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第三話 玉の装い、瑠璃の床

気がつけば、皆の目が静流に集まっていた。


静流はそっと柳行李を足元に置いた。

それから中折れ帽を取り、胸の前に持って柔らかく笑った。


「皆さん、改めまして」


ひとりずつ、顔を見る。

二階の窓で頬杖をついたままのメイミーと竹籠を抱えた環。

土間に立つスズと、その前掛けの陰から半分だけ顔をのぞかせている幸子。


「僕は印南静流と申します。歳は二十六になります。

今日から、この風見館の管理人をさせていただくことになりました」


一度言葉を切り、静流はもう一度、皆の顔を見回した。


「正直に申しますと、下宿の管理人というのは初めてで、わからないことばかりです。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが……

どうぞ、よろしくお願いいたします」


静流は深く頭を下げた。


顔を上げてから、静流は自分で少し驚いていた。


人に囲まれて自己紹介をするなんて、いつ以来だろう。

岩岡に戻ってからの三年は、人と話すことさえ少なかった。

きっと声が上ずるか、言葉に詰まるか、そのどちらかだろうと思っていた。


それなのに、言葉は不思議なほど素直に出てきた。


教壇に立っていた頃の感覚が、まだ身体のどこかに残っていたのだろうか。

小さな顔がずらりとこちらを向いていた、あの教室。

話す前に、ひとりずつ顔を見る。そうすると、不思議と落ち着いたものだった。


それとも……さっきからのどたばたで、すっかり肩の力が抜けてしまったのか。


「まあまあ」


最初に口を開いたのはスズだった。


「ご丁寧な挨拶をされるお人やねぇ、しっかりしてはるわ」


目尻の皺が、また深くなる。


「静流さんはえらい落ち着いてんなぁ!ネクタイはなんか曲がっとるのになぁ……」


二階のメイミーは感心しているのか、それとも面白がっているのか。


「……それは、言わないでください。背広なんて久々に着たもので……」


静流が思わず苦笑いしながら胸元に手をやると、メイミーはけらけらと笑った。


スズの前掛けの後ろでは、幸子がさっきより少しだけ多く顔を出していた。

だが静流と目が合うと、また引っ込んだ。


そして隣では環が、じっと静流を見ていた。


さっきまでの気まずそうな顔ではない。

首をほんの少し傾げて、何か珍しいものでも眺めるような目だ。


どうしたのかな。僕の顔に何かついているのだろうか。


静流が目を向けると、環は慌てて竹籠を持ち直し、すまし顔で前を向いた。


「よっしゃ。うちも降りるわ!」


二階の窓から、メイミーの顔がひょいと引っ込んだ。

とん、とん、とん、と階段を下りてくる軽い足音がして、やがて土間の奥に、襦袢に羽織をひっかけたままのメイミーが現れた。


二階の窓からでは気づかなかったが、すらりと背が高い。

メイミーは上がり框にしゃがみ込むと、スズの後ろの幸子に目の高さを合わせた。


「さっちゃん。ばあちゃんはな、これから管理人さんにお家ん中を案内せなあかんねん。

せやから、さっちゃんは姉やんと遊ぼ。お手玉する? あやとりする?」


幸子はスズの顔を見上げた。

スズが小さくうなずくと、幸子はおずおずと前掛けから手を離し、メイミーの差し出した手を握った。


「静流さん、またあとでなぁ~!」


そしてメイミーは静流に手を振りながら、幸子と階段を上っていった。

幸子は一度だけ振り返って、静流を見ていた。


「ほな、まずは静流さんのお部屋に荷物を置きましょか」


スズに促されて、静流は柳行李を提げ直し、靴を脱いで上がり框に上がった。


「わ、わたくしは、お魚を台所に置いてきますね……」


環も編み上げの靴の紐を、するするとほどき始めた。


管理人室は、玄関を上がってすぐ脇にあった。

襖ではなく、しっかりとした木の戸がはまっている。


「ここが管理人さんのお部屋やね。……せやけど、あたしはこの部屋の鍵を持ってへんのよ。前の管理人さんがおらんようになってからはだれも入ってへんと思うよ」


「鍵なら、預かってきました」


静流は柳行李を下ろし、蓋を開けた。

着替えの間に挟んでおいた布の包みを解くと、大小いくつかの鍵を麻紐でまとめた束が出てくる。義父から渡されたものだ。


何本か試して、ようやく鍵穴の奥で、かちり、と音がした。


