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第三十一話『今』

三人の声を最初に受け取ったのは、透だった。


「……!」


「どうしたの?透」


透は耳の後ろに両手を当て、目を細めた。


「……なんか聞こえないか?」


ハコも同じ姿勢をとる。


「……あっ…聞こえる!日和…?日和の声だ!……正司の声もする…それに、お父さんも!」


ハコの瞳が一気に潤む。うれしさと安堵がいっぺんに込み上げているようだ。


「……帰る方法…帰り方がわかるのか!?」


透は勢いよく立ち上がった。そして、よりしっかりと聞き取ろうと、目を閉じた。


「……強く願う……『帰りたい』と……純粋に」透は日和の言葉を復唱した。


「それだけ?でも、だったら──」


ハコは口をつぐんで、目を伏せた。


(それだったら、もう何度も考えてる……)


ハコの沈黙の意味を悟った透は、静かに口を開いた。


「『想いの純度』の問題、かもな」


「想いの純度……そっか。子どもの頃に自然に帰れたのは、『帰りたい』って素直に想うことが当たり前にできてたからだ。きっと今は、余計なことを考えてるんだ……」


「じゃあさ、楽しいことを考えよう!そしたら、素直に帰りたくなるって!」


「うん!……楽しいこと…楽しいこと…」


ハコは眉を寄せ、真剣に考え込んでいた。しかし、その真剣さが逆に透を不安にさせた。


──ビリッ、ビリッ──


日和は音に敏感に反応した。透とハコの腕のほうを確認すると、マジックテープが半分ほど剥がれ、ペンダントの革紐が、今にも外れそうになっている。


それだけではない。透の手をあまりに強く握り続けたせいで、日和の手は先ほどから感覚がしなくなっていた。日和の握力はすでに限界を超えていた。


透とハコの耳にまた声が届いた。日和の声だ。


『透!ハコ!お願い……急いでっ!』


ハコは、意識を集中させるため、ぎゅっと目を閉じた。呼吸が上がり、脂汗をかいている。


「……だめ。なにも起こらない……」


透がハコの顔を見ると、彼女の顔はすっかり青ざめていた。


「透、どうしよう……。このまま帰れなかったら……」


「大丈夫。俺も楽しいこと一緒に考えるからさ、ハコももう一度やってみよう」


ふたりは目を閉じて必死に考えを巡らせた。何度も何度も……。


それでも、なにも起こらない。


ハコは悔しさを込めて地面を叩いた。しかし意識の体のため、叩いても音はしなかった。


「なんでっ……!?なんでなにも起こらないの!?」


透は少しの沈黙のあと、口を開いた。


「ハコ。なにを考えてた?」


「──小三の『あの夏の思い出』。それに、『高校生の夏の思い出』だって!他にもいろいろ思い出した!みんなとの思い出、大切な思い出。全部、全部、ぜんぶっ!……楽しいはずなのに……」


