第三十話『ラベンダーの花畑』
──気づくと、ふたりは丘の上にある、ラベンダーの花畑にいた。あたりを紫に染めるラベンダーからは、甘い香りが漂っている。空は綺麗に澄み渡っていて、入道雲が遠くに見えた。
「これが並行世界……」透は自分の手を見た。
入り口にいたときとは違って、ちゃんと自分の手がある。足も見える。ハコの姿だってはっきりわかる。
「体が戻った……?」
驚いた透がそうつぶやくと、ハコは微笑んで言った。
「ちゃんと存在してるみたいでしょ?でもこの世界のモノには触れたりできないの。ただ感じ取ることはできる」
「──透。あそこ」
ハコが指さした先には、白い洋館の窓の前に佇む、氷室の姿があった。見た目からは判別できないが、それが『意識の氷室』であると、透は感覚でわかった。
氷室は、窓の外から中の様子をうかがっている。
透とハコは、気づかれぬよう木陰へそっと回り込み、氷室の背中越しに中の様子をうかがった。
家の中では、この世界の氷室と叶が、ソファの上で一冊の本を共有して読んでいた。肩を並べて寄り添う、仲睦まじい夫婦の姿が、そこにあった。穏やかで静かな時間が流れている。
透とハコはお互いの顔を見た。そして、ふたりで木陰から出た。
すると意識の氷室は、ふたりに気づいて振り返った。
「まったく……。どこまでも詮索が趣味らしいな」
しかし、そう言う氷室の表情はどこか柔らかい。
ハコは氷室の顔を見た。「確認……できた?」
「ああ……」
そして、氷室は遠い目をして語り始めた。
「──叶は不治の病で、当時の医学ではどうしようもなかった。私は、科学でどうにか叶を救えるのではないかと考えた」
「できる限りのことはすべてした。だが、叶の状況は良くなるどころか悪化する一方。せめて空気の綺麗なところへと思い、ふたりで彼女の故郷・凪ノ町へ移り住んだ……。もう、十七年も前のことだ」
「『叶は私を恨んでなどいない』。そんなことは最初からわかっていた。……ただ、私は確かめたかった。自分のこの目で──」
「叶は私のすべてだった……」
しばらく、沈黙が流れた。
ラベンダーの香りが風に乗り、透たちのところまで癒しを届けに来た。
透は氷室に静かに言った。
「帰ろう。元の世界へ」
「私に帰る場所などない……。ここしかない」
氷室の目は寂しそうだった。その目を見たハコは氷室に言った。
「でも、あなたが帰らないと町が危険なまま。お願いだから私たちと一緒に帰って」
「……」
そのままハコは、氷室に優しく語りかけた。
「元の世界にも、お花畑があった……。あのお花畑だって、あなたと叶さんの思い出の場所じゃないの?」
「………」
「それだけじゃない。あなたの日誌には叶さんとの思い出がいっぱい詰まっていた。最後は看取ってあげられなかったけど、あなたは叶さんとの時間をちゃんと大切にしてた」
ハコの頬に涙が伝った。
「──あなたにだって帰る場所、あるよ……」
「…………」
沈黙のあと、氷室はようやく口を開いた。
「……どのみち、私は帰って罪を償わねばなるまい。その間、家の管理をお願いできるか?」
透は頷いた。「あぁ。俺たちがちゃんと管理するよ」
それを聞いた氷室は、透とハコの顔を交互に見て言った。
「そうか……よろしく頼んだ──」
氷室の体はぼんやりとした光に包まれ、すーっと薄くなっていった。
透には、消えゆく氷室が一瞬、朗らかに笑ったように見えた。
そして、『意識の氷室』は跡形もなく消えた。
透はハコに聞いた。
「消えた……ってことは」
「帰ったんだと思う。元の世界に」
「よかったぁ〜……」
透の肩の力が一気に抜けた。
「じゃあ、あとは俺たちが帰ればいいだけだな!」
「うん!」
「それで、どうやったら帰れるんだ?」
「……」ハコはモジモジとしてうつむいている。
