第五話 誰そ彼と、我をな問ひそ、君待つ我そ
窓の外から、豆腐屋のラッパが間延びして聞こえてくる。
メイミーは鏡台の前で襦袢の衿をくつろげて、頬に白粉をはたいていた。
開け放した窓から入ってくる風は、昼間よりいくらか冷たい。
どこかでもう七輪に火を熾したらしく、鰯の焼ける匂いが、かすかに混じっていた。
今夜は、ショールがいるやろか。
外の空気を確かめようと、メイミーは窓から顔を出す。
坂の下には、見慣れた神内坂の屋根の波と、夕日に染まりかけた海が広がっていた。
ふと前庭に目をやると、管理人室の縁台に、静流が座っていた。
俯いて、紺の背広の背中が、なんだか小さく丸まっている。
片方の手が、ネクタイをぎゅっと握りしめていた。
「もう、そんなんするから、ネクタイ曲がんねん……」
メイミーは窓から少し身を乗り出して、声をかけようとしたが……やめた。
静流の肩が、小さく揺れていた。
俯いた顔は、ここからは見えない。けれど、背広の袖で目元を拭っているのはわかった。
「これは、あかんやつや……どないしよ」
メイミーは、窓枠に手をかけたまま動けなくなった。
昼間、皆の前で帽子を取って、ひとりずつ顔を見ながら、あんなにきちんと挨拶をした人だ。
ネクタイが曲がってるとからかったら、ただ、困ったように笑っていたのに。
胸の奥が、ちくりとした。
見てはいけないものを見てしまった気がして、メイミーはそっと窓から身を引いた。
それから静かに鏡台の前に座り直し、手鏡を持ち上げる。
棒口紅を唇に当てたところで、一度だけ、その手が止まった。
メイミーは小さく息をついて、いつもより、ゆっくりと紅を引いた。
着物は、赤と黒の大胆な柄の銘仙にした。
衣紋をぐっと抜いて帯を締め、肩に薄手のショールをかける。少し赤みのある髪は、首のうしろで無造作にまとめた。
仕上げに、舶来の香水を手首にひとしずく。
店で着る洋服を風呂敷に包んで抱えると、メイミーは部屋の戸を開けた。
そして、わざと大きな音を立てて、階段を下りる。
とん、とん、とん。
いつもより、ずっと重たい足音で。
おまけにお得意の鼻歌までつけた。港の酒場で覚えた、異国の軽やかな節だ。
上がり框で駒下駄をつっかけ、玄関の引き戸を、がらがらがらっ、と思いきり開け放つ。
◇
その音に縁台に座る静流は、はっと顔を上げた。
静流は慌てて、もう一度、手の甲で目元をこすった。
背筋を伸ばして、外の景色を見ているように取り繕う。
「あ、みーつけた!」
楽しそうな声が、玄関のほうから聞こえた。
そして前庭を、からころと下駄の音が渡ってくる。
静流は玄関の方に顔を向けた。
「あはは、初日から縁側で物思いにふけって、えらい渋い管理人さんやなぁ!」
一瞬、誰なのかわからなかった。
赤と黒の大胆な柄の着物を、衿をぐっと抜いて粋に着こなし、肩には薄いショールをかけている。白粉をはたいた頬に、ほんのりと紅がさし、唇は夕焼けを映したように赤かった。
さきほどの、二階の窓から襦袢姿で身を乗り出して大笑いしていた姿とは、雰囲気がまったく変わっていた。
「め……めいみい、さん?」
「メイミーやって。まだまだ固いなぁ」
メイミーはけらけらと笑い、風呂敷包みを抱え直した。
「うちはな、今からお仕事にいくねん。働きものやろ?」
「え、今から……それは、大変ですね」
静流は、心配そうに眉を下げて言う。
「そ。うちは夜のお仕事や」
意味ありげに片目をつむってみせてから、メイミーは静流のすぐ前に寄ってきた。
ふわりと、嗅いだことのない甘い香りがする。