戸を開けると、閉め切った部屋の、乾いた畳の匂いがした。

静流は柳行李を入口の脇に置き、中折れ帽をその上に載せた。


部屋の中をゆっくり見るのは、あとにしよう。


戸を閉めて振り返ると、スズは上がり框の向こうを見ていた。

あの、背の高い古時計だ。


「静流さん、この時計なあ」


スズは時計の前まで歩いていって、静流を手招きした。


近くで見ると、ずいぶんと立派なものだった。


静流の背丈ほどの黒ずんだ木の箱。細かな彫り物の入った頭の部分に、白い文字盤がはまっている。

数字は見慣れない西洋のもので、文字盤の下のほうには、異国の文字で何か小さく書かれていた。

胴の部分には細長い硝子の扉がついていて、その奥に、真鍮の振り子が静かに下がっている。


「これ、舶来もんらしいんやけど、扱い方がわかる人がだれもおらんのよ。

前の管理人さんがおらんようになってから、ずうっと止まったまんまや」


「そうですか……」


舶来品って……この時計、とんでもなく高価なものではないだろうか。


「あたしは、こういう機械もんはどうも苦手でねえ。触ったこともあらへんのよ」


スズはそう言って、困ったように笑った。


「わたくしもずっと気になってました……。前は、動いてたのですか?」


環が後ろからひょっこりと顔を出して尋ねてきた。


「動いとったよ。この時計、ぼーん、ぼーん、て鳴るんよ。ええ音やったなぁ」


静流は硝子の扉に顔を近づけた。


振り子のうしろには、筒の形をした重そうな分銅(ふんどう)が二本、吊り下がっていた。

文字盤には、ちょうど鍵を差し込めそうな小さな穴が、二つ開いている。


片方が時計を動かすためのもので、もう片方はなんだろう。

鐘を打つためのものだろうか。


この穴に鍵のようなものを差して回せば、分銅が巻き上がるのかもしれない。

振り子の真鍮は、硝子越しにもうっすらと曇って見えた。


なんだか置物になっているのはもったいないな。

館に時計の音がひとつあるだけで、きっと、ずいぶん違うだろう。


調べてみようかな。


「印南さんは、時計、お好きなんですか?」


環が何かを期待するような目で、静流の顔をのぞき込んでいた。


「いえ……好き、というほどでは。

ただ、立派な時計なのに止まったままなのは、もったいないなと思って」


静流の言葉に環の目がきらきらと輝きはじめた。


「そ、それじゃ……!この時計、動かすんですか!?」


「できればそうしたいです。少し、調べてみますね」


「ほほ。ほな、それも管理人さんのお仕事やね。あたしもまたあの音、聞きたいわ」


スズは満足そうに頷く。


「わ~っ!楽しみやぁ!わたしも手伝いたいなぁ!やりたいなぁ!」


環がぴょんぴょんと跳ねて言った。


「あらぁ、さっきまでの『わたくしたまきちゃん』はどこいったんやろうかぁ」


スズはからからと笑いながら廊下の奥へ歩き始める。

環を見て、くすりと笑う静流がスズのあとに続く。

その後ろを一歩ぶん空けて、顔を赤くした環が身を縮こまらせながらついてくる。


「前の家主さんはね、ちょっとごたごたがあって、ここを手放しはったんよ。

そのときに住んではった人らも、みんな出ていってしもうて。残ったんは、あたしだけ」


「スズさんは、ずっと風見館に?」


「そらもう、この館が建ったときからおるからねえ。十年はお世話になっとります。

二年くらい前までは、ちゃんとした管理人さんがおったんやけどね。

今の家主さんも、ときどき様子を見に来てくれてるんやけど……」


お義父さんも来てたのか。あの人は何も言ってなかったな。

いや……僕が何も聞かなかったからだろうか。


「家賃の支払いは今、どうしてますか?」


「みんな書留で、家主さんのところへ送ってはるよ。

あたしがしとったんは、郵便を受け取って配るのと、お客さんの取り次ぎくらい。

あとは廊下やら台所やら、目についたとこを掃除するくらいやねえ」


「それは……ありがとうございます」


静流が頭を下げると、スズは、ええのええの、と手を振った。


「掃除の当番みたいなきまりごとは今はないんよ。

そこらへんは、管理人さんがおいおい考えてくれたらええと思います」


廊下の奥には、風見館の共用台所があった。

そこは静流の想像よりもずっと明るく、広々としていた。


奥の土間。流しの脇には水道の蛇口があり、その隣に、黒い鉄の焜炉(こんろ)が据えてあった。そこから管が壁に伸びている。