「……それなんだけど、えっと……。実は、よくわからないの……」
「えぇ!?何度も並行世界に来てたんだろ?」透は目を丸くした。
「だって、あのときは小さかったし、気づいたらいつも帰ってたし……。今回も、解決したら勝手にみんなで帰れるんだって思ってたんだけど……」
「どうすんだ俺たち?」
「どうするって言われても……」
「……はぁ。まぁ、ここで言い争っても仕方ないよな」
透は地面に腰を下ろした。
「一緒に考えよう。帰る方法」
「うん」
──そのころ、元の世界では、日和たちが引き続き、手をつなぎ合って耐えていた。
「日和…そっちはどう…だ?」
正司は自分の体力よりも、日和たちを気にかけていた。
「私は大丈夫。でも、ハコと透の手が……」
透の強い意志のおかげで、意識を失ってなお、彼の手はハコの手をつかんでいた。しかし、それもそろそろ限界がきている。ハコの小さな手は、今にも透の手から抜けてしまいそうだ。
「なんでふたりは目覚めないの……?私はすぐに目覚めたのに……」
すると突然、上空の雷龍の姿が光の膜の中で、ゆらゆらと揺らぎ始めた。そして、ついには原型をとどめられずにただの光の集合体となった。
「龍が……雷に戻った……」
一番下で全員を支えている理人は、上空を見上げてつぶやいた。氷室の意識が龍から抜け、形を留められなくなったのだと彼は察した。
しかし、あまり状況が好転したわけではない。純粋な雷エネルギーに戻ったとはいえ、ハコの作った光の膜に閉じ込められたままのため、依然として、上空へ引き上げる力は消えない。
その間も日和は考えていた。──自分が先ほど観た光景、あれはきっと夢ではない。おそらくあれが、ハコが観ることができるという並行世界なのだ。
「きっとふたりは並行世界に行ったっきり、帰り方がわからなくなってるんだ……」
日和がそうつぶやいた、そのとき──
透の手からハコの手がするりと抜けてしまった。
「あっ!!」
思わず日和は叫んだ。
ところが、ハコの体は透から少し離れたところですぐに止まった。
「……止まった?」
日和は透の腕を確認した。
すると、透の手首に巻かれていたペンダントの革紐が、ハコのグローブのマジックテープの隙間に入り込み、奇跡的にしっかりと引っかかっていた。
「あ……危なかった〜」
日和の声が漏れた。
とはいえ、油断はできない。引っ張られ続ける力には抗いきれず、マジックテープは──ビリッ、ビリッ──と音を立てながら、少しずつ剥がれていっている。
日和は目を閉じて考えに集中した。
どうやって帰った?最後はどうなった?
「私は──絵を描きたいって思った。今すぐ帰らなくちゃって、強く願った……」
──そうか!
日和は上方の透を見た。並行世界にまで伝わるかわからないが、一か八かだった。日和は鼻から一気に息を吸い、肺を膨らませた。そして、めいっぱいの大声で呼びかけた。
「透!ハコ!聞こえる!?並行世界から帰れないんでしょ!?帰る方法は単純だよ!」
「迷いを捨てて、『帰りたい』って強く願うこと!それだけっ!ただ『帰りたい』って純粋に願うの!」
日和は同じセリフを繰り返した。どれだけ離れているかもわからない相手へ届くように、大きな声で、何度も何度も。
「日和──」
その様子を見ていた正司は、日和の意図を汲み取った。
「透っ!ハコっ!日和の話を聞けぇぇっ!!」
正司は腹から大きな声を出し、空に向けて何度も言い放った。
理人は、日和と正司の必死の呼びかけに胸を震わせた。普通に考えれば、ふたりの声が並行世界に届くはずはなかった。それでも、理人はなぜか届くと感じていた。理屈を越えた直感が、そう告げていた。
「葉子!透くん!──」
気づけば、理人も声を張り上げていた。




