第二話 Home, Sweet Home
高く舞い上がった桜の花びらが、坂の上の青空へ溶けていくのを、静流はしばらく目で追っていた。
そして最後に、花びらの消えた手のひらをそっと握り、ひとつ息をついて、もう一度玄関のほうへ向き直った。
さて。
静流が風見館の引き戸に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「ほ〜む、ほ〜〜む、すい〜と、すい〜〜とほ〜むぅ〜」
坂の下のほうから、妙な歌声が上ってきた。
静流は、伸ばしかけた手を宙に止めた。
それはずいぶんと調子っぱずれな歌だった。
高いところで声がひっくり返り、伸ばすところで息が足りなくなって、妙なところで途切れる。
英語の歌らしいのはわかる。
けれど、何を歌っているのかまでは、さっぱりわからない。
それでも、とても楽しそうな声だ。
歌うことそのものを面白がっているのが、聞いているだけで伝わってくる。
「ぜあず、の〜、ぷれ〜す、らいく、ほ〜〜む〜……」
その節に、静流は聞き覚えがあった。
静流は手を顎に当てて目を閉じ、耳を澄ます。
このまじないのような節の正体を探る。
――埴生の宿だ。
代用教員をしていた頃、唱歌の時間に子どもたちとよく歌った。
窓を開け放った教室で、甲高い声と、調子の外れた声と、恥ずかしがって口だけ動かしている子の声と。
古いオルガンの音に合わせて、みんなで声をそろえた。
その懐かしい旋律に、英語の歌詞が乗っている。
愛すべき我が家よ 我が家が一番。
我が家ほど、よいところはない。
歌声の主は随分とご機嫌なようだ。
坂の下から段々と声が近づいてくる。
「お〜、ぜあず、の〜〜、ぷれ〜す、らいく、ほ〜〜〜むっ!」
最後の一節は、ひときわ高く、そして気持ちが良いほどに音を外した。
静流は思わず、笑ってしまった。
それから、門の外の坂道を振り返る。
桜の枝の向こうから、人影がひとつ、上ってくる。
若い、娘だった。
娘は跳ねるような足取りでくるりと半回転してみたり、両手を広げてみたり、片足でひょいと小石を飛び越えてみたり。
どうやら、踊っているようだ。
着物は裾を短めに着つけて、その下から編み上げの革靴が、紐の結び目までのぞいている。娘が跳ねるたびに、その靴がこつこつと軽やかに地面を叩いた。
頭には、三つ編みを輪にして結い上げたマガレイトと、大きなリボン。
彼女が跳ねるたびに、そのリボンが蝶のようにぱたぱたと揺れた。
腕に提げた竹の買い物籠からは、菜の花の黄色がのぞいている。
経木に包んだ魚らしき包みと、パン屋の紙袋がひとつ。
帯のあたりでは、何か小さな銀色の球が、陽の光を弾いてちかちかと光っていた。
「ほ〜む、ほ〜む、すい〜と、すい〜〜と……」
娘はまた最初から歌い出しながら、最後の坂を、とん、とん、とん、と弾むように上りきった。
そして、門の前で両手を広げ、くるりと一回転したところで――
静流と、目が合った。
歌が、ぴたりと止まった。
片足を上げかけたまま、娘は固まった。
静流も、目を見開いて固まっている。
風が吹いて、門の脇の若い桜が小さく揺れる。
屋根の上では、風見鶏が、きい、と鳴いた。
不思議な体勢で固まったままの娘の顔が、みるみるうちに耳の先まで赤く染まる。
それから彼女は、上げかけていた片足をそろりと下ろし、竹籠を両手で胸の前に持ち直した。
背筋をしゃんと伸ばし、顔いっぱいに、ぎこちない笑みを貼りつける。
「ご……ごきげんよう~……」
まるで今までの全てをなかったことにするかのような挨拶。
静流もそうしてあげたかった。
だが、顔いっぱいに貼り付けられた娘の引きつった笑みが、かえって事態の気まずさを浮き彫りにしていた。
「……ご、ごきげんよう」
静流は、つられて頭を下げていた。
ごきげんよう、などという挨拶を口にしたのは生まれて初めてだった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