ハコはその場にうずくまった。彼女がこぼした涙が、地面に斑点模様を描いている。


──透は自分が本当はなにをすべきなのか、心ではわかっていた。


本来なら、河原でハコから想いを打ち明けられた時点でするべきだったこと。


いや、もっと前だったのかもしれない。


……しかし、怖かった。もし、そのせいでハコを傷つけてしまったらと思うと、恐怖で体が硬直した。


自分にはそんな資格はないと、最初から決めつけていた。


でも正司が、日和が、理人がそうしてきたように。


そして今は混乱しているが、ハコだってそうした。


今度は自分が、『自分と向き合う』番だ──。


透は大きく深呼吸をした。


丘の上の澄んだ空気は、透の心の余分なものを綺麗に洗い流してくれた。


透は静かにハコの正面へ歩み寄り、そっと膝をつく。


そして、ハコの体を両手でしっかりと抱きしめた。


ハコは驚いた表情で固まった。しかし、それはごくわずかな時間のこと。


すぐに透の体温が全身に伝わってきた。その暖かさは彼女の心臓へと届く。


お互い意識の存在なのに、相手の体温が伝わるなんて──。


──いや。むしろ意識だけの存在だからこそ、『本当の感覚』が伝わるのだろう。


ハコは深く息を吐いた。体の緊張がほどけ、氷がゆっくり溶けるように、自分の体が溶けていく感覚だった。


ハコは腕を上げ、透の背中に手を回す。そして、思いっきり抱きしめ返した。


──どれほどの時間が経ったのだろう。


抱きしめ合うふたりは、お互いの体温がひとつに溶け合っていくのを感じていた。もはや体という『外殻』は意味を持たず、ただ心だけが触れ合っている。


透はハコからゆっくりと腕を解き、ハコもそれに合わせた。


ふたりは立ち上がった。お互いの顔を見合い、頷く。


「帰ろう。ハコ」


「うん、帰ろう」


ふたりは静かに手をつなぎ、そっと目を閉じた。


──ハコはようやく気づいた。


本当に大切なのは過去の思い出ではない。


『楽しいと感じる今この瞬間。愛おしいと感じる今この刹那』なのだ。


もう、自分を過去に縛りつけなくていい。もう、自分の想いを閉じ込めなくていいんだ。


私が生きたい世界は心の中にちゃんとある。私が生きたいのは、『今ここだけ』──。


ふたりを光が柔らかく包んだ。


「──!」


透は目を覚ました。


頭を上げると、こちらへ顔を向けたハコと目があった。ふたりとも無事に帰って来れたようだ。


「透!」


下を見ると、日和が必死に自分の手をつなぎとめてくれている。日和だけじゃない。正司も理人もだ。


「透!ハコの手を!」


──ビリリッ!


はっとした透は、ハコをつかんでいたはずの自分の手を見る。ぎりぎりでつなぎとめていた革紐は、今まさに外れようとしている。


そして次の瞬間、ついに紐が外れてしまう。


──パシッ!


間一髪。透はハコの手をつかんだ。


「ふぅー……」


日和は胸の奥から安堵の息を吐き出した。


しかし、悠長にしている場合ではない。自分の手もこれ以上はつかんでいられない。


「正司!ふたりとも起きた!引っ張って!!」


日和の声を受けて、正司は理人に呼びかけた。


「理人さん!俺を引っ張って、腰を持ってもらえますか!?」


「わかった!」


理人は正司の手を目一杯の力で引いて体同士を近づけ、両腕を腰に回してしっかりと捉えた。理人の体重も乗ったことで、正司の両足はどっしりと地面に着いていた。


理人は叫んだ。


「OKだ!」


理人の声を受け、正司は全員に大声で呼びかけた。


「よしっ!みんな絶対手を離すなよ!!」


──これが最後だ。正司はそう思った。


(すべての力を使い果たしてでも、みんなを守る!)


「ふぅぅぅー…」


正司は口をすぼめ、肺の中の息をいったんすべて吐き出し、鼻から一気に吸い込んだ。


そして──。


「うおぉぉぉぉっ!!」


正司は喉が裂けるほどの雄叫びをあげた。全身全霊を込めた熱い力が、自身の胸の奥深くから両腕へと一気に流れる。正司はその力で腕を交互に引き、綱引きの要領で日和の腕を引っ張った。


日和の体はどんどん地上へと近づいていく。当然それに連動して、透とハコも降下していった。


そうして、正司は残された体力と、そこに精神力を乗せ、限界を超えた力で全員を無事に地上へと引き戻した。


「みんな!急いでこの場から離れるんだっ!」


理人の指示に従い、五人は一斉に丘を駆け降りた。


五人の荒い息づかいだけが、あたりに響いていた。


「あっ、見て……!」


日和は丘の上空を指さした。四人は一斉に指さすほうを見上げる。


すると、ちょうど雷を包む光の膜が、これまでとは違う、柔らかな光を放ち始めたところだった。その膜は、やがて玉のような状態になり、雷を包んだまま静かにしぼんでいく。そして、ついにはビー玉ほどにまで小さくなり、パンッと弾けた。弾けた玉は無数の光の糸となって四方へ飛び散り、やがて静かに大気へ溶けていった──。