「すごいな……ここはガスなんですね」


静流は思わず声を上げた。

岩岡の実家の台所には、今も竈しかない。


それに土間の手前は板間になっており、卓を置けばここで食事ができそうだ。


全然、埴生の宿じゃないだろう。


「そうなんです!ガスなんです!」


平静を取り戻したのか、環が焜炉の前に立ち、少し得意そうだ。


「ここの栓をゆっくりとひねって、マッチを近づけたら、ぽっと火がつくんです。

薪もいらへんし、お湯もすぐ沸くし……あ、でも、栓をひねったままだとすごい危ないので、そこだけ気をつけてくださいね」


「なるほど……」


ガスは使ったことがないけど……一度試してみたいな。


「台所は、みんな好きに使うてるけど、静流さんは男の人やからねぇ。

なんにせよ、使うたらちゃんときれいにしておくこと。それくらいやね」


流しの脇、日の当たらない棚には、経木の包みが置いてあった。


辻さんが買った魚だろうか。


「たまに、みんなで一緒にご飯を食べることもあるんですよ。

めい姉が急に『今日はみんなで鍋しよ!』って言い出すんです!」


環は板間の上で楽しそうに手を広げてくるりと回る。


「たしかに。こんなにいい台所があるなら、そういうのも楽しそうですね」


そして次に案内されたのは、台所の向かいにある浴場だった。


戸を開けて、静流は目を丸くした。


白いタイルが張られた洗い場に、檜(ひのき)の大きな湯船。

窓からは明るい光が差し込んで、まるで温泉宿の風呂のようだった。


「いやいや、これまた、立派ですね……」


なんだこれ。風呂があるだけでも驚きなのに……。

そもそも旅館でもこんな立派な風呂はなかなか無いと思うけど。


これじゃ、玉の装いに瑠璃の床じゃないか。


「ほんまに、立派なんやけどねえ」


スズは苦笑した。


「このお風呂は、沸かすのが大ごとなんですよね……」


環がすかさず付け加えた。


「水を汲んでこの広い湯船をいっぱいにしてから、外の焚き口で薪をくべて、

沸くまでずうっとだれか番をしてないといけないんです……」


それは……そうだろうな。


「せやから、みんな坂の下のお風呂屋さんに行ってしまうんです。

このお風呂に入ったのはまだ二回だけですけど、とっても気持ちいいですよ!」


「……これも、もったいないですね」


静流は檜の湯船の縁を、そっと撫でた。

乾ききった木肌が、指先にさらりと触れた。


台所と浴場のさらに先、廊下の突き当たりには便所があった。

ちゃんと小用と大用で分かれている。これは助かる。


「新しい型やからね、きれいやし、匂いもだいぶましなんよ。もちろん汲み取りやけどね」


「汲み取りは、どなたが?」


「月に何べんか、近所で大根作ってはる山中さんて人が来てくれはるよ。

大根か代金をちゃんと置いていってくれはるわ」


「ああ、それはいいですね」


静流は思わず、ぱっと顔を明るくした。


「町の肥やしは、よく効くんです。人の食べているものも違いますから。

うちの畑でも、春の前にはよく――」


そこまで言って、静流は隣の気配に気がついた。


環は両手を胸の前で握りしめ、半歩――いや、一歩、静流から離れた。引きつった表情をしている。


……しまった。

どうやら、今度は話題を間違えたらしい。


「……ええと。次に、行きましょうか」


「ほほほ」


スズだけが、いかにも楽しそうに笑っていた。


一階の廊下を戻りながら、スズは戸のひとつひとつを指して教えてくれた。


「ここが、あたしの部屋。あっちは幸子ちゃんとお母さんのナミさんのお部屋。

ナミさんは昼はお勤めに出てはるから、夕方帰ってきはったら、そのとき挨拶したらええわ」


「わかりました」


「それから、いちばん奥が文彦先生」


その戸は、半分ぶんほど開いていた。

くしゃくしゃに丸めた紙がいくつも廊下に転がり出ている。


静流はひとつ拾い上げかけて、やめた。

人の書いたものを、勝手に見るものではない。


「文彦さんね、いっつも、戸を閉めないんです……」


環が、あきれたように言った。


静流は苦笑いしながら、廊下に膝をつく。

丸まった紙をころころと、部屋の中に優しく戻してから、部屋の戸をそっと閉めた。


これも、これからの僕の仕事になるのかな。

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