娘の目が、静流の顔から、型の崩れた中折れ帽へ、足元の柳行李へ、それから風見館の玄関へと、順番に移っていく。
何かに思い当たったように、その大きな目が、さらに大きく見開かれた。
「あ、あの……もしかして」
娘は、おそるおそる口を開いた。
「新しい管理人さん……で、いらっしゃいますか?」
静流は中折れ帽を取り、背筋を伸ばして挨拶をした。
「ええ。印南と申します。今日から、こちらでお世話になります」
「やっぱり……」
娘は聞き取れないほど小さな声でつぶやいてから、慌てて深く頭を下げた。
「わ、わたくしは辻環と申します。
風見館のお部屋を、お借りしておりまして……
今日か明日あたりには新しい管理人さんがいらっしゃると伺っておりました……」
一言ずつ、丁寧に言葉を選んでいるのが、手に取るようにわかった。
それでも言葉の端々にはなまりがのぞいている。
「そうでしたか、辻さん。これから、どうぞよろしくお願いします」
静流はそう言ってから、何か気の利いたことを付け加えなければいけないような気がして、少し考えた。
「……埴生の宿、とても楽しそうでしたね」
環の肩が、びくりと跳ねた。
「や、やっぱり聞いてはったんですか!? 坂の下から……全部!?」
叫んでから、環ははっと口を押さえた。
「あ!……いえ、あの……聞いて、らしたんですか」
「ええ、まあ。わりと、はじめのほうから。
最初はなんの歌か随分悩みましたが、ちゃんと、わかりましたよ?」
静流は、にこりと笑った。
「…………」
環は竹籠を抱えたまま、うつむいてしまった。
頭のリボンまで、しおれて見えた。
……しまった。
褒めたつもりだったんだけど、どうやら、言葉の選び方を間違えたらしい。
静流は、そっと中折れ帽を被り直して言う。
「……辻さん。ええと、とりあえず、中へ入りましょうか」
「は、はい……。ご案内、します……」
環が門をくぐり、二人は、なんとも言えない微妙な空気のまま玄関の前に並んだ。
前庭の物干し竿には、誰かの手拭いが一枚、のんびりと風に揺れている。
静流は玄関の引き戸の前に立ち、ふたたび手を伸ばしかけたが――
そのときだった。
がらがらがらぁっ、と。
引き戸が内側から、ものすごい勢いで開け放たれた。
「おあぁぁぁ〜〜っ!生きてて、ごめんなさぁぁぁいっ!!」
悲痛な叫び声とともに、ひょろりと背の高い男が飛び出してきた。
よれよれの着流しに、ずり落ちかけた丸眼鏡。
伸び放題の髪を振り乱し、無精ひげの顔を涙でぐしゃぐしゃにして、男は静流と環のあいだをすり抜けると、下駄を鳴らして門の外へ駆け出していった。
男とのすれ違いざま、ふわりとインクの匂いがした。
静流は伸ばしかけた手をそのままに、呆然と立ち尽くした。
からん、ころん、からん。
男の泣き声が下駄の音と一緒に、坂を転がり落ちるように遠ざかっていく。
「ちょっとぉ!文彦さぁん!? 石段で、こけんといてよぉ〜!?」
環が門の外に向かって、声を張り上げた。
……心配するところは、そこなのか。
確かに危ないけども。
僕は、生きててごめんなさいなんて言葉、今日初めて聞いたよ。
すると、静流の頭の上から、からからと笑う声が降ってきた。
見上げると、二階の窓がひとつ開いていて、女がひとり、窓枠に頬杖をついて身を乗り出していた。
襦袢の上に羽織を一枚ひっかけただけの、なんともしどけない格好だった。
少し赤みがかった髪を、肩のあたりで無造作に下ろしている。
春の陽を受けて、その毛先が燃えるように透けていた。
「たまきぃ、いつものアレやでぇ!相変わらずおもろいなぁ!」
女は腹を抱えて笑いながら、それから坂の下に向かって、両手を口に添えて叫んだ。
「文彦せんせぇ〜!お土産はあまーいお菓子で頼むでぇ〜!」
坂のずっと下のほうから、泣き声まじりの「カステラ~~!?」という返事が、