「雷が……消えた……」


理人は呆然とその光景を見つめていた。


あたりの黒雲は風によって流され、雲の切れ間から差し込んだ日の光が、町を優しく包んだ。


それは、町の危機が去ったことを知らせていた。


「町の人たちは無事?」ハコは理人に確認した。


「そう……みたいだ」


理人は自分でも信じられないという感じだ。


「ほんと!?やったぁ!!」


ハコは思わずその場で飛び跳ねた。


「まじで、私たち最強じゃん!」


日和も釣られて飛び跳ね、ハコとふたりで手を合わせている。


「あぁ!俺たち『ナギノセーバー』なら、なんだってできる!」


正司は腰に手を当て、胸を張った。


透も達成感に浸っていた。


日の光を受けた五人の腕章は、それぞれの想いを宿して輝いていた。


理人は車を回すため、ひとり先にワゴンへ戻った。


運転席に乗り込んだちょうどそのとき、ダッシュボードに入れていたスマホの着信音が鳴った。スマホを取り出し確認すると、沙耶からだった。


「もしもし!?白凪さん!?あー、やっとつながったぁ!」


「先生。つながりましたよ!あ、ちょっと代わりますね」


「……白凪くん」


電話から聞こえてきたのは氷室の声だ。しかし、どこか雰囲気がいつもと違うと理人は感じた。氷室の声には柔らかさが宿っていた。


「教授。意識が戻られたんですね」


「あぁ。君たちのおかげだ、礼を言う。……ところで雷はどうなった?」


「今先ほど、消えました」


「そうか……それも『彼女の力』のおかげだな」


少し間を置いて、氷室は話を続けた。


「──私が意識を取り戻したあとも、雷には私の『執念』だけが残り続けた。そこへ──彼女から放たれた『強い意思』。それが光の波となり、執念をまとった雷の波長と干渉し、打ち消したのだ」


「そ、そんなことまでわかるんですか……」


「ふっ……なんてな。私の『勘』だ。ただの憶測さ」


「教授も勘とか言うんですね……」


「私が研究で一番大事にしていたのは自身の勘だよ。そして、この町は救われた」


「まだ町には迷い人が残っています。救われたと言うには早いですよ」


「私の勘が告げている。この町は──彼女と、そして君たちに救われた。無論、私もね」


想定外の氷室からの賛辞の言葉に、理人は思わず、ふっと小さく笑った。


──氷室の勘は本当になった。


理人が透たちをワゴンに乗せ、車を走らせていると、後部座席の透・正司・日和の三人がなにやら騒いでいる。


「本当に!?それってすごくない?」

「本当だって、ほら──」

「どうやら本当のようだ。驚いたな……」


助手席のハコが後ろを振り返った。


「え?どうしたの?」


透はスマホの画面をハコに見せた。


「迷い人が次々と回復してるって。症状が重い人も、なにごともなかったみたいに戻ったって」


ハコの表情に安堵と喜びが浮かぶ。


「そうなの!?すごい!じゃあこれで──」


透は静かに頷いた。


「ああ。ようやく、すべてが終わったな」


その場の全員が顔を見合わせ、笑顔になった。


このとき、理人は氷室が電話で話した、『ハコの意思が雷を打ち消したこと』を本人に伝えようとしたが、喉まで出かかってやめた。


(これは葉子がひとりで成し遂げたことではない。みんなで成し遂げたんだ)


理人はワゴン中に響くような声で豪快に言った。


「よしっ!みんな!今夜はうちで祝賀会だ!」


「やったぁ!鍋しよ鍋!」ハコはきゃっきゃっ、とはしゃいだ。


「鍋か、いいな!言うまでもないが、野菜はたっぷり入れないとな!」正司は持論を展開し、


「なんでだよ?肉だろ肉!」と透がツッコミを入れた。


日和は自分が一番食べたいものを伝えた。「あのさ、一緒にポテトも買っていい?」


そして、理人は大きな声で言った。


「じゃあ、途中でスーパーに寄って帰ろう!」


五人は白凪宅のリビングで食卓を囲い、鍋パーティをした。


各々のリクエスト食材をすべて入れたため、溢れんばかりの具材で鍋は埋め尽くされていたが、一時間後には綺麗に空になっていた。


「ふぅ……食った、食った」透は満足げにお腹をさすった。


「にしても、よく食い切ったな日和……」


爪楊枝を口に咥えた正司は、日和の食いっぷりに驚いていた。日和はみんなと鍋を食べたあと、ひとりで冷凍ポテト一人前を完食し、食後のデザートのプリンまでしっかり堪能していた。


