↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/7

第六話 誰れも憂き世に一人と思ふて

静流と女の目が合った、その一瞬。

女の肩が、かすかにこわばった。


幸子の背に回した手に、きゅっと力がこもる。

それは、腕の中の小さな体を、知らない者から守るような仕草に見えた。


怯えたような、戸惑ったような目で静流を見ている。


ああ、そうか。


見知らぬ男が、いきなり戸口から顔を出したのだ。驚かせてしまったに違いない。


静流は管理人室の戸口から出ると、上がり框のところで膝をついた。

土間に立つ母子を見下ろさないように、目の高さを少しだけ低くする。


教壇に立っていた頃、子どもと話すときにいつもそうしていた。


考えるより先に、体がそう動いていた。

それから、やわらかく微笑んだ。


「おかえりなさい。驚かせてしまって、すみません。

今日からこちらの管理人をさせていただくことになりました、印南静流と申します」


静流は膝の上に手をそろえ、頭を下げて言い添えた。


「……今日も一日、お疲れさまでした」


女は、目を丸くして、まばたきをひとつした。


「今日来たばかりで、何かと不手際もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」


顔を上げると、幸子が母の着物にしがみついたまま、じっとこちらを見ていた。

目が合っても、今度は隠れない。母の腕の中にいるからだろうか。


「お嬢さんは、おいくつですか」


「……九つに、なります」


小さな声で、女が答えた。


九つ。

静流の胸に、懐かしい教室の匂いがよみがえった。

窓から射しこむ光と、白墨の粉。騒がしくも愛らしい、あの子どもたち。

みんな、ちょうどこのくらいの背丈だった。


「九つなら、この春からは四年生ですね」


何気なく口にした、その言葉に。


女の顔が、ほんの一瞬、曇った。


「……ええ」


目を伏せて、それだけを言う。

幸子が、母の顔を見上げた。


静流は、その表情の変化に気づいた。

だから、それ以上は聞かなかった。


女は、はっとしたように顔を上げた。


「あ、あの……すみません、ご挨拶もせんと。

わたし……岡本、ナミと申します。この子は、幸子です」


慌てて取り繕うように、ナミは深く頭を下げた。

襟元に手をやるしぐさも、頭の下げ方も、どこか折り目正しくきれいだった。


「子どものことで、何かとお手数をおかけするかもしれません。

でも、できるだけご迷惑はおかけしませんよって……どうか、変わらずここに置いといてもらえませんやろか」


最後のほうは、ほとんど祈るような声だった。


静流は、ナミの細い手を見た。

指先が荒れている。紙で切ったのか、細い傷がいくつも走っていた。

その手で、幸子をしっかりと抱いている。


静流は、もう一度ナミの顔を見た。


「迷惑だなんて、とんでもないです」


できるだけ穏やかな声で言った。


「実は僕、前は小学校で子どもたちに字を教えていたんです。

だから、子どもは好きです。僕にできることがあれば、手伝わせてくださいね」


ナミは目を見開き、何か言いかけたのか、唇が小さく動く。

それから、ふっと、その口元がほどけた。


ナミの目元の泣きぼくろが、少しだけ上がった。

笑い慣れていないのか、どこかぎこちない、けれど温かな笑みだった。


「……ほんまに、すみません」


幸子が、母の笑う顔を、不思議そうに見上げていた。

それから、母の着物の袖をくいくいと引いた。


「おかあちゃん、おなかすいた」


「あ……ごめんね。すぐ支度するからね」


ナミは幸子の頭をそっと撫で、静流にもう一度頭を下げた。


「……ごめんなさい、これで失礼します」


母子は廊下の向かいの部屋へ入っていく。

戸が閉まる前に、幸子が一度だけ振り返って、静流を見た。


管理人室の前に戻りかけて、静流は足を止めた。


廊下の奥から、香ばしい匂いが漂ってくる。


醤油の焦げる匂いだ。


匂いに誘われるように、静流は廊下を奥へ歩いた。階段の脇を抜け、板間を過ぎると、台所の土間に明かりがともっていた。


スズが、焜炉の前に立っていた。


焜炉の上には網が渡してあり、その上で、俵の形に握ったおにぎりがいくつか、こんがりと色づいている。

隣の小鍋からは、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「あら、静流さん。もうちょっとでできるからね」


スズは刷毛で、おにぎりに醤油を塗りながら振り返った。


「なんにも用意してへんかったさかい、今日は焼きおにぎりとお汁とお漬物だけやけど、堪忍な」


「とんでもない。十分すぎるくらいです」


静流は着物の袖をまくった。


「よかったら、手伝わせてください。実は台所仕事は、けっこう得意で」


「あらぁ、そうなん?男の人やのに、大したもんやなぁ」


スズは少し意外そうな顔をしてから、ほほ、と笑って網の前を譲ってくれた。


焜炉の青白い火が、しゅうしゅうと静かな音を立てている。

こうして間近でガスの火を見るのは、初めてだった。薪をくべなくても、火はいつまでも同じ強さで燃え続けている。


静流は箸で、おにぎりをひとつずつ返していった。

焼き色のついた表面に、刷毛で醤油を重ねる。

じゅっ、と音がして、香ばしい匂いがいっそう立ちのぼった。


スズはその手つきを、しばらく黙って見ていた。

それから少しだけ目を細めて、小鍋の汁に戻った。


「スズさん。この台所は、皆さんでどんなふうに使っているんですか?

