第二十九話『だって、『私』だもんね』
(──あれ?ここって……)
日和は制服姿で、公園の芝生の上にひとり立っていた。昼の青空がとても心地よい。
公園の中では、キャッチボールをする親子やランニングをする人の姿があった。少し離れたところでは、子どもたちがアイスを売るキッチンカーに群がっていた。
(私、なにしに来たんだっけ?)
とりあえず日和は、気の赴くままに歩き出した。芝生を抜け、その先の歩行者専用道を渡ると、大きな木造の建物が現れた。入り口上部の壁には『日向野町美術館』と文字が彫られている。そのまま美術館の自動ドアの前へ進む。だが、ドアは反応しない。ちょうど、後ろからやって来た、中年の女性に乗じて中に入った。
そして日和は、エントランスの告知ボードの前で足を止めた。そこには『第三四回 夏季県展』というポスターが貼られている。
(あぁ。そうだ。これを見に来たんだった。……あれ、夏季?秋季じゃなかったっけ?……まぁいいや)
そのまま受付カウンターまで進み、「高校生一枚お願いします」と受付の女性に伝えた。しかし、女性はこちらに目もくれず、隣席のスタッフと世間話を始めた。
(え……?)
すると、日和の後ろから男性がカウンターへとやって来た。彼は日和の『体をすり抜け』、受付でチケットを購入した。
(あぁ、これ夢か……)
日和はカウンターから離れ、そのまま県展の展示室へと入った。
広大な展示室には絵画、彫刻、現代アートまで実に様々な作品が並べられていた。日和は順路に従って、作品ひとつひとつに目を通していく。この県展では、県内在住者であれば年齢や経歴を問わず出展が可能で、賞は各部門ごとに分けられている。出展のハードルがそこまで高くはないとはいえ、多数の作品の中から受賞することは、それなりの名誉だった。特に学生にとって、県展の受賞は『第一歩』と言えた。
日和はとあるブースの前で足を止めた。そこは同じ学校の生徒作品が多く並ぶ、『デザイン部門』のブースだった。このとき、自分の作品のことが頭をよぎる。気づくと、心臓の鼓動が早くなっていた。
(なに緊張してんの私?どうせ夢じゃん……)
だが、鼓動は早くなる一方だ。緊張を抑えることを諦めた日和は、絵の並ぶ壁を、順路に沿って左から右へと進み始めた。
日和の視線は壁の絵ではなく、絵の下に添えられている、作者名が書かれた『作品プレート』だけに向けられていた。他の生徒の作品に興味がないわけではない。しかし、見るのが怖い。実力の差を思い知らされ、どうせ落胆するだけだ。もう、わかりきっていることだ。
──それでも、この名前を見過ごすわけにはいかなかった。
『桂木 ナツメ』
日和はゆっくりと顔を上げる。
真っ青に塗られた大きなキャンバスには、白いドラゴンが下方の雲を突き抜け、まっすぐ天へと舞い上がる様子が描かれていた。空と雲とドラゴン。描かれている要素はたったこれだけなのに、その絵が物語るストーリーは膨大で、長編ファンタジー小説を一気に読破したような満足感があった。圧倒的画力、圧倒的存在感、圧倒的センス。どの部分を切り取っても学生の域を超え、見る者を別世界へ誘う力があった。
ここまで差があると、もはや比較して落ち込むことすらできない。むしろ、日和は素直に感動していた。そして、今さら驚きもしないが、ナツメの作品プレートの横には『美術会大賞』と書かれた金色の紙が貼られていた。
日和は絵が並ぶ通路の行き止まりまでたどり着いた。それはブースの終わりを意味していた。しかし、最後まで自分の作品はなかった。
(まぁ、そりゃそうだ。期待するほうがおかしいよ……)
日和は少し落胆しながら右足を引き、回れ右をしようと体をひねった。
──そのとき、右手の壁に一枚だけ取り付けられていた作品プレートが目に留まった。正確にはそこにある作者名が。
『柚木 日和』
日和は息を呑んだ。そして、ゆっくりと視線を上げ、そこにある絵を見た。
その絵は、二本の人の腕が、光を優しく包み込む様子を描いたものだった。柔らかく、暖かさにあふれたその絵を観ていると、日和の心の緊張はほぐれていった。絵自体には技術的な巧さや迫力があるわけではなかった。なんなら、構成はありきたりとも言えるだろう。それでも、日和はしっかりと感じていた。その絵から発せられているメッセージを。なぜなら、そこにあるのは、日和の心のかたちを素直に描いたものだったからだ。生き生きとした、自分の『ありのままの心』だった。
しばらくの間、絵を見つめていた日和は、静かに口を開いた。
「うん、ちゃんと伝わる。あなたの表現したいこと。だって、『私』だもんね」
いつの間にか、目に涙が溜まっていた。そして涙は一気にあふれ、頬を伝った。
──日和はこれまで、自分は『空っぽ』だと思い込んでいた。しかし、絵を見た途端、自分の中に『ずっとあった純粋な心』に触れることができた。内側に愛が満ち、あふれていくような感覚を全身で感じた。今の日和は、自分をぎゅっと抱きしめてあげたいという気持ちになっていた──。
日和は両手で涙を拭い、もう一度、絵に向き合った。
「思い出させてくれてありがとう。『もう私は私を忘れない』。帰ったらすぐに絵を描かなくちゃ。今度は私の絵を!」
次の瞬間、視界が白く染まった──。
「──!」
日和は目を覚ました。
(さっきのは夢……じゃない?もしかして──)
日和が顔を上げると、自分の手は、かろうじて透の手をつかんでいた。離してしまわないように、慌ててぎゅっと握り締める。
(そうだ……!透とハコを守らなきゃ!)