「いいの、いいの〜。もう夏休みも『最後』なんだから、思いっきり楽しまないと!」


日和はケラケラと笑っている。


「そっかぁ……もう夏休みも終わりかぁ」


ハコは天井を見上げ、しみじみとつぶやいた。


「………」


一瞬、全員が黙りこんだ。感傷に浸っているわけではない。なにかを忘れているからだ。


最初に思い出したのは透だった。「あっ!明日って…!」


続けてハコ。「そうだ!『夏祭り』!!」


日和は誰よりも慌てた表情をしていた。


「わ、忘れてたぁ!!」


「ははっ!まぁ仕方ないさ、あれだけのことがあったんだから」理人は笑いながら言った。


「……お、俺は覚えてたぞ?」正司は目を細め、少し照れたように言った。


雰囲気を察した理人が、椅子から立ち上がった。


「じゃあ、今日はもう解散にしようか。明日の『夏休み最後の締め』に影響がでないようにね。家まで車で送ろう」


理人の運転するワゴンは日和、正司の順に降ろし、最後に透の家へと向かっていた。広い車内の一番後ろの席に、透とハコが横並びに座って話をしていた。


「明日で夏休み、終わりだね」


「三学期になると、進学先とか意識し始めるだろうし、みんなで揃うのも難しくなるかもな」


「なんだか寂しいね」


「まぁ……でも、たとえ離ればなれになっても、俺たちのつながりは切れないさ。そんな薄っぺらいもんじゃない」


「そうだね」


「あ、つながりといえば……」


透はシャツの首元を引っ張って、内側から『ビー玉のペンダント』を取り出した。


「日和から聞いた。このペンダントが俺とハコを『つなぎとめてくれた』んだって」


「ペンダントが?」


「ハコのおかげだよ。ありがとう」


「そんなことないよ。透が私にビー玉を渡してくれたから」


「そういえば、そうだったな……にしても、なんで俺ビー玉なんか持ってたんだろう?」


ハコは驚いた。そして、透の顔を見て言った。


「え……。『思い出して』買ったんじゃないの?」


透は不思議そうな顔をしている。


「思い出すって、なにを?」


「………」


「まぁ、なんにせよ。こいつが俺たちをつなぎとめてくれたんだ。にしても、あのときの正司の怪力はすごかったな!」


「……う、うん。すごかった!」


「『綱引きで鍛えられたおかげだ!』なんて言ってた」透は正司のモノマネをした。


「ふふっ、似てるかも」


少しの沈黙のあと、透はおもむろに口を開いた。


「そういえば、『あの声』ってなんだったんだろう?聞き覚えのある声にも感じたけど、どうしても誰なのか思い出せないんだよなぁ」


「私にもよくわからない。でもいつも私たちを導いてくれたよね」


「もしかして、『未来の俺たち』だったりして」


透はそう言うと、にっと笑った。ハコもそれに釣られて微笑んだ。


透の自宅前にワゴンが止まった。透がワゴンを降りる際、ハコは「また明日」とだけ言い、透も「また明日」とだけ返して別れた。


来た道を引き返すワゴン。ハコは車内のシートに身を預けながら、自分の手のひらをじっと見つめていた。


(もしかして……)


「葉子、どうしたんだい?車に酔ったかい?」


理人がバックミラー越しにハコに声をかけた。


「大丈夫。なんでもない」


その晩、ハコはベッドの上で本を読んでいた。


本のタイトルは『小さな星』。


どうしても気になって、最後に返却した翌日に、また借りに行っていたのだ。


最後まで読み終えたハコはそっと本を閉じ、ベッドに仰向けに横たわった。


──小さな星は、『モノに縛られない心』を大事にしていた。


それをわかち合える相手、共鳴できる相手を失い、心を閉ざしてしまった。そして、同じ心を持った少年と出会えたことで、また元気を取り戻した。


氷室は叶の想いを再現しようと、研究と実験に取り憑かれ、心を縛られてしまった。


結局、氷室は『想いの再現』には至らなかった。それでも、並行世界の自分と叶の仲睦まじい姿を見て、縛られていた心の鎖が切れ、解放された。


──そして、私は──


ハコはそのまま、静かに目を閉じた。

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