第四話 露台と裏庭と縁側と
一階の案内が終わり、二階へ上がる階段の途中で、環がふいに口を開いた。
「あの、印南さん?」
「はい」
「印南さんて……どちらのお生まれなんですか?」
「え?」
「いえ、あの。印南さんの話し方、とてもきれいだと思いました。
なんだか……東京のほうのお人みたいで」
静流が答えようとした、そのときだった。
「あらまぁ、たまきちゃんは、えらい静流さんのこと、気に入ったんやねえ」
先の階段を上っていたスズが、笑いながら振り返った。
「……え?」
環の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「ち、ちゃいます! そんなんちゃいますって!
わたしはただ、その、言葉が、き、気になっただけやから――」
叫んでから、環ははっと口を押さえた。
「……い、いえ、わ、わたくしは、その……そういうことでは……」
声がどんどん小さくなっていき、頭のリボンがまたしおれて見えた。
「ほほほ。これから一緒に暮らすんやから、ゆっくり仲良くなったらええよ」
スズは、何もかもわかっているような顔で笑いながら、また階段を上り始めた。
静流は、少し考えてから言った。
「辻さんには、いろいろ教えてもらって、本当に助かっていますよ」
「……も、もうっ!ちゃいますからね!」
環はぷいと顔を背けて、階段をたんたんと駆け上がり、静流を追い越していく。
……また、何か間違えたかな。
風見館の二階の廊下は、一階より明るかった。
廊下の窓からは裏手の斜面が見下ろせ、その先はもう林になっていた。
玄関の真上にあたる部屋の前を通りかかると、戸の向こうから数え歌が聞こえる。
お手玉でもしているのか、歌の合間に、くすくすと小さな笑い声が混じる。
メイミーと幸子だろうか。
「ここはめい姉のお部屋です。窓の真下が玄関なので、誰か帰ってきたら、すぐ顔を出すんです」
先に上がっていた環が、何事もなかったような顔で待っていた。
まだ、耳の先が少し赤い。
「それで、隣が……わ、わたくしの部屋です」
環はそれだけ早口に言って、さっさと次へ歩き出した。
廊下の奥には、戸が二つ並んでいた。
「この二部屋は、今は空いとるんよ」
スズが言った。
「せやけど、ここの鍵も、あたしは持ってへんのよ。
開けて中を確かめるときは、言うてね。長いこと閉め切りやから、埃もたまっとるやろうし。掃除、手伝うからね」
「ありがとうございます。そのときは、お願いします」
廊下の突き当たりには、硝子の入った戸があった。
環が戸を開けると、さっと潮の匂いのする風が吹き込んできた。
「ここは、いわゆる、バルコニーなんですよ。わたくしのお気に入りの場所です」
環は露台から見える景色を柔らかい笑顔で眺めていた。
露台は小さな木の手すりに囲まれた、張り出しの縁台のような場所だった。
二、三人が並べばいっぱいになるほどの広さだが、そこには神内坂の街並みと、春の陽できらきらと輝く海が広がっていた。
坂の上で見たのと同じ美しい景色だ。
けれど、少し高いところから見ると、海はもっと広く見えた。
「ええ景色やろ?ここは物干し台とは別でね、ゆっくり一服できるところなんよ」
スズも景色を見ながら声を弾ませる。
「日が暮れてきたら港のほうに灯がともって、それはもう、きれいなんです」
環は露台の手すりに手をかけて、海のほうを見たまま言った。
さっきまでの慌てた声とは違う、穏やかな声だった。
「わたくしはここから見る神内坂がいちばん好きです」
静流は、環の横顔を見て、彼女があんなに楽しそうに「ほーむ、すいーと、ほーむ」と歌っていたわけが、少しわかった気がした。
静流も同じように海を見た。
「……今日の楽しみがひとつできました」
「ふふ……きっと驚きますよ」
しばらく、三人とも何も言わなかった。
廊下に戻ると、スズが天井の一角を指さした。
そこだけ板の色が違い、四角い蓋のようになっている。
「あそこの蓋を押し上げて、梯子を掛けたら屋根裏に行けるんよ。
梯子は露台とは反対側の突き当たりに寝かせてあるわ。
今はただの物置やけどね。気になったらまた中、見といてください」
「なるほど……」
「物置からは屋根の上の物干し台にも出られるんやけどね。毎回、梯子かけるんは面倒やし、みんな洗濯もんは、たいがい表の庭の竿で干しとるよ」
最後に案内されたのは、裏庭だった。
台所の勝手口にはいくつか草履があった。
拝借して外へ出ると、すぐ裏手は山へ向かう斜面になっていた。
石を積んで土留めをしただけの、手入れのされていない土地だ。枯れた草の間から、今年の若い緑が、好き勝手に顔を出している。
その足元に、小さな紫色が見えた。
静流は、気がつけばしゃがみ込んでいた。
すみれだった。
石垣の隙間に根を張って、春の陽にちいさく花を開いている。
「……この裏庭に、花を植えたら、きれいでしょうね」
「静流さんの好きにしたらええよ」
うしろで、スズが言った。
「印南さんは、お花、お好きなんですか?」
環が、また不思議そうに静流を見下ろしていた。
ズボンの膝が汚れるのも構わずしゃがみ込んでいる男が、よほど珍しいらしい。
「ええ。……好きですよ。花を見ている時だけは、少し楽になります」
「え?」
環は首を傾げている。
「あ……いえ。僕は神内坂からずっと西の岩岡という田舎の村の出なので……
自然が好きなんです」
静流は、少し照れて立ち上がった。
