第七話 奇人変人、久世文彦
玄関の明かりの下で、背の高い男はふと、足を止めた。
ずり落ちかけた丸眼鏡を、人差し指でくいくいと押し上げる。
一度、二度。
それから、縁台に座る静流のほうへ、首だけをぐうっと伸ばした。
それはまるで、珍しい鳥でも見つけたような目つきだった。
いやむしろ、その動きが珍しい鳥のようだ。
静流は思わず、背筋を伸ばした。
男はしばらく、静流の姿をしげしげと眺めていた。
やがて、その無精ひげの口元が、にんまりと持ち上がる。
そして下駄を鳴らして、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
「おやぁ……」
縁台の前で立ち止まると、男はもう一度、眼鏡をくいと押し上げた。
「おや、おや、おやぁ。……これはこれは、なんということだ……」
近くで見ると、思っていたよりずっと背が高い。
伸び放題の髪に、無精ひげ。よれよれの着流しの袖口は、インクで青く染まっていた。
けれど、昼間は涙でぐしゃぐしゃだったその顔は、すっかり晴れやかに乾いている。
「君だね。女子諸君が近頃、噂していた……新しい管理人さんだ。
そうだろう?」
「は、はい。今日からこちらでお世話になります、印南静流と申します」
静流は慌てて盆を脇へ寄せ、頭を下げた。
「おお……印南くん!」
男は、まるで宝物の名でも呼ぶように、その名を口にした。
「素晴らしい。印南といえば、播磨の古い野の名じゃないか。いにしえの歌人たちが、旅の途中に歌に詠んだ、由緒ある地だよ。
しかも、おそらくだが、君の名は静かに流れると書いて静流かい?」
「は、はい……」
たしかに、岩岡の村は印南野の台地の端だ。
よく知っているな、と静流は感心した。
「やはりそうか……実にいい名だ……。
名は体を表すというが、これはまた、なんとも詩情にあふれた名ではないか。
いやはや、実に美しいね。印南静流くん!」
「は、はあ……」
自分の名前をそんなふうに褒められたのは、生まれて初めてだった。
それにしても饒舌だ。その早口に、はぁ、とはい、しか返事が思いつかない。
「私は久世文彦。この館の一階の、いちばん奥の住人でね。
しがない物書きをしているのだよ」
文彦はそう言うと、縁台の端に、どっかと腰を下ろした。
断りを入れるでもなく、それはまるで、昔からの知り合いのような気安さだった。
「いやあ、それにしても、男だ。君は男の人だな、印南くん」
「……はい?」
「この館に、ついに私以外の男が来たのだ。これは事件だよ。およそ二年だ。
二年ものあいだ、私はこの館で、たった一人の男として暮らしてきたのだからね」
文彦は大げさに、宵の空を仰いだ。
静流は、その横顔をそっとうかがった。
昼間、泣き叫びながら坂を駆け下りていった人と、本当に同じ人なのだろうか。
どうにも、つかみどころのない人だ。
「あ、あの……久世さん」
「文彦でいいとも」
「では、文彦さん。……昼間は、その、大丈夫でしたか」
「昼間?」
「玄関から、泣きながら飛び出していかれたので。生きてて、ごめんなさい、と……」
言ってから、静流はしまったと思った。
本人を前にして口にするには、ずいぶんな言葉だ。
けれど文彦は、きょとんと目を丸くしたあと、ぽん、と膝を打った。
「あのとき、君もいたのか! あっはっはっは! これはまいったなぁ!」
少しも悪びれる様子がない。
それどころか、どこか嬉しそうですらあった。
「いや、心配をかけたね。これは私の癖みたいなものでね。いつものことなんだ。
智に働けば筆が角張り、情に棹させば筋が流され、意地を通せば締め切りで窮屈になる。とかくに物書きは世に住みにくい。住みにくいから、ときどき自ら坂を転がり落ちて、我が世を住みよくしているのさ」
「は、はあ……?」
さっぱりわからない。辻さんの歌より、難題だ。
「書くべきか、書かざるべきか、それが問題だ。いや、本当の問題はね、書けども書けども、わが原稿用紙はなお白きまま、ということでね。
じっと手を見たところで、インクの染みしか見えやしない」
文彦は、青く染まった指先を、ひらひらと振ってみせた。
「物書きというものはね、印南くん。筆を握ると、いつだって命がけなのさ」
そう言って、文彦は宵の空に向かって、あっはっは、と大笑いした。
静流は、なんと返していいのかわからなかった。
わからなかったけれど、その笑い声につられて、気がつけば自分も笑っていた。
この人は、きっと、大丈夫なのだろう。
少なくとも、今は。
「それにしても、二年は長かった」
文彦は急に、しみじみとした声になった。
「いいかい、印南くん。君もこれから、この館で暮らしていくなら、心得ておかねばならないことがある」
「は、はい」
「重要なことだよ。肝に銘じてくれ。まず女子という生態は、だね」
文彦は人差し指を一本、ぴんと立てた。
「第一に、群れる。群れて、笑う。何を笑っているのかは、群れの外にいる者には永遠にわからない。わからないまま、こちらはただ曖昧に微笑むほかないのだ」
二本目の指が立つ。
「第二に、女子の『なんでもないわ』は、なんでもなくない。『怒ってへん』は、たいてい怒っている。言葉と心が、裏返しに縫いつけてあるのだね。どんな辞書を引いても載っていない、女子だけの文法だよ。これは漢詩を読み解くよりも難しい」
