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理論は完璧 、伊東甲子太郎

翌朝。


正式に 新撰組 夏禍対策室長に就任した伊東甲子太郎は 自信満々であった。


「お任せください。 こんな暑さなど、問題になりません。江戸の伊東道場では、夏負けした者は一人もおりませんでしたから」


手には何冊もの養生書。


その隣には、分厚い帳面。


伊東は 隊士たちに前で、胸を張った。


「皆さん」


穏やかな笑みを浮かべながら語り始める。


「健康とは、まず理を知ることです」


隊士たちは顔を見合わせた。


「人は食によって生きます。水は清潔でなければなりません。睡眠も養生のうちです」


隊士たちは素直に聞いている。


「これらは古来より、養生書にも記されております」


「へぇ……」


感心する声が漏れた。


話は実に分かりやすかった。


難しい書物の内容を、誰にでも理解できる言葉へ置き換える。


それは伊東の得意とするところだった。


◇


数日後。


土方は炊事場で伊東を見つけた。


「伊東さん」


「はい?」


「その桶の水、濁ってるぞ」


「おや。どうしたんでしょう?」


「…うっ、匂うな、 おそらく 昨日今日じゃねえぞ。」


「えっ?」


「ああ」


「では、原因を調べましょう」


伊東は帳面を開いた。


「水質、気温、保存時間……」


「おい」


土方が桶を指差す。


「まず捨てろ。」


「……あ」


伊東は桶を見た。


「なるほど」


「なるほどじゃねぇ!」


「係はだれだ。」


「……さあ。使った者が汲み置くのではないでしょうかね」


「決めてないのか?」



後ろで様子を見ていた井上源三郎が、静かに口を開いた。


「先生。集団の暮らしってのはな、誰かがやるだろうじゃダメなんだ」


「上に立つ者は、誰が何をするのか、ちゃんと決めてやらねぇとな」


だが 伊東は穏やかに微笑んだ。


「そうでしょうか」


「私の門人は皆、きちんとしております。理を理解すれば、いちいちいわずとも、

おのずと自分の役目は分かるものです」


「学ぶこと――それが、すべての基本なのですよ」


井上は苦笑した。


「そうかねぇ」


そして桶の水を見た。


「そのご立派な門人さん、これ、目には入らなかったんかね」


「俺らぁ学はないが、水だけは毎日きれいに替えとるがな」


伊東は、少し首をかしげた。


実は――


伊東が江戸から連れてきた門人たちが、急に気が回らなくなったわけではない。


江戸でも京でも変わらない.


江戸の伊東道場では、 伊東の妻が、門人への細かな指示を、しっかりとしていただけである。


だが、伊東は、そのことに思いが至らない。


伊東の妻は あまりにも 有能だったからだ。


◇


夕方。


近藤と井上が土方に尋ねた。


「伊東先生はどうだった?」


土方は腕を組んだまま答えた。


「理屈は立派だ」


「ほう」


「隊士が熱を出して寝てる横で、一刻も養生法を講義してやがった」


近藤は思わず吹き出す。


「講義で熱は下がらんだろう」


井上も苦笑した。


「惜しい方ですなぁ」


土方は、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば……篠原はどうした。伊東の右腕だろう?」


近藤が苦笑する。


「それがな……」


井上が肩をすくめた。


「篠原泰之進も、この暑さで真っ先に夏負けして寝込んどるそうです」


一瞬、部屋が静まり返った。


土方は額に手を当て、小さく息をついた。


「……それでか」


近藤が、ぽつりと言う。



「そういうことですな」


井上もうなずいた。


だが――。


伊東という男は、不思議な人間だった。


少し足りないところもまた 魅力なのか、有能な人材が集まり 伊東を 補佐する。



京へ来てからは、その役目を篠原泰之進が引き受けていた。



土方は腕を組んだ。


「まあ……頭のいい奴ってのは、案外そんなもんだ。

浮世を回す 手 が ちょいとかけていやがるなあ」



井上が笑った。


「それで、どうします?」


土方はしばらく考えた。


「とにかく、篠原が回復するまで――」


ちらりと伊東のいる方を見る。


「先生には、別の役目を頼んだほうがいいな」


「別の役目?」


「ああ。人に講義するだけで済む仕事をな」


「なるほど」


井上が深くうなずいた。


「それなら先生も、隊も平和ですなぁ」

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