「日和!目が覚めたのか!?」
正司の声だ。日和は下へ顔を向けた。
「うん!ごめん!でも私はもう大丈夫だから!」
「よかった!透とハコはどうだ!?」
日和は上方のふたりを確認する。しかし、どちらも動かない。透とハコがつなぐ手は、今にも離れてしまいそうだ。
「ふたりともまだ気を失ってる!急がないとヤバいかも!」
日和が気を失うよりも少し前のこと。透の意識は体から抜け、不思議な空間を漂っていた。
──そこは、まるで宇宙だった。
遠くのほうには点のように小さな星々が、自分の周りには手のひらサイズの光の玉が浮かんでいる。なんとなくではあるが、ここは夢ではないと透にはわかった。
こういうとき、『あの声』が頭に届くのではないか?透はそれに期待していた。きっと声が導いてくれるにちがいない。
そんな透の期待とは反対に、あたりはしんと静まり返っていた。上下も左右もわからない、どこまでも続くこの空間で、透は急にひとりぼっちになったようだった。そう思うと、背筋にすーっと寒気が走った。
「透……?そこにいるの?」
静寂の中で確かに声がした。今の声……。ハコ?
「ハコー!!」透は、ありったけの声で叫んだ。
「透!こっち!」
透は声のほうを振り返った。というより、意識を向けた。すると少し先に、ぼんやりとした光が宙に浮かんでいた。はっきりとした形を留めているわけではないが、透はその光がハコだとすぐにわかった。
「ハコ!」
透の意識は、ハコへと必死にもがき近づいた。
「透……。よかった!無事だったんだ!」
ハコはうれしさで声が震えていた。
「ハコも……。とにかく、会えてよかった!」
この状況が無事と言えるかはわからないが、ひとりじゃないとわかるだけで、こんなにも勇気が湧いてくるものなのだと透は実感した。
ハコは透に、今いる場所は並行世界の入り口であることを説明した。そして、自分の身に起こった『異変』についても話した。
「雷がこっちへ向かってきた瞬間、もうだめだって思った。でも声がしたの、《大丈夫だよ》って。そして気づいたら、光の膜の中にいた。……不思議と怖くなかった。でも龍が雷を落とすたびに、龍の中にいるあの人の『心の悲鳴』が聞こえて……助けたいって思った」
「──そうしたら力が湧いてきたの。こんなの初めて。でも、力はどんどんふくらんで、もう自分でも止められなかった……。たぶん透も、その力に巻き込まれたんだと思う」
ハコの話を聞いた透は静かに言った。
「そうだったのか。でも俺が巻き込まれたのは、ハコのせいじゃないよ。きっと意味があるんだと思う」
「ありがとう。でも巻き込まれたのは透だけじゃないみたい……」
ハコはそう言って、ふたりの下で光る、紫色の玉を見つめた。
「さっき『あの人の意識』を見たの……。向こうは私に気づいてないみたいだったけど。あの世界に入って行った」
『あの人』、つまり氷室が並行世界に……。透は頭の中で冷静に状況を整理した。
──『観たい世界を引き寄せる』。並行世界の入り口では、そんな夢のようなことが可能だった。
氷室が観たい世界。それは言うまでもなく、妻の叶が生きている世界だろう──。
透はハコに確認した。
「だとすると、これで解決……なのか?」
「でもあの人は多分、あの世界から出てこない。……もう二度と」
ハコの顔は憂いているようだった。ぼんやりした光の姿でも、透には相手の顔が見えるように感じていた。
「出てこないって……。じゃあ、あの龍はどうなる?元の世界の」
「……わからない。消えてくれるかもしれないけど、最悪エネルギーだけが暴走して──」
ハコはそこまで言って、口をつぐんだ。
透はそっとハコの目を見て言った。
「それじゃあ、連れ戻さないといけないってことだな。俺たちで。でも、俺たちの声があの人に届くだろうか……」
そこでハコは、透に氷室についての自分の考えを伝えた。
「あの人が図書館で本を読んでるのを見たの。お父さんが返そうとしてた『あの本』。私も読んだけど、自然の神秘や美しさを、大事にしようって書かれた本だった。……本当は町や人の生活を壊してしまうようなことまでは、したくなかったんだと思う。だから、あの人の心に訴えかければきっと──」
透はハコの話を聞いたあと、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「──行こう」
ハコも透と目を合わせて頷いた。
「うん。行こう」
意識のふたりは手をつないだ。そして、ハコは氷室が入った世界を観たいと願った。
すると、紫の光の玉はふたりへとすーっと近寄り、光とともにふたりを迎え入れた──。