「……そう、なんですか」
静流は、ほかに何か言おうとして、やめた。
文彦はお構いなしに、三本目の指を立てた。
「第三に、女子は甘いものを、どこか別の胃袋に収める。夕飯をたらふく食べたあとでも、甘いものとなれば話は別だ。あれはおそらく、腹の奥にもう一つ、菓子専用の蔵があるのだね。博物学上、きわめて興味深い事実だ」
「はあ……」
「われわれ男子は、腹が満ちれば寝る。腹が減れば起きる。
実に単純明快な生き物だ。だが女子は違う。女子は天体であり天災なのだ。
広くて、深くて、美しいが、ときどき火を噴いて地に降ってくる。
こちらはそのたびに、空を見上げて右往左往するしかない」
文彦は、ふうっと長い息をついた。
「この館に来てからというもの、私の毎日は天体観測でね。廊下でメイくんとすれ違えば、やれ髭を剃れだの、やれ帯が裏返しだのとからかわれる」
からかわれているというのか、なんというのか。
「辻くんには、戸を閉めろだの、石段で転ばんといてと毎度、注意される」
それは、昼間この目で見た。
「そして、スズさんには……」
そこで文彦は、なぜか声をひそめた。
「スズさんには、何もかも、見透かされているようなんだよ。おそろしい」
静流は、思わず吹き出しそうになった。
それは、なんとなく、わかる気がした。
「とはいえ、女子というのは実に美しい。だが二年もその美しさに囲まれていると、人は、溺れ死にそうになる。
たまにはくだらない話を、くだらないまま交わせる相手が欲しくなるものだろう?」
文彦は、くるりと静流のほうへ顔を向けた。
眼鏡の奥の目が、子どものように輝いていた。
「だから、印南くん。君が来てくれて、私は心底ほっとしているのだよ」
その言葉には、少しの飾りもなかった。
静流は、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
「……僕も、なんだか、ほっとしました」
「そうだろう、そうだろう!」
文彦は満足そうにうなずくと、縁台の向こう、坂の下の夜景を見下ろした。
「印南くん、この坂は、いいだろう?
下を見れば港と異人館。横を見れば長屋の物干し。洒落たものと、程よい市井の喧騒が、肩を寄せ合って暮らしている。神内坂は、その按配がまことに絶妙でね。
私はそれが、たまらなく好きなのだ」
静流も、同じ景色を見た。
坂の下の町に、ぽつり、ぽつりと灯がともっている。
港のほうでは、船の明かりが、暗い海の上で小さく揺れていた。
「わかります。僕も昼間、ここに着いたとき、同じことを思いました」
「そうか、わかるか! やはり印南くんとは気が合いそうだ!」
文彦は嬉しそうにあっはっはと笑う。
それから文彦は、思い出したように、手に提げていた包みを持ち上げた。
「おっと、忘れるところだった。これを」
差し出されたのは、紙に包まれた四角い箱だった。
受け取ると、ずしりと重い。包み紙の隙間から、甘い卵の香りがふわりと漂ってきた。
「大通りの菓子屋で買ってきたカステラだ。ちょうどいい、お近づきの品としよう。女子たちと一緒に食べてくれたまえ」
「いいんですか」
やっぱり、買ってきてくれていたのか。
静流は、思わず頬を緩めた。
「もちろんだ。もともと、館の皆へのお土産だからね」
静流は、箱を両手で抱え直して頭を下げた。
「ありがとうございます。皆さんと一緒に、いただきます」
静流は空になった盆とカステラを持って、縁台から管理人室に戻り、廊下へ出た。
ちょうど玄関の戸ががらりと開いて、下駄を脱いだ文彦が上がり框に上がってくる。
廊下を歩くあいだも、文彦の口は止まらなかった。
玄関の古時計がいつから止まっているかだの、二階の露台から見る夕焼けがいかに筆舌に尽くしがたいかだの、坂の下の駄菓子屋のばあさんが、いかに町のことを何でも知っているかだの。
話はあちらへ飛び、こちらへ跳ねる。
静流はただ相づちを打つので精いっぱいだった。
台所に入ると、静流はまず、カステラの箱を奥の共用の棚に置いた。
それから流しで、盆の上の皿と椀を洗った。
きゅっ、きゅっと器を拭き、棚に戻す。
ふと、背中のほうが静かになったのに気づいて、振り返った。
文彦は台所の入口に立ったまま、顎に手を当て、何もない宙の一点を見つめていた。
「……文彦さん?」
「来た」
「え?」
「来たのだよ、印南くん」
眼鏡の奥で、文彦の目が、きらりと光った。
「今だ。今なのだ。私の中の美しい世界の扉が、いま、ぱたりと開いた。
君という新しい風が吹きこんだおかげだ。今なら書ける。
最高の一行が、もう、そこまで来ている!」
言うが早いか、文彦はくるりと踵を返した。
「では、失礼! カステラは頼んだよ、印南くん!」
ぱたぱたと素足の足音が遠ざかり、廊下の奥で、戸の開く音がした。
だが戸が閉まる音は、しなかった。
静流がそっと廊下をのぞくと、文彦の部屋の戸は、開いたままだ。
隙間からは、電灯の黄色い明かりが、細く廊下に伸びている。
やがて、かりかり、かりかりと、万年筆が紙の上を走る音が聞こえてきた。
昼間は、泣きながら逃げ出したはずの原稿に、今は、ああして向かっている。
命がけ……か。
静流は、なんとも不思議なものを見た気がした。
しばらくのあいだ、戸の隙間から漏れる細い明かりを、ただ眺めていた。




