禁忌の言霊
――草上名冬に対して、天知ノリトがやったことは簡単だ。
いや、実際に行動したのはノキアなので、ノリトは実のところ何もやっていない。
ノキアは習い事の先生の中で一番若い男性の先生に、こう言ったのだ。
「お母様が、先生のことを好いているようですよ」
ノキアの母は若い頃にノキアを産んだので、まだ三十代前半だった。
父はなかなか帰ってこないので、まだ若い母は寂しい日々を過ごしている――真実はともかく、そんな視線を向けられるようになるまで時間はかからなかった。
醜聞は瞬く間に広まった。
取るに足らない噂話と言い捨てることが出来ればよかったが、草上名冬は生粋の箱入り娘であり、必然的に家の中での生活が全てだった。そんな狭い中で不名誉な話が広まったことで、逃げ場がなくなった。
母は厳格な人だった。
少なくとも、ノキアに対して厳しく接する以上に、自身にも厳しい人だった。
そんな彼女が、自身の醜聞に耐えることが出来なかったのは無理からぬことだろう。
ある日、書き置きとともに忽然と屋敷から姿を消した母は、自身の両親以外には居場所を知らせず、ノキアや秀星の前にも二度と姿を現さなくなった。
「こんなつもりじゃなかったんだ」
誰ともなしに、ノキアは言い訳をしていた。
こんなつもりではなかったのだ。
自分はただ、母を少しだけ困らせたかっただけだ。
それなのに、彼女は永遠に、母親を失った。
呆然と立ち尽くすしかないノキアは許しを求めた。
母がいなくなるきっかけを作ったのが誰かを知っている人間は、一人を除いて居なかった。
「大丈夫ですよ。ノキアお姉さん。あなたは悪くない」
いけしゃあしゃあと言いながら、彼はその小さな身体でノキアを抱きしめた。
許しを求めていたノキアにとって、その優しさは、思わずすがりつきたくなるものだった。
「ねえ。ノキアお姉さん。お願いします。『僕を好きになってください』」
「うん。わかったよ」
母がいなくなり、精神の安定を欠いていたあの時。ノリトが依存先となってくれたことは、もしかしたらノキアにとって幸せだったのかもしれない。
しかし、それから一年間は、ノキアに自我などなかった。
たまにやってくるノリトのお願いを聞くだけの日々。些細な子供じみたお願いから、倫理観を逸脱したものまで、それは多岐にわたった。
そんな生活は、ノリトが中学受験のために忙しくなったためにあっけなく途絶えたが、その時にノキアは自分が何をしていたかをはっきりと理解し、あまりのことに恐怖した。
これは父も知らない話だ。
ノキアは必死に隠していたし、ノリトもバレるようなヘマはしなかった。それが知られていれば、さすがの父もノリトとの婚姻を考えようとは思わないだろう。
草上ノキアにとって、天知ノリトはトラウマの権化だ。
そんな彼に怯えて生きるくらいなら、いっそ――
※ ※ ※
草上ノキアの拳が、天知ノリトの頬に突き刺さる。
倒れかかるように全体重が乗った拳は、ノリトの小柄な身体をおもいっきり殴り飛ばす。
あまりの出来事に、ノリトは一瞬、頭が真っ白になった。
一体何が起きているのか。一体何をされたのか。
疑問符がいくつも浮かんでくる中で、自分へと拳を伸ばしている少女を見る。その瞬間、状況を理解するよりも先に、ノリトの思考には憤りが湧いてきた。
なぜ、今まで圧倒していたはずの少女に一杯食わされなければならない。
草上ノキアはノリトにとって好ましい少女だった。しかしそれは、自分の言うことを聞かせられる無力な存在だったからだ。敵意を向けるまでは良くても、こんな風に一矢報われるのは――純粋に我慢ならなかった。
ノリトの表情が怒りに満たされる。
ノキアはたたらを踏みながら、意識を保つので精一杯といった様子だったが、その表情は満足げだ。してやったりといった態度で、まるでノリトを挑発しているかのようでもあった。
カッと、怒りで頭が真っ白になる。
「この――」
そして、天知ノリトは。
自身に課していた唯一の縛りを、あっさりと解いてしまった。
「【死ね】」
踏みとどまっていたノキアの瞳孔が開く。
口がパクパクと動き、身体が不自然に崩れ落ちる。受け身など取れるはずもなく、顔面から地面に落ちたノキアは、そのままあっさりと霊子体を崩壊させた。
消え行く霊子の光は命の残滓だ。
そして、草上ノキアは死亡した。
満足そうに――その頬に笑みすらも浮かべながら。
※ ※ ※
――その一部始終を、七塚ミラは上空で見ていた。
草上ノキアの反撃と天知ノリトの無慈悲な一言。すべてを飲み込む強烈な情報密度と共に放たれた言霊の意味を、ミラははっきりと理解した。
「ノキ……ちゃん」
ミラの顔から血の気が引く。
あまりのショックに、体中から力が抜けていった。
上空で鏡の制御を放棄したミラは、そのまま自由落下する。
四十メートル近い摩天楼の上から落下した少女は、地面にクレーターを作りながら天知ノリトの前に降り立った。