「岩岡……」
環はその名を覚えるように、小さく繰り返した。
花に浮かれて思わず余計なことを言ってしまったな。
誤魔化せただろうか。
静流が膝の土を払うと、背広のズボンにうっすらと土の跡が残った。
三人でひと回りして玄関のほうへ戻ってくると、ちょうど管理人室の前だった。
「これでだいたい全部やね」
スズは前掛けで手を拭いた。
「あたしはだいたい部屋におるさかい、何かあったら、いつでも言うてくださいね」
「はい。スズさん、ありがとうございました」
スズはええのよ、と言いながら廊下を歩いていく。
歩くたびに、ちりん、と小さな鈴の音がした。
環は、その場でしばらくもじもじしていたが、やがて小さく頭を下げた。
「わたくしも、これで……勉強が、ありますので」
「ええ。辻さんも、ありがとうございました」
「い、いえ……」
環は階段を数段上ったところで、くるりと振り返った。
「あの、印南さん!」
「はい?」
「さっきのは……ほんまに、ちゃいますからね!」
それだけ言うと、環は返事も待たずに、たん、たん、たん、と階段を駆け上がっていった。
静流は、首を傾げながらしばらくその場に立っていた。
何が、ちゃいます、なんだろう。
二階の奥で戸の閉まる音がして、廊下はしんと静かになった。
そして静流は、管理人室の戸をゆっくりと開けた。
八畳の部屋だった。思いのほか広い。押し入れもある。
畳は少し日に焼けていたが、思っていたほど傷んではいない。
畳にも文机にも、うっすらと埃が積もっていた。
二年、誰も入っていないというのは本当らしい。
正面の障子を開けると縁台があって、硝子戸の向こうに、前庭と、門の脇の若い桜と、坂の下の海が少し見えた。
部屋の奥の壁には棚がひとつ。
文机の上には、紐で綴じた帳簿らしきものが何冊か置いてある。
棚には書類の束が重ねられていた。
土壁のあいだの柱には、小さな板が打ちつけてあった。
釘が何本か並んでいて、そのうちいくつかに、鍵がかかっている。
その端の一本に、見慣れない形のものがあった。
真鍮でできた、蝶の羽のような持ち手。
その先に、四角い穴の開いた短い軸がついている。
静流はそれを手に取って、しばらく眺めた。
「これは……」
それから、玄関のほうを振り返った。
文字盤の、あの二つの小さな穴。
間違いないだろう。あの時計の鍵だ。
「……なんだ。ちゃんと、あるじゃないか」
思わず、笑ってしまった。
このまま玄関へ行って、巻いてみようか。
一瞬、そう思ったが、静流は首を横に振った。
舶来の、二年も眠っていた時計だ。
勝手がわからないまま回して、壊してしまっては元も子もない。
なんにせよ、あの時計の中も見て、分からないことはちゃんと調べてからにしよう。
静流は巻き鍵を、元の釘にそっと掛け直した。
それから静流は、縁台に出て、腰を下ろした。
坂の下からは、海の風が上ってくる。
ほんの少し、夕方の匂いが混じり始めていた。
縁台に座ると、岩岡の光景を思い出す。
朝も、夜も、ずっと座っていた。
寂しくて、苦しくて、悲しくて。
それでも、時が経てば、少しは楽になるだろうと思っていた。
そのまま三年が経った。何も、変わらなかった。
今日は、神内坂に来て、また縁側に座っている。
静流はひとつ息をはいた。
……なあ、小春。
今日だけで、ずいぶんたくさんの人に出会ったんだ。
歌いながら坂を上ってくる娘さんに、泣きながら坂を駆け下りていく物書きの先生。
窓から顔を出して大声で笑うお姉さんに、鈴の音のおばあさん。
それから、恥ずかしがり屋の小さな女の子。
ちゃんと自己紹介もできた。皆さんも、きっと歓迎してくれたと思う。
もし……君が隣にいたら、きっと一緒に楽しそうに笑って、
皆さんとも、すぐに仲良くなっただろうね。
僕は、少しずつしか、できないと思うけど。
小春。この風見館には、驚かされることばかりだったよ。
いろいろ豪華なものばかりでさ、玄関の時計はね、なんと舶来品らしいんだ。
……今は、止まってるんだけどね。
僕は、二年も止まったままなのは、もったいないと思ったんだ。
ずっと、あそこに立ってるだけなんだ。
なんとかしてあげたいよね。
静流は、小春に語りかけながら、はっとした。
思わずネクタイを強く握る。
「いや、僕が……言えたことではないか」
静流は、少し俯いて、笑った。
「なんだか、馬鹿みたいだな……」
それでも、あの時計を見たら、何故か動かしてみたいと思ったんだ。
どんな音がするのか、聞いてみたいと思った。
鍵も、ここにある。
あとは、僕がちゃんと回せるかどうか、だけど。
三年、座っていただけの僕はどうなんだろうな。
静流はしばらく、縁側の景色を見ていた。
やっぱり、僕は変わってない。
「……それでも、まずはあの時計を動かしてみるよ」
今日は、小春に、話したいことが本当にたくさんあるんだけどな。
時計だけじゃないよ。
ガスの台所に、立派な風呂。きれいな便所。
二階の露台に、屋根裏部屋。裏庭では花も育てられそうなんだ。
もう少し日が暮れたら……
露台からの神内坂の夜景を見てみようと思ってるんだ。
とてもきれいなんだって……
小春も、神内坂、行ってみたいと言ってたから……
静流はまた、ゆっくりと俯く。
裏庭の土の跡が残ったズボンの膝には、ぽつり、ぽつりと小さな染みが浮かんでいく。
久しぶりに、楽しかった気がしたんだけどな。
なのに今日は、無性に、君に会いたいよ。




