屯所にカワヤは一つしかない
おい! 近藤さん、早くしてくれ!」
廊下の隅にある厠の木戸を、原田左之助が必死に叩いていた。
「うるさい! 今それどころではない!」
木戸の中から怒鳴り返すのは、新選組局長、近藤勇である。
「こっちもそれどころじゃねぇんですよ!」
原田が木戸を叩く。
「だいたい、一つしかねぇ厠をいつまで独占する気だ! 早く出ろ!」
「少し待て!」
「待てねぇ!! 早く出ろ! この、すっとこどっこい!」
薬湯の湯気が立ちこめる一室で、井上源三郎と土方歳三は、そろってため息をついていた。
「またやってますな、若先生」
「ふん」
土方は腕を組んだ。
「近藤も原田も、節制って言葉を知らねぇのか。毎度毎度、厠ひとつで大騒ぎだ。見苦しい」
「まあ、腹だけは本人の心掛けではどうにもならんこともありますからなぁ」
「ところで、他の隊士はどうしている」
井上は、少し言いにくそうに答えた。
「……腹を下している者だけで、十人ほど」
「……十人?」
土方の顔から、さっと血の気が引いた。
「ええ」
井上は声を落とした。
「どうやら、やむにやまれず、近隣の百姓さんに迷惑をかける者もいるようで」
「…………」
「それで先ほど、壬生寺の御前様から申し出がありましてな」
「何だ」
「いざという時は、寺の厠を使ってよい、と」
土方は絶句した。
「……壬生寺から?」
土方は額を押さえた。
「……何てこった」
井上が声を落とす。
「御前様も、『武士としての矜持を守るためなら、遠慮はいらぬ』と」
「ありがたいが……恥ずかしすぎる」
土方は深く息を吐いた。
「で、さっき永倉たちが裏庭で穴を掘っていたが……あれは、もしや」
「厠を増やすんだそうです。とりあえず、穴の両脇に板を渡すそうで」
「そうか」
土方は少しだけ安心した。
「なら、三つほど作らせろ」
「もう掘っております」
「何か問題でもあるのか?」
井上は苦笑した。
「いや、ふらついて落ちでもしたら、地獄だなあ、と」
土方は目を閉じた。
「……手すりも作らせろ」
その時、廊下から永倉の声が響いた。
「土方さん! 穴、もう一つ掘りますか!」
「掘れ!」
土方が怒鳴った。
「何なら五つ掘れ!」
「五つ!?」
「足りねぇ!」
「へい!」
永倉の返事が遠ざかっていく。
土方はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言う。
「……これで腹を下してる奴の厠は何とかなるが、それだけじゃねぇしな」
井上がうなずく。
「暑さに参っている者も多いです」
「食欲がねぇ奴もいる」
「眠れないという者も」
「総司の、あれは肝が冷えた」
二人の間に、今度は笑えない沈黙が落ちた。
沖田総司は、先日、猛暑の中で稽古をしていて、ひどい暑気あたりを起こした。
一時は意識を失った。
幸い一命は取り留めたものの、以来、床に伏せたままである。
土方が、低い声で言った。
「……隊全体が、夏にやられてやがる」
「ええ」
井上が静かに答えた。
「何とかせにゃなりませんな」
その時――
ようやく厠の木戸が開いた。
近藤勇が、腹をさすりながら出てきた。
「……待たせたな」
「遅ぇんですよ!」
原田が飛び込む。
近藤は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん」
その姿を見ながら、土方が言った。
「近藤さん」
「何だ」
「もう少し節制してくださいよ」
「……努力する」
近藤は神妙にうなずいた。
そして、ふと表情を改めた。
「だが、歳」
「何だ」
「このままではいかん」
土方も黙って近藤を見る。
「隊士たちの健康こそ、第一だ」
近藤は腹をさすりながら、真面目な顔で続けた。
「食事も、水分も、休養も。誰かがきちんと気を配らねばならん」
土方は嫌な予感がした。
近藤が、ゆっくりこちらを見る。
「……誰か、いないか?」
「俺は忙しい」
即答だった。
「まだ何も言ってねぇぞ」
「言う前に断った」
井上が苦笑する。
「私も無理ですよ。総司のこともありますし」
「そうか……」
三人は黙り込んだ。
やがて土方が、ふと思い出したように言った。
「……伊東先生はどうだ」
近藤の顔が明るくなった。
「ああ、伊東か!」
「学問もある。養生の知識も豊富だ」
井上もうなずいた。
「何より、あの方は理屈が立ちますからなぁ」
土方は腕を組んだ。
「理屈が立つ奴なら、何とかなるだろう」
こうして――
伊東甲子太郎が、健康管理係に任命された。
その頃、伊東本人はまだ知らなかった。
自分がこれから、
濁った水桶と戦うことになるとは。