かすかに聞こえた。
「たまきぃ!聞いたぁ?やったなぁ!今日はカステラらしいで!!」
赤毛の女は心の底から楽しそうに環に大声を張り上げる。
静流は口を半開きにしたまま、窓の女と、坂の下と、隣の環を、順番に見た。
「ちょっとぉ!めい姉!」
環が二階の窓を見上げて、大きく手を振った。
さっきまでの丁寧な口ぶりはどこへやら、すっかりくだけた声になっている。
「風見館の新しい管理人さん、ようやく来はったよぉ〜!」
「え、管理人さん?」
窓の女の視線が、静流をぴたりと捉えた。
それから、その切れ長の目が、すうっと細くなる。
最高に面白いものを見つけた――と、顔に書いてあるような笑みだった。
「へぇ~!!お兄さんが、新しい管理人さん?」
「は、はい。印南静流と申します。今日から、お世話になります……」
女は窓枠に頬杖をついたまま、上から下まで、静流をじっくりと眺めた。
曲がったネクタイのところで、その視線がほんの一瞬止まって、口の端がにんまりと持ち上がる。
値踏みされているような、面白がられているような、なんとも落ち着かない心地だった。
「うちは、メイミーって呼んでな!よろしゅうねぇ!」
メイミーは二階の窓から静流に向かって大げさに手を振る。
「めいみい……さん?」
いや、少し赤毛だけど、どう見ても外国の人ではないだろう。
「メイミーやで。静流さんは発音が固いなぁ!」
女は、けらけらと笑った。
「たまきとはもう挨拶したんやろ?あの歌どうやった?いっつもあの調子やから、たまきが帰ってきたらすぐわかんねん!」
「もう!めい姉ぇっ!」
環が真っ赤になって叫ぶと、メイミーはますます愉快そうに笑った。
「ほんで、さっき泣いて飛び出していったんが、文彦せんせ。気にせんでええよ。
いつものことや。夕方なったらお土産ぶら下げて、けろっとした顔で帰ってくるわ」
「はあ……」
静流は、それだけ言うのがやっとだった。
そのとき、開け放たれたままの玄関の奥から、ちりん、と小さな鈴の音がした。
「やれやれ。今日もまた、えらい騒がしいねえ」
穏やかな声とともに、小柄な老女が、ゆっくりと土間に姿を現した。
地味な縞の着物に、黒の前掛け。
白髪を小さくまとめて結い上げ、背筋はしゃんと伸びている。
皺の深い顔に、いつも笑っているような、穏やかな目をしていた。
そして、その前掛けの後ろから、小さな顔が半分だけのぞいている。
おかっぱ頭の女の子だった。
黒目がちの大きな目で、じっと静流を見上げている。
目が合うと、さっと老女の背中に隠れ、また少しして、半分だけ顔を出した。
「あんさんが、静流さんやね。あたしは生田スズ(いくたすず)と申します。
ようおいでなさいました」
老女は静流に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「この子は幸子。お母さんがお勤めに出てはる間は、あたしが見てます。
ほれ、幸子ちゃん。管理人さんにご挨拶は?」
幸子はスズの前掛けをぎゅっと握ったまま、小さく首を横に振った。
「ごめんなさいねぇ。この子、ちょっと人見知りやからね。
そのうち慣れるやろうからねぇ」
スズはそう言って、目尻の皺を深くした。
二階の窓からは、メイミーがまだ頬杖をついて、にやにやとこちらを見下ろしている。
隣では環が竹籠を抱えたまま、さっきの歌のことをまだ引きずっているのか、ちらちらと静流の顔をうかがっている。
坂の下からは、文彦の泣き声はもう聞こえない。
スズの後ろからは、幸子が半分だけ顔をのぞかせている。
屋根の上で、風見鶏がまた、きい、と鳴いた。
静流は柳行李を提げたまま、中折れ帽の下で目を丸くしていたが、
ふと、くすりと笑う。
「玉の装い、うらやまじ。のどかなりや、春の空……だったかな」
今日からは、ここが僕の家だ。
我が家ほど、よいところはない。
そう思えるようになればいいな。