メイミーは静流の顔を、ほんの一瞬だけ見てから、さらに視線を下げた。
「静流さん、さっきよりネクタイ曲がってるで?」
「え……」
静流は胸元を見下ろした。
鏡の前で三度結び直しても曲がっていたネクタイは、いまや結び目ごとくしゃりと潰れて、見る影もなかった。
「それに、そのズボンも……」
メイミーの視線が、さらに下へ落ちる。
背広のズボンの膝には、裏庭の土の跡がうっすらと残っていた。
「昼間は落ち着いた挨拶もしはって、しっかりしたお人やなぁとおもてたのに……
ほんまは、ものぐさお兄さんやったんやね」
静流は頭を掻いて苦笑いする。
「はは……いや、お恥ずかしいです」
ふっと小さく息を吐くように、メイミーは笑う。
「はよ、着替えやぁ。折角の一張羅がぼろぼろなるで?」
一張羅。
たしかに、そのとおりだった。背広はこの一着しか持っていない。
「……はい。そうします」
「あはは。素直なお兄さんやね。ほなら、うち、お仕事行くなぁ」
静流は立ち上がった。
「はい。いってらっしゃい。夜道、気をつけてくださいね」
メイミーは微笑んで手を軽く振ると、くるりと背を向けて歩き出す。
そして二、三歩行きかけてから、思い出したように振り返った。
「そや、文彦せんせがカステラ買ってきたら、ちゃんとうちの分もおいといてな。
全部食べたら、承知せえへんからね……」
メイミーは少し頬を膨らませて言う。
「……ええ。ちゃんと、取っておきますから」
静流がつい笑うと、メイミーもにっと笑った。
「うん。ほなね」
ショールの端をひらりとなびかせて、メイミーは門を出ていった。
からころと、下駄の音が坂を下りていく。門の脇の若い桜の向こうに、赤い着物の色がだんだん小さくなっていった。
あとには、甘い香りが少しだけ残った。
ひょっとして、見られていたのだろうか。
けれど、胸のどこかが、さっきよりは少しだけ軽くなっている気がした。
「とりあえず、着替えるか……」
柳行李の底から、着慣れた木綿の袷を引っぱり出す。
ネクタイをほどき、背広を脱いで着物に袖を通し、角帯をきゅっと締めた。
それだけで、ずいぶんと肩が楽になった。
脱いだ背広は、膝の土を払ってから掛けようとして、部屋のどこにも衣紋掛けがないことに気がついた。
仕方なく、きちんと畳んで柳行李の蓋の上に置く。
それから静流は、改めて部屋を見回した。
畳にも文机にも、二年分の埃が積もっている。
……よし。掃除をしよう。
手を動かしていれば、余計なことを考えずにすむ。
掃除道具の場所を尋ねに、静流は玄関の右手、スズの部屋の戸を叩いた。
ちりん、と鈴が鳴って、すぐに戸が開いた。
「はいはい。あら静流さん、着替えはったんやね」
「ええ。管理人室を掃除しようと思いまして。箒やはたきは、どこにありますか」
「それなら台所の脇の物入れやね。バケツも雑巾も、みんなそこにあるよ」
スズはそう言って、静流の顔を見上げた。
目は、赤くなっていなかっただろうか。
静流はふと思った。
だがスズは、いつものように目尻の皺を深くしただけで、何も言わなかった。
「ところで静流さん。今日の夕飯は、どうしはるん?」
「夕飯……ですか」
言われて初めて、そのことにも思い至った。
「今から支度するとこやから、ばばの飯でよかったら、静流さんの分もこしらえとくからね」
「いえ、そんな。ご迷惑では……」
「ひとり分も、ふたり分も、たいして変わらへんよ。
今から掃除もしはるんやから、気にせんでええのよ」
静流は少し迷ってから、頭を下げた。