棚にいろいろと置いてあるみたいですが……」


おにぎりを返しながら、静流は尋ねた。


「そうやねえ」


スズは汁の味を見ながら、ゆっくりと話してくれた。


「自分の大事な食器や道具は、みんな自分の部屋に置いてはるけど、

皆で使うてもええもんは、ほれ、そこの奥の棚に置いてるんよ」


台所の奥の棚には、大きさも柄もまちまちな茶碗や皿が並んでいた。

醤油の一升瓶に、味噌の甕、塩の壺。ウスターソースの瓶。籠には、玉葱と馬鈴薯がいくつか転がっている。


「棚のお醤油やお野菜は、もらいもんとか余りもんで、皆で使うてええよって置いてあるもんやから、静流さんも使うてええのよ。

器やお鍋なんかも同じでね。大事なもんは自分の部屋で、ここに置いてあるのは誰が使うてもええの」


スズは小鍋をかき混ぜながら、ほほ、と笑った。


「あと、お米はね、一人ひとりで買うてたら大変やから、皆でお金を出し合うて買うてるの。坂の下の米屋さんが注文を聞きに来て、持ってきてくれはるんよ。

別に取り決めたわけでもないんやけどね。いつのまにか、そんな感じになってるわ」


それから、流しの脇の小さな棚を、お玉の先で指した。


「ただし、そっちの小さい棚はあかんよ。あれは個人で買うてきて置いてはるもんやから、勝手に食べたら怒られるで」


小さな棚には、名前を書いた紙切れがいくつか貼ってあった。

経木の包みがひとつ。昼間、辻さんが籠に入れていた魚だろう。その隣には、パンの紙袋と、珈琲の缶。それから、食べかけの菓子の缶がひとつ、ぽつんと置いてあった。


「奥の棚にある湯呑やお皿は、前の管理人さんが用意してくれはったもんやから、好きに使うてええよ。あと、台所の隅にある水がめは、汲み置きの水が入ってて、奥の棚の鉄瓶には湯冷まし、土瓶には番茶が入ってますから」


そう言ってから、スズは静流の顔を見て、少しだけ声の調子を改めた。


「ただし、自分が使うたもんは、ちゃんと自分で洗わなあかんよ」


「はい。気をつけます」


静流は素直にうなずいた。


取り決めたわけでもないのに、それぞれが少しずつ持ち寄って、少しずつ分け合って、ちゃんと回っている。


うまいことやっているんだな、と静流は感心した。


静流は振り返って、板間を見た。


がらんとした板の間には、卓がない。

昼間、ここに卓を置けば食事ができそうだと思った。


岩岡の実家の、自分の部屋には、使い慣れた卓があった。座布団も何枚かある。


明日、手紙を書くときに、あれも送ってもらおうか。

あの部屋のものは、いろいろここに置いて、皆にも使ってもらえばいい。


そう思うと、なんだか少し楽しくなった。


「湯冷ましと番茶は、いつもどなたが用意しているんですか」


「たいがいは、あたしやねえ。でもナミさんや、環ちゃんも用意してくれてはるよ」


「なら、その支度は、僕が朝やっておきましょう。

もし僕が出かけているときは、お願いします」


スズは、ほほ、と目尻の皺を深くした。


「静流さんはええ管理人さんやねぇ。ほな、お願いします」


「いえ……また、わからないことはいろいろ教えてください」


「ほほ、まかせとき。暇してるばばやからね。なんでも言うてくださいね」


焼きおにぎりがこんがりと焼き上がると、スズは皿に二つ盛り、漬物を添えて、汁をよそった椀と一緒に盆に載せてくれた。


「はい、どうぞ。ここは食べるとこないから、自分のお部屋でゆっくり食べて」


「ありがとうございます。いただきます」


静流は盆を受け取って、深く頭を下げた。


管理人室に戻ると、静流は盆を縁台に置き、その隣に腰を下ろした。


外はもう、すっかり宵の色に染まっていた。


坂の下の町に、ぽつり、ぽつりと灯がともり始めている。

港のほうには、船の明かりが小さく揺れていた。


静流は焼きおにぎりをひとつ手に取って、かじった。


焦げた醤油の香ばしさと、米の甘さが、口いっぱいに広がる。

汁をすすると、昆布の出汁がやさしく体の奥にしみていった。漬物は、ちょうどいい塩加減だった。


そういえば、朝から、ろくに何も食べていなかったな。


「……うん。うまいな」


思わず、声が漏れた。


さっきまで、ここで俯いていたのが嘘のようだった。


ふたつ目のおにぎりを食べ終え、汁の最後のひと口を飲み干したころだった。


門のほうに、人影が見えた。


ひょろりと背の高い影が、すたすたと前庭を横切ってくる。

玄関の明かりに照らし出されたところで、よれよれの着流しと、ずり落ちかけた丸眼鏡が浮かび上がった。


昼間、泣き叫びながら坂を転がり落ちていった人が、ほんとうに何事もなかったような顔をしている。


その手には、紙に包んだ、四角い箱がひとつ提げられていた。


「ほんとにカステラ……買ってきたんだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。