第一話 坂の上の風に託して
港のほうで、汽笛がひとつ長く鳴った。
その音は煉瓦敷きの大通りを渡り、商館の鎧戸を撫で、下町の瓦屋根を越えて、山のほうへとゆっくり昇っていく。
市電を降りたばかりの印南静流は、停留所の端に立ったまま、汽笛の消えていく先をぼんやりと目で追っていた。
停留所の琺瑯の名札には、『神内坂下』とある。
手には使い込んだ小さな柳行李がひとつ。頭には型の崩れた中折れ帽。
紺の背広は、婚礼のときに一度あつらえたきりのもので、三年ぶりに袖を通してみると、肩のあたりが少し余った。
ネクタイは鏡の前で三度結び直しても、まだわずかに曲がっている。
静流は懐から一枚の書きつけを取り出して広げる。
義父の、太くて不器用な筆の跡。
『市電ヲ降リル。坂ヲ上ル。上リキツタ所』
それだけだった。
静流はため息をつきながら書きつけを畳み、懐にしまった。
「小春。君のお父さんは、相変わらずだよ」
人に下宿屋をひとつ任せておいて、道案内はこれだ。
……いや、文句なんか言ったら罰が当たるな。
あの人なりに、僕のことを案じてくれていたのは痛いほどにわかっている。
静流はふっと笑う。
上れと言われれば、上るしかない。
坂の上り口は、大通りのずっと先にかすんで見えていた。
静流の目に映る大通りの街並みは華やかで、賑やかだ。
煉瓦の歩道の両脇には鈴蘭の花房をそのまま吊るしたような、洒落た街灯。
その下を洋装の紳士や、袴に編み上げの靴を合わせた娘たちが行き交っていく。
角の店からは焼きたてのパンの匂いが漂い、向かいの喫茶店の硝子戸の奥では、蓄音機が聞き慣れない軽やかな音楽を鳴らしていた。
これがジャズというやつだろうか。
港のほうでは荷揚げの起重機が白い蒸気を吐き、その湯気が春の陽にほどけて消えていく。
「なんだか……別の国に来たみたいだな」
大通りでは誰もが、行く先を知っている足取りで歩いていた。
その流れのなかで、静流だけが川の中の小石のように立ち止まっている。
静流はゆっくりと中折れ帽をかぶり直した。
それで何が変わるわけでもないのに、指は鍔の上で、しばらく落ち着く場所を探していた。
「君ならきっと、目を輝かせてただろうな」
あのパン屋の前で足を止めて、僕の袖を引っぱって。
僕は財布の中身を数えながら、結局ひとつ買ってやったんだろう。
ふと、そんな光景があまりに自然に目に浮かんだ。
静流はまた少し笑って、坂のほうへ歩き出した。
大通りを一本外れると、街は急に顔を変えた。
軒を寄せ合う長屋、二階の窓から突き出た物干し竿、はためく洗い物。
どこかで豆腐売りのラッパが間延びした音を立て、路地の奥からは子どもたちの笑い声が弾んで聞こえてくる。
古い瓦屋根の隣に真新しい西洋風の家が建ち、その隣には駄菓子屋がある。
新しいものと古いものが、互いに肩を押し合いながら、ひとつの街に収まっている。
路地を抜けると、石段が現れた。
見上げると、石段は家並みの隙間をうねりながら上へ上へと続き、その先はそのまま坂道になって、さらに山のほうへと伸びている。
石段の両脇には桜の木が並び、枝の先で、ほんのひとつふたつ、薄紅の花がほころび始めていた。
静流は石段の桜の木の前で、足を止めた。
「君がいない春も、これで三度目だよ」
また気づけば、声に出ていた。
だが声に出したところで、返ってくる声があるわけでもない。
それでもこの三年、静流は何かあるたびに、こうして小春に話しかけてきた。
静流は行李を持ち直し、一段目に足をかけた。
一段、また一段。石の角はすり減って丸く、ところどころに苔がついている。
神内坂――君も行きたがってたな。
静流は、まだ上へ上へと続く石段と坂を見上げる。
正直に言うとね、小春。
僕は今、少しだけ怖いんだ。
お義父さんに言われるまま、神内坂に来たけど、下宿屋の管理人なんて、何をすればいいのかもよくわからないよ。
七つある部屋には、どんな人が住んでいるのかも聞いてない。
管理人は家賃を集めて、掃除をして、揉め事があれば間に入るんだそうだ。
僕にそんなことができると思う?
この三年、僕がしてきたことといえば、岩岡の実家の畑仕事をちょこちょこ手伝って、あとは縁側に座って、遠くに見える山と海を眺めていただけだ。
きっと君も、見てただろ?
