黄泉の因子
天知ノリトは、ノキアが消えた後を呆然と見下ろしていた。
彼にとってその【言霊】は禁句だった。それだけはしないようにと誓っていたのに、ほんの少し動揺しただけで思わず使ってしまった。
思わず使ってしまったという事実が、ノリトの頭を真っ白にさせる。
今から否定の【言霊】を使用したとしても、目の前に対象者が居ないと言霊は効果が無い。今すぐ霊子体を解いて、現実世界の草上ノキアに対して言霊を使わないと――心停止の時間が長いと後遺症が残ってしまうし、何より情報としての魂が消滅しかねない。
しかし、ノリトは動揺するだけで立ち尽くすことしか出来ない。
そんな彼のすぐそばで、盛大な落下音が響き渡った。
まるで、人一人がコンクリートにぶつかったような音。
反射的に、そちらの方を振り返る。
「君は――」
そこには、落下によって血まみれになった七塚ミラの姿があった。
「……許さない」
ぽつりとつぶやく声は、地を這うような迫力があった。
ふらふらとおぼつかない足取りで、彼女はノリトに迫る。一歩ごとに怪我が悪化し、血が吹き出す。血がぽたぽたと落ちる端から、霊子の塵となって消えていく。
その姿は幽鬼じみていて、思わずノリトは身を引いてしまう。
「と、【止まれ】!」
真正面から【言霊】を食らったミラは、衝撃を受けたように身体をのけぞらせる。
その瞬間、彼女の背後の鏡が一枚砕け散った。
「――ゆるさ、ない」
ミラはまた一歩、足を踏み出す。
言霊をまともに受けたのに動けている。その事実にノリトは動揺を隠せない。
「く、この【止まれ】! 【止まれ】!」
言霊を受ける度にミラは大きくのけぞるものの、その度に背後の鏡に大きなヒビが入り、また一歩を踏み出す。何度やっても向かってくる様子は、まるでゾンビそのものだ。
七塚ミラには何度か言霊を破られている。
おそらく彼女のパッシブスキルの力なのだろうと予測していたが、ここまで効かないのは、ノリトの価値観を大きく揺さぶった。
「よくも……よくも、ノキちゃんを……」
ミラの周囲に異変が起きる。
割れた鏡から、黒い影のようなものが沸き上がってきたのだ。
それは霧のようでもあり、ミラの身体にまとわりながら、彼女の動きに追随して怪しげに蠢いている。
明らかにまともでないその姿に、ノリトはパニックになる。
「【止まれ】! 【止まれぇ】! く、この――【割れろ】!」
一向に止まる気配がなく、それどころかのけぞりすらしなくなったミラに、ノリトはついに破れかぶれになり、絶叫するように言霊を飛ばす。
だが、その【割れろ】という【言霊】は効果的だったらしい。
ミラの周囲に浮遊している鏡が、一瞬にして全て砕け散った。ミラにとって鏡は分身のようなものである。それを一瞬にして砕かれた上に【言霊】の力で因子にも傷が入れられた。
さすがに歩みは止まり、ミラはその場に膝をつく。
「はぁ、はぁ。は、はは」
目の前の脅威がようやく歩みを止めたことに、ノリトは乾いた笑い声をあげる。嫌な汗が背中を伝っている。はっきりと恐怖を覚えていることを自覚したが、どうやらうまく対処できたようだと、ようやく緊張を解いた。
その時――
「が、ぐ、ぁあああああああああ!」
絶叫が響き渡る。
それとともに、ミラの割れた鏡から更に漆黒の闇が溢れ出した。
黒い霧のように闇が噴出し、汚泥のような情報密度が周囲へと侵食していく。
よろよろと、七塚ミラは立ち上がった。
その瞳はすでに焦点があっておらず、足取りからしても意識があるように見えない。まるで周りの黒い霧が、彼女を無理やり立たせているようにすら見えた。
「ふ、ぁ、うぅ――か、げ……」
うつろな目で、ミラはうめき声を上げながらまた歩み始める。
黒い霧を周囲へと蔓延させながら、彼女はうわ言のように、存在するはずのないスキル名を口にした。
「み……、つる……しょく、え」
禍々しい情報圧によって、空間そのものの情報が汚染されていく。
一度は過ぎ去ったはずの恐怖が、またも天知ノリトを襲う。
もはや余裕などない。
得体のしれないファントムにノリトの理性は吹き飛び、そして――二度目の禁忌を犯した。
「【死ね】」
※ ※ ※
その異変を、久能シオンはデバイスを通じて知った。
情報処理用の携帯端末には、バディである七塚ミラのステータスと現在の状態が表示されている。現在、体力がかなり削られているが、まだ戦える状態なのは分かっていた。
そんな彼女のステータス画面が、まるでノイズでも走ったかのように点滅を始めた。
「なんだこれ……」
故障なんてことがあるはずもないのだが、それを疑ってしまうほどに画面が点滅する。
その中で、七塚ミラの因子のところに、見慣れない名前が見えた。
すぐに消えてしまったが、そこには『黄泉』という文字が見えた。
「――――」
急がなければいけない。
シオンは魔法デバイスを手に取ると、一つの魔法式を呼び起こした。
※ ※ ※
黒い影が消失する。
七塚ミラの霊子体が消失していく。
黒い霧は最後まで侵食を続けていたが、核であるミラの存在がなくなったことで、あっさりとその姿を消した。
「は、ぁ。はぁ、はぁ」
得体のしれない恐怖を覚えて、ノリトは思わず息が上がってしまっていた。
ファントムは霊体なので厳密には死という概念がない。今回の【言霊】は、霊子体の死という形で実行された。ファントムを完全に消滅させるには存在の否定が必要なので、この【言霊】で七塚ミラが消滅することはないはずだ。
それでも――二度も立て続けに禁忌を犯したノリトは精神的に追い詰められていた。
彼はよろよろと足を動かす。とにかく、動かないと気が狂いそうだった。
そんな彼の目の前に、一つの人影が現れる。
その姿を、ノリトはぼうっとした頭で眺める。
「――シオン先輩」
「何度も言うが、僕はお前の先輩じゃない」
律儀に何度目かになる訂正をしながら、久能シオンは天知ノリトの前に立ちふさがった。