「……それでは、今日はお言葉に甘えます。ありがとうございます」
「ほほ。ほな、できたら呼びに行くからね」
台所の脇の物入れには、スズの言ったとおり、箒とはたきと、トタンのバケツと雑巾がそろっていた。
静流は着物の袖に襷をかけ、裾を端折った。
岩岡で畑に出るときと同じ、手慣れた支度だった。
バケツに水道の水を汲んで、管理人室へ戻る。
まずは、障子と縁側の硝子戸をすべて開け放った。
夕方の風が、坂の下から部屋の中へ流れ込んでくる。
閉じこめられていた乾いた畳の匂いが、ゆっくりと外へ出ていく。
はたきで、鴨居や棚の上の埃を落とす。
箒で、畳の目に沿って丁寧に掃き出す。
固く絞った雑巾で文机を拭き、柱を拭き、最後に縁台の板を、端から端まで拭き上げた。
台所のほうから、とん、とん、と包丁の音が聞こえてくる。
やがて出汁の香りが、廊下を伝って部屋の中まで漂ってきた。
明日は、久しぶりに僕も作ってみようかな。
静流は小さく頷いて、また雑巾をかけ始めた。
気がつけば、部屋の中はすっかり薄暗くなっていた。
天井から下がった裸電球に手を伸ばし、ソケットのつまみを、かちりとひねる。
ぽっと灯った黄色い明かりの下で、八畳間は見違えるほどさっぱりとしていた。
残るは、押し入れだけだ。
静流は襖に手をかけ、からりと開けた。
中は、空っぽだった。
上の段にも、下の段にも、何もない。
乾いた木の匂いと、隅にたまったわずかな埃があるだけだった。
静流はしばらく、その空っぽの押し入れを眺めていた。
それから、あ、と小さく声を漏らした。
布団がない。
枕も、夜具も、何もない。
当たり前だ。自分は柳行李ひとつで、この坂を上ってきたのだから。
中身は二、三日の着替えとお金。そして義父からもらった鍵束と帳簿書類だけだ。
管理人の仕事のことばかり心配して、自分が今夜どこで寝るのかなんて、考えもしなかった。
静流は思わず、額に手を当てた。
お義父さんのことを相変わらずだって、笑っていたけど……。
僕も、人のことは言えないみたいだ。
スズさんに相談してみようか。
だが、夕飯の支度まで頼んでおいて、そのうえ布団まで貸してくれとは、さすがに言い出しにくい。
初日から、情けないところばかり見せるのもなぁ。
静流は柳行李を引き寄せ、中に残った着物を数えた。
背広を掛ければ、布団の代わりくらいにはなるだろう。着物を丸めれば、枕にもなる。
数日くらいなら、これで寝られる。
明日、岩岡の実家に手紙を書こう。
自分の部屋で使っていた布団も、火鉢も湯呑みも、まとめて送ってもらおう。
そう決めると、少しだけ気が楽になった。
雑巾をバケツに放り込み、襷をほどきかけた、そのときだった。
「……ただいま」
玄関のほうから、物静かな声がした。
静流は襷をほどき、管理人室の戸を開けて、玄関のほうへ顔を出した。
それとほとんど同時に、廊下の向かいの戸が、からりと開いた。
小さな影が、ぱっと飛び出してくる。
幸子だった。
昼間はスズの陰から半分しか顔を見せなかったあの子が、おかっぱ頭を揺らして、まっすぐに玄関へ駆けていく。
「おかあちゃん!」
弾むような声だった。顔いっぱいに、笑みが咲いている。
あの子、こんなふうに笑うのか。
静流は戸口に手をかけたまま、思わず立ち止まった。
土間には、ひとりの女が立っていた。
地味な縞の着物に、簡単に結った束髪。
駆け寄ってきた幸子を受けとめながら、その人は、ふと顔を上げた。
伏し目がちの目元に、小さな泣きぼくろがひとつ。
そして静流と、目が合った。




