
そんなわしと男が抱きあげて、こう言うた。
「ヴィン」
ほう。わしが人間から名付けられるとは。
こやつもことの重大さに気付いておらんじゃろう。
とかく、わしは「ヴィン」という名をもらった。
父親にとっても、わしにとっても初めての経験じゃ。
わしが落ちた先は、この国でも指折りの魔法貴族・ヴァルディス家じゃ。
血が魔力を生む家系。
どうやらこの世界は魔力がモノを言う世界で
曾祖父から孫まで、代々宮廷魔法師を輩出しておる。
家の紋章にすら魔法陣が刻まれておるような——そういう家じゃった。
なぜ、生まれたばかりのわしに分かるのかって?
全知とはそういうもんじゃ。
そこに「神の祝福の青い光」が降った。
大騒ぎにならんわけがない。
産まれた瞬間から、わしは祭り上げられた。
客人が来るたびに顔を見せろと言われ、父親などわしを抱くたびに目を潤ませておった。
わしはそのたびに、愛想よく笑い返した。
すまんな、と。心の中で。
ちなみに——一万年ぶりの昼寝というのは、存外悪くない。
これだけでも落ちてきた甲斐があったかもしれん。
さて、1万年生きてきたというのに、この5年はあっという間だったわい。
初めてのお風呂
初めてのご飯
初めてのおねしょ・・・
どれもこれも新鮮じゃったわい。
そうこうしている間にわしは5回目の誕生日を迎えた。
*****
5歳の誕生日に、儀式があるそうじゃ。
魔力測定。
その子が持って生まれた魔力の量と適性を測るものらしいが、
この家では通過儀礼に近い。
無能力者など、一人も出たことがないと言うておった。
大広間に親族が集まった。神官が香を焚いた。
父が誇らしげに胸を張っておった。
母は願いを込め、神頼みをしておった。
昔のわしのためにも、あのようなことをしてくれた人間もおるんじゃろう。
兄たちは弟の儀式に興味津々そうじゃ。
まあ、わしのことじゃ。
元全知全能の神ならば、驚くような結果が出てくるじゃろう!
祭壇の水晶玉の前に立って——ふむ、と思った。
まあ、そうじゃろうな、と。
水晶は、透明なままじゃった。
広間が静まり返った。神官が慌てて測り直した。
何度やっても、水晶は澄んだまま——何も映さない。
「魔力……なし。魔法の習得は……できません」
父の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
それでも父は声を絞り出した。
「スキルは。スキルの適性は測れるか」
神官が困ったような顔をした。
「スキル、でございますか……魔法貴族の家系において、スキルとは——一体どのようなものを」
「構わん。測れ」
測った。
何も、出なかった。
まあ、全てを失い人になったんじゃ。
当然と言えば、当然の結末じゃ。
*****
追放の朝は、よく晴れておった。
門の外に立つと、父がわしに背を向けたまま言うた。
「……すまない」
まあ、怒り狂われて殺されるよりマシじゃ。
今のワシには対処する力すらない。
暖かく見送ってもらえるだけマシなもんじゃ。
わしは青い空を見上げて、ゆっくりと息を吸った。
まあ、そういうこともある。
一万年もあれば——執着は薄れる。
さて、と。わしは小さな足で歩き始めた。
無魔力。無能力。この世界の底辺からのスタートじゃ。
どのくらい歩いたか。
村の外れに差し掛かった頃、ふと遠くの空が目に入った。
北の方角。地平の向こうが、夜でもないのに——じわりと赤く滲んでおった。
何かが、あちらにおる。
わしは一秒だけ見つめて——踵を返した。
南じゃ、南。のんびり行くには、南がよい。
なんで、そんなことが分かるのか、
わしの中で、十の灯りのうちいくつかが、ぽつぽつと目を覚まし始めておった。
世界の果てに散らばせたはずのそれが、魂に引き寄せられるようにして、
少しずつ戻ってきておる。
スキル、とこの世界では呼ぶらしいが——わしにとっては、ただの手足じゃ。
砂利道を歩いておると、石に足をとられた。
転びかけた——瞬間、身体が勝手に動いた。
人間の五歳児には出るはずのない、滑らかな重心移動。
わしは軽やかに体勢を立て直した。
ほう。また一つ、目を覚ましたか。
わしはひとり、のんびりと笑った。
急ぐことはない。どうせ十は全部、戻ってくる。
わしのものじゃからな。
さて——まずは飯じゃ。
一万年ぶりの腹の虫が、情けない音を立てておった。
お読みいただきありがとうございます。
元神様の転生物語です。
普通の転生は出来ないものが出来るようになるチートですが、
今作は出来ていたものが出来ないようになるけれど・・・
元神様の力でどうにかなってしまう物語です。
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次話、腹を空かせた元神様、最初の人間と出会います。