朝が来て、夜が来て、また朝が来て。
僕はただ、座っていただけだ。
――石段の途中、踊り場のように広くなったところに、小さな祠があった。
苔むした石の屋根の下に、色の褪せた幣が下がっている。
その前に、誰が供えたのか、竹の皮に包んだ握り飯がひとつ。
ちょこんと置かれていた。
静流は足を止め、帽子を取って、祠に小さく頭を下げた。
街の真ん中にパン屋があって、ジャズが鳴っていて、それでいてこういうものが、ちゃんと大事にされている。
山のほうから何かが下りてこないように。
それとも、こちらの暮らしを見守ってもらえるように。
どちらにしても、この街の人たちは、まだ山のことを忘れていないらしい。
岩岡の村にもこういう祠はあった。
子どもの頃、あれの前を通るときだけは、どんな悪たれでも急に神妙な顔になったものだ。
静流が振り返ると、神内坂の街並みが足元に沈み始めていた。
瓦屋根の波、洋館の尖った屋根、教会のものらしい十字架、煙突から立ちのぼる白い煙、その向こうには、海が見えた。
春の陽を受けて、一面がきらきらと細かく光っている。
港では、大きな汽船がまた一隻、ゆっくり入っていく。
もう一度、汽笛が鳴った。
さっきよりも少しだけ近くに聞こえた。
「……こんな坂、君の足じゃ、途中で音を上げていただろうね」
身体の弱かった君は、少し長く歩いただけで息を切らしていた。
それでも、どこかへ行こうと言えば、誰より先に支度をして、玄関で待っていた。
この石段の途中で、きっと君は立ち止まるんだ。
そしてこう言う。
『ねぇ静流さん、ちょっと休憩よ』
それから息を整えながら景色を見て、
『ほら、とってもきれいよ』
って、眉を八の字にして笑うんだ。
胸の奥が、またきゅっと縮んだ。
この痛みだけは三年経っても、ちっとも薄まらない。
ただ、痛みとの付き合い方に慣れただけだ。
静流は目を閉じて、ひとつ深く息を吸った。
それから、また歩き出した。
石段が終わり、ゆるやかな坂道になる。
家並みはまばらになり、代わりに木々の緑が濃くなっていく。
坂の上のほうから、山の匂いのするひやりとした風が下りてきて、海から上ってくる温い風とどこかですれ違う。
静流は、その境目に立っているような不思議な心地がした。
そして、坂を上りきった先に、その館はあった。
木造の二階建て。
横に張り重ねた杉板の壁は、柿渋を引いただけの木肌のまま、十年ぶんの陽と潮風を吸い込んで深い茶色に落ち着いていた。
その落ち着いた木の色を額縁にして、行儀よく並んだ縦長の上げ下げ窓の硝子が春の空の青をきらきらと映し込んでいる。
玄関の上には小さな庇がせり出し、門の脇には、まだ若い桜が一本、つぼみをふくらませていた。
建ってからまだ十年ほどだと義父は言っていたが、たしかに、くたびれたところはほとんどない。
かといって新しすぎもせず、その館はちょうど人の手に馴染み始めたくらいの居心地のよさそうな顔をしていた。
そして屋根のいちばん高いところに、黒い鉄の風見鶏が一羽。
海からの風が吹き上がってきた。
風見鶏は、きい、と小さくきしんで、ゆっくりと胸を海のほうへ向けた。
門柱に、木の看板が掛かっている。
――風見館。
「ここか……」
静流は小さくつぶやいた。
なんだか名前のとおりの建物で少しおかしかった。
門をくぐり、玄関の前に立つと、硝子戸越しに薄暗い土間の奥が見えた。
上がり框の向こうには背の高い古時計がひとつ、静かに立っている。
振り子は動いていない。
針は、いつのものとも知れない時刻を指したまま止まっていた。
巻いてやれば、また動き出すのかな。
静流は外からしばらく、その止まった時計を見つめていた。
それから館に背を向け、坂の下を見下ろした。
そこには、さっきまで自分がいた街が、すべて眼下に広がっていた。
ごみごみと肩を寄せ合う下町の屋根。
その合間を縫って走る市電。大通りの煉瓦道と、洒落た街灯の列。
神内坂ならではの異人館が並ぶ山手の一角。港に林立する起重機と、白い蒸気。
その先にはどこまでも青い海。背後には深い山。
山と、海と、そのあいだにひしめく人の暮らし。
そのすべてが、ひとつの景色の中に収まっていた。
――そして、風が吹いた。
海の匂いと、山の匂いと、どこかの家で炊いている飯の匂い。
坂の途中の桜から散ったのか、気の早い花びらが一枚、静流の肩にふわりと乗った。
静流はその花びらを指先でつまみ、そっと手のひらに移した。
……なあ、小春。
今、なんだか胸のあたりが、少しだけ、軽くなった気がするよ。
自分でも驚いているけどさ。
ここへ来るまで僕はずっと、気が重くて仕方がなかった。
いや、今だって、不安なことは山ほどある。
君のことを思えば、また胸は痛みだす。
だけど、この景色を見ていたら、どういうわけだろう。
胸の奥のほうで何かが小さく跳ねてる。
何かが、ほんの少しだけ動いたのかな。
これから、どんな暮らしが始まるんだろうね。
どんな人たちが、この館で暮らしているんだろうね。
僕にはわからないことばかりだけど。
でも、この景色を見て、この風に撫でられたらさ、
わからないということが、今は少しだけ……楽しみだよ。
屋根の上で、風見鶏がまた、きい、と鳴った。
この気持ち、ちゃんと君にも伝えたいな。
静流は、手のひらをそっと空へ差し出した。
山と海のあいだを渡る風が、薄紅の花びらをさらって、坂の上へ高く運んでいく。
「小春、また花便りの聞かれる頃になったよ。
この坂の上の風に託して、届くといいな」




